2004/8 No.321
時報:前号> 次号 バックナンバー Back to Home

<教区時報 2004年8月号の目次>

・1 決意を新たにするミサ

・2  司教書簡  京都司教 パウロ大塚喜直
「子供たちに生きた信仰教育を行う『教会文化』を創造しよう」
  2003年ブロック司教訪問を振り返って
 

・3  ブロック紹介三重北勢ブロック、京都北部舞鶴ブロック:
 
・4  福音センターニュース 
   ・ 養成コース:病院訪問U〜私が隣人となる〜
   ・私の福音宣響


・5 奈良地区聖書講座「み旨が地にも!」6/25・26
         「糧」(いのち)   西野猛生神父

・6 
こんにちはシスター :
     カロンデレットの聖ヨゼフ修道会本部修道院 (その一)

・7 良書紹介 「小さくされた者の側に立つ神」

・8 青年センターあんてな: ネットワーク・ミーティングに参加して

・9 大塚司教の8月度のスケジュール

・10 お知らせ

決意を新たにするミサ 


 正義と平和の源である神よ、あなたは争いを憎み、思い上がる者を打ち砕かれます。世界を悪の力から守り、苦しみと涙を私たちから取り除いてください。すべての人があなたの子どもとして平和のうちに生きることができますように。
  (「平和を願って」のミサの集会祈願)

 イエス様が命をかけて実現しようとなさったことは、例外なくすべての人の生活から、あらゆる不自由と圧迫と差別を取り除くことでした。キリストを信じ、キリストに従おうとする私たちは、イエス様と同じ境遇に甘んじる覚悟と決断が必要です。

 ミサの聖書朗読において告げられるみことばを、今日の自分の生き方と社会の生活にぶつけて聞き、生きた神の声、神の望みを聴き取ることができたなら、ミサはキリストの戦いにあずかる決意を新たにする場となるのです。
(外崎豊)

(写真は、聖香油ミサでの、「司祭・助祭候補者認定式」の場面です。)

時報TOPに戻る

司教書簡      
「子供たちに生きた信仰教育を行う『教会文化』を創造しよう」

2003年ブロック司教訪問を振り返って
2004年6月29日 聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日 京都司教 パウロ大塚喜直


はじめに
 私たちのカトリック信仰を次世代へ伝達するための子供および青少年への信仰教育は非常に大切です。京都教区では昨年二〇〇三年『信仰共同体を体験しよう』という努力目標の具体的な実践として、「子供たちの信仰教育」について考えました。

 ブロック司教訪問では各教会での子どもの信仰教育に関して、その現状を省み、共同宣教司牧ブロックにおいて「共同宣教司牧の観点」から信仰教育の協力のあり方も考えました。司教との懇談会では、小学生の子どもを持つ保護者の悩みや不安、多くの意見や要望などを直接聞き、教会の責任を痛感しました。新たな意識と姿勢でもって、教会共同体が子どもの信仰教育を共同体全体の問題として捉え、問題の解決と教育の充実のために一層の力を注ぐことによって、『共同宣教司牧』の歩みを確かなものとしなければなりません。

 この書簡では、信仰教育委員会の「教会学校部門」が昨年の司教訪問の内容とアンケートを素にまとめてくださったものを引用しています。ここで協力者の方々に感謝を表します。 

 どうか皆さん、この書簡を今後の信仰教育について、各小教区やブロックでみんなが互いに協力し合える接点を見出すための参考にしてください。

1.人生を選び取っていく人間像
 子どもの信仰教育に取り組んでいくとき、そこではカトリックの信仰を子どもたちに、どのような内容で、どのような方法で伝えていくべきかをも検討する必要がありますが、私は何よりも現代に生きる子どもたちに「どんなキリスト者になってほしいのか」というビジョンを持つことが必要だと痛感しています。その中で、「神の前で、自分の人生を選び取っていく自由な人間」というビジョンが不可欠だと思っています。それは、信仰とは人が神からの愛の呼びかけに応えることだからです。信仰教育を宗教的しつけのように捉え、祈りのことばの暗記や態度、ミサに与ること、要理習得や道徳的おきての遵守などを教えていくことにばかり気を配り、それをバロメーターにしていると、最も大切な神とのこころの交わりを体験しない「形式の信仰」を子どもたちに教える危険があります。そこには、人間がもつ真の自由が活かされず、生きる力と励ましの素となる喜びも湧いてきません。

 信仰教育とは、信仰の恵みをうけた一人ひとりが、神からの聖霊の力によって、自分で信仰を選ぶこと、自分の意志で神の前で愛の生き方を選び取る手助けをすることです。信仰教育はある意味で、人間教育です。今の私たちは、氾濫する情報と多様な価値観に囲まれています。何も選ぼうとせず、また何も捨てようとしないならば、決して自由な人間とはなれません。人生は選択の連続です。人が神から受けた愛の招きに対して、おしきせではなく自発的に応えるために、普遍的な価値観を土台にして人生を選び取っていく姿勢こそ、今のこどもたちに必要な生きる力の教育ともなるのです。

2.ブロック訪問での分かち合いから見えてきたこと
 二〇〇三年のブロック司教訪問の分かち合いの内容から見えてきたことを紹介します。まず、「子どもの教会離れ」ということをどのように受け止めているかと聞くと答えは以下のように分類できます。
 ○楽観型…「なぜ教会に行くのか」を子どもに説明できないが、成りゆきにまかせてもよい。
 ○葛藤型…子どもを教会に行かせたいが、色々なうまくいかない事情があり困っている。
 ○責任型…親としての自分の信仰が、子どもの信仰に与える影響の大きさを痛感している。
 ○不安型…ここまでの子どもの信仰教育はうまくいったが、これからのことを心配している。
 ○回心型…「教会離れ」を教会として真剣に受けとめ、共同体として取り組まなければならない。

 ここでまず大人自身の中で、「自分の信仰を守ること」と「教会に通うこと」の関係が曖昧になっている点に気づきます。その中で「子どもに信仰を伝える」ことが困難な状況から葛藤や責任を感じている若い保護者がいることがわかります。その複雑な思いは、次の意見に表れています。
 ○疎外型…子どもをつれて教会に行ったとき、教会共同体が一緒に受け入れてくれるかが親の心配である。
 ○不安型…子どもは教会に行っているが、共同体のなかでどのように扱われるのか気がかりである。
 ○不満型…子ども、とくに中学生の信仰教育が教会でなされていないので、「教会離れ」を止められない。
 ○回心型…まず大人が、もっと、キリストのことばに沿うような信仰生活を送らなければならない。

 そして実際の親たちの信仰教育に対する反省は、以下のようなタイプがありました。
 ○責任型…まず親として、自分の「子どもの信仰」を支える責任を感じているが、教会の助けを必要としている。
 ○反省型…親である自分自身に信仰が身についていなかったので、「信仰のよろこび」を伝えられなかった。
 ○葛藤型…家族間で、同じ信仰を分かち合うことがむつかしい環境にあっても、子どもに信仰を伝えたい。
 ○楽観型…子どもには、自然に神さまに導かれる感性のようなものが宿っているので、心配しない。

3.教会学校の現場の実情
 次に教会学校の現場ではどのような変化が起こっているのか、教会学校リーダーは何を感じ、何を望んで頑張っているのかを紹介しましょう。
 ○環境変化…子どもの絶対数が減少しており、また、子ども自身をとりまく社会状況が急速に変化している。
           対応が遅れているのではないだろうか? 
 ○リーダー事情…保護者リーダーが主流になりつつある。
          孤立化をふせぐために、共同宣教司牧ブロックでの協力体制やリーダー間のつながりが必要である。
           しかし、集中できない環境からの制約が続く。
 ○充実体験…子どもとともにみことばを学ぶことができる。
           子どもの輝きからたくさんの力をもらっていることが充実感の源泉となっている。
 ○研修事情…教会学校の現状は絶えず「行きあたりばったり」におちいる危険にさらされている。
          「リーダー研修会」は自分の信仰を見つめる機会となり、癒され励まされた。
 ○将来への不安と課題…司祭・修道者の減少、保護者の意識の低下、技術の未熟さなど尽きない。

 このような現状で子どもたちにかかわる教師・リーダーや親たちが希望していることは次のことです。
 ○[居場所型]の教会が必要である。同世代の仲間との交わりを通して、信仰に基づく価値観を身につけて欲しい。
 ○[信仰体験型]の教会を大切にしたい。司祭・修道者・信徒との霊的な交わりをとおして、どのように生きるかを見いだして欲しい。
 ○[ミサ参加型]の信徒育成から、ミサを生きる信徒育成へ。「教会に通う」ことと「ミサ」の関係を見直す必要がある。

4.信仰教育の二つの要素…学びと実践
 主キリストから福音を宣教し、かつ洗礼を授ける使命を与えられた教会は、最初の時代から成人ばかりではなく幼児にも洗礼を授けてきました。幼児洗礼でいう「幼児」とは、「まだ分別がつかず、信仰を自分のものとして表明することのできない者」をいいます。子どもが受けた洗礼そのものがキリスト教教育の「基礎」なので、キリスト教教育は次の二つの要素が不可欠です。つまり、子どもの成長段階に応じて、キリストのうちに示された神の計画を徐々に教え、次に、本人自身が教会の信仰を承認できるように導くことです。これが、信仰教育の目標です。子どもに神様のことを教え神の愛を感じ取らせ、彼らが自分でその神の愛に応えることができる力を身に付けさせるのです。これは信仰の原則と呼応します。つまり、人間は神からの呼びかけを知れば知るほど、それに応えて生きる道を歩むことができるという原則です。これを成人信徒の生涯養成にもあてはめると、要するに、「信仰の学び」と「生きた実践」と言えます。人はこの二つの要素を相互循環して進みます。信仰の学びとは、教理の知識の習得を直接意味するのではなく、聖書に親しむ日々の祈りの生活の中で神からの声に耳を傾ける人格的体験を指します。この体験は、おのずと人間からの自由意志による応答を要求し、またそれによって完成されます。聴くだけの人に終わらず、実行する人になるのです。(ヤコブ一・二十三、二・十四)

5.信仰を生きて伝える教会文化の創造
 私たちが今行っている信仰を次世代に伝える大切な使命の再確認は、私たちに「信仰を生きて伝えていく、新しい『教会文化』を創造する」という課題を与えてくれます。子どもの信仰教育、また成人信徒の生涯養成についても根っこは同じで、キリスト者は信仰を伝えるために生きるのではなく、信仰を生き生きと生きること自体が信仰の伝承につながるのです。

 幼児の洗礼式で「主の祈り」の招きに司祭はこう言います。「この子どもは、神の子になりました。やがて堅信を受け、この祭壇で主の晩餐にあずかり、神の民のつどいの中で、神を父と呼ぶ日がきます。きょうは、この子にかわって私たちが、主の教えてくださった主の祈りを唱えましょう」。子どもは、両親・代父母・参加者一同が宣言する教会の信仰の中で洗礼を受けます。子どもは教会の信仰の中で受洗したので、この秘跡の意味が実現されるために、その信仰の中で育てられなければなりません。この信仰とは、生きた共同体の営みそのものです。そこには、司祭や教師や親たちだけが子どもの信仰教育の責任を担うという意味はありません。今私たちが問われているのは、こどもの信仰教育に対する教会の取り組みの意識の低さ、または他人任せの教会の体質です。したがって『共同宣教司牧』の目標である「福音宣教する共同体になる」という歩みがまさに信仰教育の土台と言えます。これからの子どもたちは将来、信仰を聖職者や教師だけに教えてもらったというのではなく、教会の大人全員に育てられたという思い出を持ってほしいのです。親も含めて先輩の信徒が生活の中で行う「信仰の学び」と「生きた実践」を見て育つのです。私たちはこれを日本の教会での「新たな教会文化の創造」と名づけてもよいと思います。

6.すべての子どもは教会共同体の子ども
 自分の家庭にもはや信仰教育を施すべき子どもがいなくても、教会に来る子どもたち全部を自分たちの教会の子どもとして、その親たちと連帯して信仰教育を行う責任を教会全体で再確認した上で、「新たな教会文化を創造する」ために、私は特に異宗婚の家庭と滞日外国人家庭の親と子どもに対して共同体の特別の理解と援助が必要だということを強調したいと思います。

 ブロックでの分かち合いの中で改めて指摘されたのは、日本教会信徒の特有の状況として異宗婚の家庭での信仰生活の問題があります。親のどちらかがカトリックでない場合、ミサに行くことも含めた教会との関係や子どもの洗礼の是非、家庭での信仰教育に関して孤立している信徒が多くの困難を抱えておられます。かれらの困難さを子どもの信仰教育も含めて教会全体で受け止める必要があります。

 また、日本教会は大きなチャレンジとして多国籍の教会共同体を築く努力を続けていますが、滞日外国人信徒の多くはカトリック国からの人が多く、かれらはカトリック国でない日本社会で子どもの信仰教育を自国のようにできない戸惑いと困難を抱えています。さらにその中で、外国人カトリック信徒が非受洗者の日本人と結婚した場合、日本語の問題もあいまって、先に述べた異宗婚の家庭での困難さが加わって一層心細い思いをしておられます。私たちが小教区で、かれらと信徒同士の交流を深めながら、信仰生活の問題を共に分かち合い、共感と理解を深めて具体的な対応をしていかなければならないと思います。

7.『子どもと共に捧げるミサ』の工夫
典礼そのものは、成人にとっても、また子どもにとってはなおさら、教育的効果をもたらすものです。ミサに「子どものミサ」というのはありません。いつも「子どもと共に捧げるミサ」です。ですから子どもが多数のミサ以外の通常の小教区の主日のミサでも、子どもたちがミサの中で自分たちが無視されていると感じることのないように注意しなければなりません。たとえ典礼式文や聖書のメッセージが難解であっても、子どもは典礼の要素、たとえばあいさつ、沈黙、共同の賛美、とくに一緒に歌うなど容易に受け入れます。ミサのある部分で司式者が子どもにやさしく話しかけるとか、子どもが聖歌で楽器を使う、朗読する、奉納をするなど、自分たちも参加しているという意識が持てるようにいろいろと工夫してみてください。そうすれば、子どもは体験的にキリスト教共同体の中で、だれもが果たす役割があることを学ぶでしょう。

8.カトリック信徒であることの喜びと誇り
 日本のようなカトリック信徒が少数派の国で、また信仰そのものが疑われるいわゆる世俗化していく現代社会の中で、子どもが成長してゆくにつれて、自分がキリスト者であることを負担や恥じとしてではなく喜びと誇りとして感じるように導くことが、私たち大人の究極の責任です。キリストの教えは、人に不快な義務や重荷を課すのではありません。まことの「快いくびき」(マタイ十一・三〇)であり、喜ばしいおとずれ「福音」です(マルコ一・十五)。もし、子どもの信仰教育が、特に恐れと抑圧を感じさせるようなものであれば、子どもが反抗期に達したとき、反発を覚えるかもしれません。しかし、もし親たちがキリスト者であることを、自分たちの最大の宝とみなしているということがわかり、そして、親にとって、信仰が喜びと平和の源、ゆるし合い、いたわりの心、親切心、子どもに対する愛情などの源となっているということを、子どもが日々の生活において肌で感じ取ることができるならば、親が自分たちの最高の宝を洗礼とその後の信仰教育によって子どもに早くから与えようとしたことを、感謝をもってうけとることができるでしょう。

9.感謝のことば
 昨年ブロック訪問を行い、実に多くの信徒や修道者の皆さんと司祭が熱心に信仰教育に携わり、忍耐強く教会学校で奉仕してくださっているのを実感しました。子どもを相手にする苦労や失敗での葛藤、教会共同体からの無理解、また一方で子どもの成長や共同体の協力での喜びを味わいながら、愛する教会の子どもたちのために取り組んで頂いている姿に感動しました。あらためて感謝を申し上げます。皆さんの奉仕に応えるためにも、今後も教区として、信仰教育委員会の活動を充実させて現場の皆さんのお役にたてるように努力いたします。

 洗礼を通して子ども心に神の愛の真理が芽生えても、大人の世界はこれに反して動いています。物質的な豊かさのみを求め、愛なしで生きることに麻痺させられている現代社会の中に送りこまれる子どもたちに真の信仰教育を行うことは、教会のためではなく、子どもたち自身のためです。保護者・教師・共同宣教司牧ブロックの共同体と共に知恵と力を結集し協力して、明日の社会を担う子どもたちを真剣に教育していきましょう。

時報TOPに戻る

ブロック紹介
三重北勢ブロック、京都北部舞鶴ブロック


三重北勢ブロック    村上透磨

司教訪問四月二十五日鈴鹿教会 復活第三主日
当日のプログラムは三部
 第T部 ミサのアガペ
 第U部 対話のアガぺ
 第V部 食事のアガペ でした。

 今年のテーマは「日常からミサを生きる」というテーマですから、まずミサそのものと日常につながる様なミサ、ということを考えました。
 ミサは四つの部分に分かれます。開祭の儀、みことばの祭儀、感謝の祭儀、閉祭の儀です。さて日常からのミサと言う時、開祭と閉祭の儀が重要さを増します。開祭は日常における神との出会いの頂点であり、閉祭は日常の出会いへの派遣式なのです。それが生き生きとするためには、みことばに生かされ、聖体(感謝)に生かされ、愛の一致(拝領)に生かされねばなりません。ミサは、キリスト者の神を通して行われる「出会い」と「いのち」と「生活」の源泉であり、その場であり象徴なのですね。

 「日常からミサ」を考える時、ミサそのものの本質と意味を学びつつ進んでいかねばならないでしょう。それを見つめ直すのが今年のテーマだろうと思います。「日常とミサ」を考え直す時に、ミサそのものを理解できるようなミサとなる試みが望まれます。その機会にならないものかと、工夫してみようと思いました。その一つとして、ミサの四つの部分を祈りの形で表すことは出来ないかと考えました。でもその祈りを典礼の中に加えることは難しく、第二部の対話のアガペの中で組み入れてみたのです。

 この記事は、訪問当日の集まりの様子を報告してはおりません。集いの有様より、その意味の受け取り方の方が大切と思われました。第二部の対話の部分で、司教様の講演と各教会の取り組みの発表と質疑応答があり、理解が加わったと思います。

 北勢ブロック訪問なら一つのミサが当然と思われますが、各教会でのミサもゆるされ、結局代表者の参加という形式になりました。
 ミサの中で私たちに出会って下さる主は、日常生活の中で姿を見せてくださる、そんな主との出会いを大切にする力と恵みと指針を願うのです。


京都北部舞鶴ブロック      綾部教会 四方修吉

 戦後、仏教からカトリックへ全村改宗した全国稀な報恩寺教会では、毎週のロザリオ会は主日のミサ以上の集まりと聞いている。
 幼稚園と併設で司祭と園長であったカール神父は、福知山の盆踊りに膝小僧丸出しの日本の浴衣姿で参加して市民の絶賛を! 今は幼児教育と退職者の悩みにとりくんでいる。

 四人の神父と二人のシスター誕生の綾部では、新興住宅地へ心のともしび配布と諸宗教との連携に先駆的役割を果たしている。
 城下町西舞鶴では、地区商店街行事に併せてのバザーがある。たこやき、やきそばの外、最近はフィリッピ料理に人気があり、日用品や農作物も激安で夏一夜の風物詩とか。修道院の存在も大きく、青少年の信仰教育の輪を広げようと懸命の努力中である。

 戦時中軍港として栄えた東舞鶴は、全国各地からの人が多く、地域的に活気がある。教会も改築中で将来への夢は大きい。
 各小教区には夫々に豊かな伝統と地域の特性がはっきりしている、避けて通れない共通の課題が生まれ出てきました。二十一世紀こそは平和で心の時代と期待していましたが、国内外の情勢の悪化、少子高齢化、不況からくる生活不安、そして宗教離れや在日外国人のことなどです。(自殺や小学生の殺傷事件、反社会行動も)

 舞鶴ブロックとしては、長期短期の目標の達成のため、特に信仰教育への参画協同を軸に、多様性の一致を共同宣教司牧に位置づけています。九月の京都北部地区協議会の大会には、家庭で、教会学校で、夏期合宿を通じて、ステンドフィルム百枚の壁画を、縦4メートル、横3メートルの十字架として奉納を目ざします。

 舞鶴ブロック規約は今夏成立すると思いますが、各小教区規約については急ぐことなく、共同宣教司牧の実践をふまえたものとして検討中です。二〇〇五年中には成文化できると考えています。

 最も大切なことは、司教の原理原則を基に、司祭、修道者、信徒の信頼と、お互いが補いあう共同体として発展させることと思います。


時報TOPに戻る

カトリック福音センター ニュース


養成コース:病人訪問コースU
〜私が隣人となる〜!


今回の病人訪問コースUでは、病床にある方の「隣人となる」援助を考えます。

病床にある方がその人らしく生きていくためには、まず援助者自身が生き
ることの喜びや、苦しみ、希望、病むことを振り返り、自身のいのちの重み
豊かさなどを味わうことが必要です。

この講座ではそのための実習を行います。

さらに沼野尚美氏を講師に迎え、聖書を通して、病む人とどのように
かかわればよいかを学びます。

いのちが一番大切だと思っていた頃
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った時
生きるのが嬉しかった。
・・・不便 しかし不幸ではない。

           星野 富弘

 日  時  2004年 9月18日(土) pm1時 〜 19日(日) pm3時頃
 講  師  沼野 尚美氏 と 福音センタースタッフ
 会  場  宝塚黙想の家 阪急 宝塚線 売布(めふ)駅下車徒歩5分 TEL 0797-84-3111 

 申込み 9月8日(水) 迄に ! 郵便番号・住所・氏名・電話番号をご記入の上、
 参加費  17,000円 を下記へお振り込み下さい。  
     郵便振替口座番号 00920―4―161844
      「カトリック福音センター養成コース」宛
 問い合わせ
     〒604-8855 京都市中京区壬生淵田町26  カトリック福音センター
     
      Eメール : fukuin@kyoto.catholic.jp

 

時報TOPに戻る

私の 福音宣



 さわやかな出会いは たとえささやかなものであっても大きな力となりうる。
本人たちさえ気づかない「あかし」が、
後年、もうひとつの「あかし」となって開花する。
 中井 一久雄(久居教会)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜    

「教会にでも行ってみたら?」
 30数年前の高校1年生の夏休み、「退屈で満たされない日々」をもてあましていたわたしは、致し方なく身の処し方を母に相談した。反抗期まっさかりの男の子が母親にそんなことを聞くのもおかしなものだが、そのときの母の答えもふるっていた。「教会にでも行ってみたら?」。当時は教会のことなど何も知らなかったはずの母が、どうしてそのようなことを言ったのか今もわからない。そしてわからないと言えば、その時ごく素直に、「行ってみよう」としたわたしの心も、今思えば不思議なものであった。

ささやかな出会いを機に
 当時、久居には教会がなく、尋ねながら着いたのは隣町の津の教会だった。暑い日の午後、聖堂や庭内には人影もなく、半時間ほどうろうろしたが誰にも会えず、仕方なく門を出ようとしたとき、後ろから呼び止められた。声をかけてくれたのは、「カトリック高校生の会」の活動で集まっていたセントヨゼフ女子学園の生徒たちだった。

 「ああよかった。誰かがわたしのためにいてくれた。なんて顔が輝いているのだろう。しかもまるで前からの友だちのように語り
かけてくれる。」

 このささやかな出会いを機に、わたしは津の海岸の掃除や、クリスマスの街頭募金といったボランティア活動を彼女たちと共にした。その時のことは今でもよく覚えている。そして彼女たちはと言えば、ボランティアの手引きをしてくれただけではなく、塩となってわたしに信仰の味付けをしてくれ、わたしは翌年のクリスマスに洗礼のめぐみを受けた。

 あの暑い夏の午後、もし彼女たちから呼び止められなかったら、今頃わたしはどうなっていたのだろうかと、よく思う。

「縁の下の力持ち」になろうと
 今度はわたしの番だ。彼女たちからの呼びかけを、今度はわたしが子供たちに伝えていこう。30年働いた企業を辞め、2年ほど前からセントヨゼフ女子学園高等学校・中学校の事務職員として、縁の下の力持ちとなることを決意した。それはあの日の生徒たちの呼びかけへの、わたしのもうひとつの答えだ、と思う。彼女たちは、あかしをしたなどとは思ってはいないだろう。けれど、30数年前の呼びかけは、今わたしの中で、もうひとつの呼びかけへと確かに成長した。その呼びかけに自発的に応えることで、「自由になった」とも感じる。ありがたいことだ。これからの日々が、もうひとつのあかしとなるよう、祈る毎日である。

時報TOPに戻る

奈良地区聖書講座:6/25・26
「み旨が地にも!」
「糧」(いのち) 西野猛生神父


 主日のミサで、神のことばとイエスご自身を、いのちを育む糧(パン)としていただき、お知らせと祝福によって社会の真っ只中に派遣された私たちが、そこでの体験を、次の主日のミサに持ち寄って、分かち合い、奉納します。このことを毎週繰り返すことを通して、イエスのお望み・神のご計画をより的確に捉え、周りの人々に良い知らせとして伝えていけるようにと、私たちは神から励まされています。 

 ですから、私たちが生活している社会で、また世界で、一体何が起こっているのか、イエスのお望みがどこに実現しているのか、更にどこで損なわれているのかなどを、より正確に把握できるよう努めなければならないでしょう。換言すれば、イエスの福音をこの社会の中に浸透させ、イエスと共に神の国を完成させていくためには、どこに視点を置き、またどのような立場に立って社会を、世界を、見詰めているのかを検証する努力が常に必要となります。教会がいう「回心」は、このことを指しているのではないでしょうか。

 以上のことを踏まえながら、「主の祈り」の後半、「パンをください」を考えてみたいと思います。「今日、食べる物をください」という願いは、飲み水と共に、当時も今も切実な祈りとなっています。神からいただいた大切ないのちを維持し、育むためには、どうしても必要なものだからです。しかし、私たちの周りでは今後も、お金さえ出せば何でも好きな食べ物が得られると錯覚しています。この状態が今後も維持される保証はありません。

 実際、EU諸国と異なり、日本は食料の60%以上を外国からの輸入に頼っています。そして、その三分の一は、食品製造過程・レストランからの廃棄・家庭などで捨てられています。それぞれの輸出国の人々に必要な食べ物も、私たちの輸入の対象品となっています。また、食料を輸入することは、その地の栄養分も輸入することになり、現地の土地は痩せてしまい、自分たちに必要な食料も生産できなくなっています。

 世界では、年間約1500万人(内、子どもが1000万人)が餓死していると言われています。単純計算ですが、現在の穀物生産高からすれば、今の世界人口が倍になっても、飢えはありません。ところが世界の穀物の半分以上を、世界人口の五分の一以下の「先進国」が消費しています。日本は、世界人口の二%ですが、世界の穀物の十一%を輸入しています。そして、輸入穀物の三分の一が人間の食用に、三分の二が家畜の飼料となっています。

 話を聖書の時代に戻しますが、イエスが普段主食とされていたのは穀物、特にパンでした。羊を屠って食べるのは祝いの時など特別な機会だけでした。貧しい人々と共に歩まれたイエスは、フスマを取り除いた上等の小麦粉で作られたパンではなく、パンだねを入れてもほとんど膨らまないパサパサした大麦のパンを食べておられたと思われます。それはぶどう酒や乳製品に浸さなければ食べられませんでした。ヨハネ書六章のパンの奇跡も大麦のパンでした。

 動物性蛋白源としては魚が常食されていました。前述の奇跡の場合、イエスは、エネルギー源としてのパンと蛋白源としての魚というバランスの取れた食事を人々に提供されたと言えるのではないでしょうか。また植物性蛋白源として、旧約聖書には「レンズ豆」がしばしば出ています。

 飲み物に関してですが、良質の水がありませんでしたので、普通豊かにあるぶどう酒が一般的な飲み物でした。貧しい人々は、安い酸っぱくなったぶどう酒を飲んでいたようです。酸っぱいので水で割っていましたが、実はその酸味で水を殺菌していたとも言われています。最後の晩餐でも、パサパサした大麦のパンと酸っぱいぶどう酒が使われたのではないでしょうか。イエスのご生涯をこのような視点から黙想してみては、いかがでしょうか。


 

時報TOPに戻る

こんにちはシスター:
カロンデレットの聖ヨゼフ修道会本部修道院 (その一) 


 アメリカの修道会本部が日本での教育事業を決定した時、その候補地は三重県知事の要請で津市となり、用地が物色されました。現在地は当時三十余人が所有されており買い求める交渉は不可能かと思われたのですが、三月十九日の聖ヨゼフの祝日に奇跡的に全ての契約がまとまったのです。今でも、そのときの喜びの声が聞こえてくるようです!

 一九五八年十二月に、五人のアメリカ人シスターが、完成したばかりの校舎の二階の一隅を修道院として住み込み、翌年四月からのセントヨゼフ女子学園高等学校の開校に備えました。中学校は一九六一年に併設されています。

 開校間もない一九五九年秋に三重県は伊勢湾台風で大きな被害を受けましたが、その救援に出向いたシスターの一人が傷病者の世話をしているうちに病を得て帰国するという辛いこともありました。

 校舎の西に修道院が建ったのはその翌年のことです。堂々とした大柄なアメリカ人シスターに混じって小柄な日本人シスターの姿が見られるようになったのは、それからさらに二年後です。一九六九年には、日本での宣教を決断して四人のシスターを派遣した当時の総長が、今度は一会員として来日し、五年間私たちと生活を共にしてくれました。

 津修道院が本部修道院となったのは、一九九七年のことです。そのための事務所などを含め、地域に開かれた宣教活動の一拠点をという願いをこめて、二〇〇一年に修道院の北にカロンデレット館を増築し、今日に至っています。

時報TOPに戻る

良書紹介
『小さくされた者の側に立つ神』
 



『小さくされた者の側に立つ神』上下 本田哲郎(新世社)

 「第一回ナイス(87年)をさかいに福音宣教のかけ声がひんぱんに聞こえるようになりました。…

 ある冬の夜、路上に野宿する日雇い労働者たちと関わりを持ったことをきっかけに、私はその人々の立場から物事を見るようになりました。福音を伝えねばならないと思っていたその人たちから、私は福音を教えられたような気がします。」

 これは、本書の序文とも言うべき「ともに喜びをもって生きるために」の中の一文です。ここに本書の意図と特徴があります。

 聖書を、貧しくされた人、小さくされた人(抑圧された人)の観点(まなざしではない)に立って読むことを目指したものです。

 「視点」と「まなざし」では大いに違う。私たちは憐れみのまなざしで貧しくされた人を見るけれど、その人たちの視点に立つことを見落としているかもしれない。

 この書を理解するためのもっとも基本的な二つの言葉を理解しておこう。

 私たちが「かいしん」と呼ぶ(ギリシャ語で)メタノイアと「あわれみ」という言葉の持つ意味をよく理解することである。「かいしん」は、回心、改心、開心、悔い改め等、広い意味があるが、ギリシャ語のメタノイアは、メタ(超える)ノイア(考え方または視点)をさすことばであり、罪や生活を悔い改めること以上に「視点の変換」だというのである。

 さて、神様の視点はまず貧しい人、弱い立場に置かれた人、小さくされた人、自分の惨めさにうめき声をあげている人、そのことを自覚
している人々に置かれている。

 その神の視点に気づき、それに応えようとすることにあるというのです。あわれみもただ同情ではなく、私たちの弱さ、惨めさ(ミゼール)に肝をふるわせて下さる神様の愛であり、それに私たちが共振すること。その共振は神様との共振であり、それは人々との共振となっていくというのです。

 この二つの心と目と考えの置き方こそ福音の精神の根幹であると言うのでしょう。
 「貧しい人に福音を」(ルカ4・16〜21)とはどのように福音に触れたらよいのかとの問いに、一つの答えをくれる良書。


時報TOPに戻る

青年センターあんてな:       
 
ネットワーク・ミーティングに参加して 伊藤 千夏



ネットワーク・ミーティングとは、カトリックの青年、青年活動を支えている信徒・修道者・司祭が自由に集い、今かかえている問題や信仰のことなどを分かち合い、交流する場、いろいろな地域の青年が出会い、情報を交換する場として、年に二回カトリック青年連絡協議会に合わせて開催されています。

 前回、第六回の開催地は東京でした。初めて会う人や、久々に会う人など約八十名の参加があり、プログラムに沿って進行されていきました。
まず、8チームに分かれて自己紹介や分かち合いをしました。分かち合いのテーマは「とびこえよう」でした。それぞれの思いや感じたことなどを言っていきます。 私のチームの分かち合いでは「とびこえなくても潜っていけばいい」とか「人との壁をとびこえたい」とか「教区の壁をとびこえたい」などの意見がありました。分かち合いでは人の意見に対して反論や批判をしないようにとされているので、素直な思いで分かち合いをすることができます。
その後はテゼの祈りがありました。聖堂にてテゼの歌を繰り返して歌い、心静かに神様と向かい合う時間になります。
お祈りが終わり、手づくりの夕食・交流会がありました。 いつもは遠く離れている友達と一緒に囲むご飯はとてもおいしく、楽しいひと時を過ごすことができました。
ネットワーク・ミーティングでは、神様とのつながりがあり、全国の青年と結ばれ、大切な友達ができます。 これからも、もっとみんなの輪が広がり、信仰を深めることができればいいと思います。次回は、九月十八日・十九日に広島で開催されます。

青年センターホームページ http://www.kyoto.catholic.jp/seinen/

モバイル版ができました。携帯電話からもご覧になれます。
           http://www.kyoto.catholic.jp/seinen/m/


 京都カトリック青年センター  Tel.075‐822‐6246  Fax075‐812‐6685
 E-mail  seinen@kyoto.catholic.jp
 ホームページ 京都カトリック青年センター http://www.kyoto.catholic.jp/seinen/


 青年センター開館時間 :月曜日〜金曜日9時〜16時
                 土・日曜日、祝祭日休館
  ・来館の場合は事前にご一報下さい。



時報TOPに戻る

大塚司教の8月度スケジュール  


4日(水)比叡山平和の祈り15時
5日(木)〜7日(土)教区中学生広島平和巡礼

8日()教区一斉平和祈願ミサ
     平和祈願ミサ(河原町)15時

15日()聖母被昇天ミサ(河原町)10時半
28日(土)〜29日()信仰教育委員会主催「教会学校研修会」

時報TOPに戻る

2003お知らせ 教区内の行事・活動予定


平和旬間行事

◆教区一斉平和祈願ミサ8日(日)

◆京都南部東ブロック
 ▼平和祈願ミサ8日(日)15時 河原町教会 大塚司教司式
 ▼平和行進17時 河原町教会から円山公園まで

◆京都南部西ブロック
 ▼「キリストから現代世界への平和メッセージ」
   (平和を作り出すキリストと市民の集い) 1日(日)13時 桂教会 
    講師 森一弘司教(東京教区)

教区委員会から
◆青少年委員会
 ▼中学生広島平和巡礼5日(木)〜7日(土)
 ▼中学生夏の合宿24日(火)〜26日(木)網野教会
 ▼高校生夏の合宿9日(月)〜11日(水)

◆聖書委員会
 ▼聖書深読8月はお休み
 ▼聖書講座8月はお休み

◆典礼委員会
 ▼教会の祈りと聖体賛美式・主日のミサ 第一日曜日17時半 河原町教会


地区協議会から
◆三重カトリック協議会
 ▼聖書講演会「ミサで感謝のうちに」自分のありのままを“共に”神に『捧げる』9月23日(祝)13時 
   講師 昌川信雄師 三重県カトリック研宗館
 ▼聖書講座8月はお休み


ブロック・小教区から
◆京都北部宮津ブロック
 ▼中高生キャンプ7日(土)〜8日(日)京丹後市丹後町平

◆河原町教会
 ▼練成会9日(月)〜11日(水)京都府日吉青少年山の家

◆京都南部南ブロックA
 ▼合同キャンプ10日(火)〜12日(木)宇治YMCA

◆奈良南部ブロック
 ▼合同サマーキャンプ7月31日(土)〜8月1日(日)津・三重県カトリック研宗館

◆滋賀湖西ブロック
 ▼サマーキャンプ7月30日(金)〜8月1日(日)葛川少年自然の家


修道会から
◆宇治カルメル会
 ▼奉献生活者の黙想2日(月)〜11日(水)中川博道師、16日(月)〜25日(水)福田正範師

◆聖ドミニコ女子修道会
 みことばを聴こう9月4日(土)14時 島田佳代子氏(長崎純心大学講師)会費三百円 
 申込み締切り8月30日(月)対象 青年男女


教育関係施設から

◆聖母教育文化センター
 ▼日曜巡礼の旅8月はお休み
 ▼聖書講座8月はお休み



諸施設・諸活動から
◆JOC(働いている青年の集い)
 ▼集合場所 京都働く人の家(九条教会前)、滋賀働く人の家(大津教会裏)。連絡先090(8207)1831

◆おてんとうさんの会
 ▼例会第四金曜日 西院教会

◆京都カトリック混声合唱団
 ▼練習日1日(日)14時、28日(土)19時、いずれも河原町会館六階ホール
 ▼お礼 3月20日に行いました私ども合唱団のチャリティコンサートは、皆さまの温かいご協力をいただき無事に終了いたしました。団員一同感謝しております。皆さまからの過分なご厚志を頂きました結果、当初の計画以上の送金が可能となり、次のような配分で送金することになりましたのでご報告いたします。ヴェトナムホーチミン市ストリートチルドレン友の会20万円、地域福祉センター「希望の家」20万円、東ティモール子ども募金5万円、河原町大聖堂パイプオルガン修理費積立5万円です。どうもありがとうございました。

◆京都カナの会
 ▼8月はお休み

◆京都キリシタン研究会
 ▼南蛮寺跡でのミサ22日(日)14時 場所未定

◆コーロチェレステ
 ▼第二、第四木曜日 河原町会館六階ホール

◆在世フランシスコ会
 ▼京都兄弟会集会8月はお休み

◆聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会
 ▼河原町協議会 22日(日)

◆カトリック聴覚障害者の会京都グループ
 ▼手話教室第二木曜日13時 河原町会館六階ホール 

◆二金会
 ▼8月はお休み

◆糠みその会▼例会26日(木)19時45分 九条教会

◆レジオ・マリエ▼15日(日)13時半 河原町会館六階ホール

◆心のともしび7月番組案内
 ▼テレビ 主な放送内容〈1日の放送内容〉
 フィリピンのバギオで教育支援活動によって神様に仕え、かの地で眠るシスター海野。シスターに出会い、その志に共鳴を受けて「バギオ基金」を設立した斎藤資郎さんに二十年以上続く活動への思いを聞く。
 ▼ラジオ テーマ  「簡素」
 ▼問合せ 075(211)9341

◆「一万匹の蟻運動」基金報告累計四二、〇二〇、六二一円(六月十五日現在)



編集部から

 ◆お知らせに載せたい情報は、前月の1日までに、
   教区時報担当宛にFAX075(211)4345か、henshu◎kyoto.catholic.jp に、
   発信者のお名前を明記してお寄せください。
(スパムメール防止のためこのようにしています。◎を@に変えてメールをお送りください)


 開心

 ◎愚かな人類は、いつ愚かでなくなるのか?
  神様は、はやく叡智を呼び覚ませと待っておられるに違いないと思う。(EH)


時報TOPに戻る