2010年 司教年頭書簡

召  命  パート2

〜わたしに何をお望みですか〜

京都司教 パウロ大塚喜直

1. 司祭年を過ごしながら


 「沖にこぎ出しなさい」とイエスの命令を受けて歩み出した二十一世紀の最初の十年を締めくくる年を迎えました。ここで京都教区の『共同宣教司牧』推進十年の成果を吟味し、さらなる取り組みのために全教会の現状を検証すべき時だと思います。

 京都教区は昨年の「召命促進元年」に引き続いて、今年も「召命」について考え祈り行動します。おりしも昨年の6月から、聖ヨハネマリア・ヴィアンネ司祭没後150年を契機に教皇ベネディクト16世が制定された「司祭年」を歩んでいます。司教も含めた司祭たちは、司祭職が神からのたまものであり、これほど自主的に自由に果たす召命は他にないと確信しています。司祭の皆さん、ご自分の群れのために生命を与えられた主イエス・キリストの愛を学び、神の民の牧者として忠実に生涯を捧げる決意を新たにいたしましょう。




2. マリアの召命体験

 召命のたまものを完全に生きた人間は聖母マリアです。自分の召命について考えるために、マリアがお告げを受けたときの反応(ルカ1・26−38)を振り返ります。それは、召命というものを受け取り、理解し、承諾するキリスト者の模範であり、信仰者がだれでもたどる道です。

 天使ガブリエルとマリアの対話には、父と子と聖霊の3つが順に含まれています。まずマリアは「主に恵まれた方」と挨拶を受け、マリアが「御父」と共にいるという祝福を受けます。次に、マリアが産むことになる「御子」について明かされ、この奇跡が実現するようにマリアに影響を及ぼす「聖霊」の注ぎが告げられます。これらにそってマリアの反応が「戸惑い」、「考察」、「承諾」と発展的に示されます。


3. 「御父」からの挨拶をうけたマリアのおどろき

 「天使は彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」
「恵まれた方」とは、神が与えるマリアの新しい名前で、マリアが受ける召命のしるしとなります。御父は、愛するわが子のあがないを通して人間に与える恵みを、神の子の母となる役割を果たすマリアに、あがなわれた者の「初穂」として、先に完全な形で与えらます。

 マリアは「いったいこの挨拶は何のことか」と深く考え込みます。マリアは天使を通し「身分の低い、主のはしため」(ルカ1・48)のところに神が直接おもむいてきたことに対して、戸惑い、おどろきます。人間は神が共にいてくださるという身近さも神の内在性も、被造物が持つ神との隔たりも、神の超越性も両方を認識します。これは召命に応える前に、欠くことのできない準備です。さらに、私たちは自らがつくられた存在であることと、一方でその存在の小ささを知る必要があります。

 マリアは天使の挨拶の内に二つのことを悟ります。第一は神から「特別の恵み」が約束されていること、第二はその恵みゆえに、神からの「特別の要求」に対するマリア自身の応答が求められていることです。ふだん私たちは神との親しさを求めるとしても、神から直接語りかけられると、たじろいでしまいます。それは答えが求められるからです。マリアにとっても神から要求されていることを理解するために時間が必要でした。
「神のお告げ」エッチング画
作・志村ちづる(いつくしみの聖母会)



4. 「御子」を受胎する方法を問うマリアの開かれた心

 挨拶のあと天使はマリアに「みごもって男の子を産むでしょう」と来訪の目的とその使命の重大さを明らかにします。それを受けて、「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」

 神から特別の恵みを受けていると悟ったマリアには、神からの呼びかけに応える基本的な心の準備ができましたが、マリアがおかれた状況では告げられた使命の実現は不可能に思え、使命遂行の方法は人間的には予見できないものでした。

 そこで、たとえヨセフと婚約中の乙女に自由はなくとも、マリアは神のみ旨の実現を無条件で信じようとし、ふさわしく応えるためにどうしたらいいのかと天使に尋ねるのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか」という質問は、ギリシャ語では「どのようにその出来事が起こるのでしょうか」という意味合いで、開かれた心で積極的に問いかけるマリアの姿勢がにじみ出ています。マリアは天使に、もう具体的な指示を請うているのです。



5. 「聖霊」の働きに身をゆだねるマリアの受託

 約束の子を受胎するためにどんな可能性があるのか。人間には理解できないが、神によってのみもたらされる解決を天使は答えます。「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。」 婚約中のマリアが受胎し産むことになる子が「いと高き方の子」であるなら、この奇跡が実現するようにマリアに働く聖霊の派遣が告げられます。どのような婚姻関係も守り、同時にそれを越えることのできる道が神から示されたマリアは、「神にできないことは何一つない。」という神の絶対的な意志を知らされます。あらためてマリアは自分が神の計画の前で無力であることを告白します。「わたしは、主のはしためです。」

 マリアは人間が神の前ではただその憐みのまなざしを受けるだけの存在なのだと告白し、ただちに承諾します。「お言葉どおり、この身になりますように。」 ヘブライ語で「アーメン」(その通りになりますように)と答えたマリアの「はい」は、受肉したみことばの「はい」(ヘブライ10・5−7)、つまりキリストが御父のみ旨を果たすために差し出す人間の自由で責任のある「はい」の先取りとなります。



6. 私の召命に「アーメン」人生に「アーメン」

 マリアのお告げの体験は、私たちが神のみ旨に聞き従うときに発すべき「アーメン」の模範的なモデルです。子どもを産み育てること自体は、人間の普遍的な出来事です。御父はその出来事に人類の救いを託します。神のみことばは、私たちの人生に起こる物事の深い意味を明らかにし、日常生活でのいろいろな選択において、識別や方向づけによる保証を人間にもたらします。聖霊は、御父が要求しているものを私たちが理解するように力を貸し、みことばを生きたもの、現実に即したものとします。

 しかしマリアの使命遂行は平たんなものではなく大きな苦しみと迫害が伴います。シメオンから「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と予言されます。(ルカ2・35)マリアが受けた使命は、犠牲と困難の中でも愛に生きる日々の生活に「アーメン」と応えることで、人は神の救いの計画に参加することができるのだ、ということを証することだと言えます。



7. ヨセフの召命体験

 神はマリアだけに救いの計画を委ねたのではありません。私たちはマリアの召命を支えたヨセフの召命体験を忘れてはいけません。ヨセフは婚約中のマリアがみごもったことを知り、この結婚を解消しようかどうかと悩んでいた時、天使のお告げで、すべてが神の計画であることを知らされます。ヨセフはこの時大切なことに気がつくのです。「ヨセフよ、神が救いの計画のために選ばれたのはマリアだけだと思っているのか。神が呼ばれたのはマリアだけでなく、ヨセフおまえもだよ」と、母マリアと生まれる神の子を守る「保護者」という役割を神から与えられたことを悟り、これを自分の使命として受けとめたのでした。

 ヨセフは危機と危険を乗り越えて、その与えられた使命を黙々と果たしていきます。イエスの誕生の後、ヨセフは夢のお告げでヘロデ王の殺害を逃れるため一時エジプトに避難し一家を支えました。ヨセフは心に語りかけられる神の声にいつも忠実でした。ヨセフは行動を起こす前に、その行動が成功するかどうかの保証を求めず、目前の問題に身を任せ、与えられた課題を生きることを受け入れました。



8. 神の救いの計画と召命の役割

 神は救いの計画を実現するとき、人間に協力を求めることを望まれます。聖書は救いの歴史を、神の招きと人間の応答がからみ合っている召命の歴史として述べます。実際、アブラハムもモーセも預言者たちも、イエスに招かれた弟子たちも、聖書で描かれるそれぞれの召命は二つの自由、つまり神の自由と人間の自由が出会うところから生じます。神のみことばによって個人的に呼びかけられ招かれた者は、神への奉仕に自分をささげます。

 このようにして信仰の旅路が始まります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)この道のりには困難や試練がないわけではなく、私たちはそれらを自分の十字架として担っていきます。召命の道のりではかえって、それらが神との親しさをますます深め、神の望みにいつもすばやく自分を明け渡すようにと、私たちを鍛練してくれます。




9. 自分の召命を教会の中で考えよう

 マリアの召命を味わった私たちは、自分の召命について考えましょう。特に、各自の今の教会とのかかわりの中で自分の召命を考えることにします。主は「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4・11−13)。

 個々の召命は教会のなかで生まれ、育てられ、キリストから受けた賜物の種類に応じて(エフェソ4・7)教会に結びついて実をむすびます。こうして神の民のすべての人に、キリストの体である教会に対するかかわりが生まれます。司祭・修道者・信徒は、「交わりの教会」の一員として、神の国の実現のために働くように呼ばれ、互いに補い合うように多様なカリスマと奉仕職を受けます。



10. 召命を生かし合う共同体

 召命は、神が人間を自由にご自分のもとに引きよせられる恵みを前提にしているとはいえ、教会の出来事なので、共同体は自分たち信徒の中でも、特に子どもたち一人ひとりの召命を見出し、その召命を生きるように神に協力する大切な任務があります。

 また個々の召命はその起こりが個人的で独自な出来事であっても、かならず他者の召命を成長させ発展させるための誘引ともなります。私たちはどの人の召命も共同体へのたまものとして発見し、共同体はそれを教会のために生かすことができなければなりません。けっして教会は互いに自己の働きを誇示したり、自己実現したりする場ではありません。

 司祭も信徒も、教会共同体メンバーの固有の召命を寛大に認め、相互に信頼と愛をもって一致した福音宣教共同体になるよう協力するのです。



11. 信徒のこの世における召命
 信徒一人ひとりには、いろいろな霊的生活や信徒活動の道が開かれています。信徒であることの特徴は「この世における生活」にありますが、信徒は「霊的生活」と「この世における生活」という二つの別の生活をしているのではありません。信仰生活と、家庭や仕事、社会的役割、市民としての責任、文化活動といったすべての生活の領域が神の計画に入っています。神はそのあらゆる分野が、創造主である御父の栄光をあらわす「場」となり、他者への愛の奉仕を通してキリストの愛が実行される「場」となることを望んでおられます。信徒は、人類の救い主・キリストをまだ知らない周囲の人々の救いを心がけながら、自分の受けた召命に応じて地上での義務を果たすのです。



12. 若者へのメッセージ

 若者の皆さん、キリストは福音を告げ知らせようとする皆さんの若さ、寛大な熱意を必要としておられます。日本の若者の皆さんは不安定な社会情勢に囲まれ、自分が解らず不安や失望に悩み、人生の計画や目標をなかなか見いだせずにいるかもしれません。

 しかし若者の皆さんは、その感受性によって現代世界の不正義、不平等、暴力、また環境破壊などに対する怒りに敏感です。神のみことばに照らして、真理と正義を渇望している世界の叫びを聞き、そこから自分の召命の可能性を探してください。京都教区では、海外の体験学習やボランティア活動の企画があります。いろいろチャレンジして、他者のために自分を与えることが、どんなにすばらしいものかを感じ取ってください。キリストは、皆さんの望みや計画を裏切るようなことはなさらず、きっと存在の意義を皆さんに与え、生きる喜びで満たしてくださいます。



13. 召命のための祈り

 真の召命は神から来るもので、人間が作り出すことができないものであり、ましてそのために人間の心の成長を計画することができません。また、神からの呼びかけを人間が自力で受けたり、または何らかの方法で強制されて受けたりするものではありません。だからこそ、私たちが行う召命のための祈りは、それがだれのためであるかを知らなくても、神が召された人間の上に特別の恵みを願い、その人たちが自分の召命を受けて応えることを可能にするのです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22・14)という神が行う「選び」とは、人間が現にある心構えに向けて行われる神の行為を意味しています。召命のための祈りは、神の招きを感じた人たちが、迷いと戸惑いの中にも、招きを素直に受けとり、勇気をもって応えるように、神の選びを願うのです。

 召命のテーマで今年も歩む私たちが、信仰にもとづく自分の召命をあらたに見出し、それを忠実に果たし、教会と社会のために、奉仕と献身の精神をもって生きることができますように、聖母マリアの取次ぎによって祈りましょう。そして京都教区の皆さんと『みながひとつになって』(司教のモットー)、今年の福音宣教の使命を果たしていきたいと思います。


   司祭年 2010年1月1日 
         神の母聖マリアの祝日





2009年 司教年頭書簡

召  命

〜京都教区21世紀召命促進元年〜

京都司教 パウロ大塚喜直

1、京都の大殉教52名福者を仰いで
 新しい年を迎え、いのちみなもとである父なる神さまの祝福を受けて、今年も京都教区の信者に託された福音宣教の使命を、『みながひとつになって』(司教のモットー)果たしていきたいと思います。どうぞ、今年もよろしくお願い申し上げます。

 昨年11月24日、長崎で「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が行われ、「京都の大殉教」52名も福者の位に挙げられました。まず皆さまとともに京都教区にとって光栄あるこのお恵みを神様に感謝したいと思います。そして四半世紀におよぶ列福運動にご尽力くださった前京都司教・田中健一司教様と信徒関係各位、キリシタン研究会に心より感謝を申し上げます。また、京都教区列福記念事業のための特別献金にお寄せくださいました皆さまのお志しに感謝いたします。ありがとうございました。(注1)

 日本の教会は神が日本で始められた宣教の不思議なみわざを記念し、新福者の輝かしい信仰の証しを模範にして、この列福という大きなお恵みを現代の福音宣教に生かしていきます。

 「現代の殉教」を引き受ける決意をした私たちのこれからの宣教的生活には、当然確固たる信念と、犠牲を引き受ける勇気が必要です。京都教区は、共同宣教司牧を推進し、福音宣教する共同体づくりにはげんでいますが、京都の大殉教の福者を仰ぎ、丸血留(マルチル)の心で、あかしの使命を果たしていきたいと思います。

 そこで、私はこれからの京都教区の共同宣教司牧推進の努力目標の一つとして、召命促進を挙げたいと思います



2、京都教区21世紀召命促進元年
 召命は現代教会にとっての緊急な課題です。日本においては、司祭と修道者の召命が減少もしくは停滞の状態です。教区司祭も海外から派遣された宣教司祭や修道者も高齢化が進み、その数が年々減少しています。これは日本社会が抱える少子高齢化、多様な価値観、現世利益的な傾向、経済至上主義的傾向、家庭の崩壊などが原因なのでしょうか。

 ヨハネ・パウロ二世は、「司祭への召命の危機が文化的環境とキリスト者たちのものの見方と実際の行動に深く根ざしている」とし、したがって緊急に必要なことは「召命を促進する教会の司牧活動が信仰を基礎とし、それに支えられた『キリスト者のものの見方』を回復することにむけられること」だと言われました。(注2)つまり召命を促進するために、私たちの信仰の基礎をしっかり固める必要があるのです。もとより司祭や修道者への召命は教会の本性であり、教会に不可欠なものです。(注3)そのため、召命の誕生とその育成を配慮する「召命司牧」は教会全体で取り組むべき事柄であり、これを通して私たちは必ず教会の回心と成長そして教会活動のあり方に関して新しい考察を行うことになります。召命を促進することは教会の聖性を増す秘訣であり、必ず教会に活力を生み出します。このことを私たちが今実感し、必要な活動を教区レベルで始めるために、今年を『京都教区21世紀召命促進元年』とします。


3、召命促進運動
 「召命」とか「召し出し」という言葉は、司祭や修道者になるように呼ばれることと考えます。神がある人を自由に選んでおられるので、その人は自由に召し出しに応えて司祭や修道者になる道を選びます。しかし、これだけが召命ではありません。神はすべてのキリスト者にそれぞれの召命を与えておられます。そこで、司祭・修道者・信徒の皆さんと広く召命について考えて、召命促進のための具体的な活動をすすめていきたいと思います。召命促進には、次のような取り組みの要素があります。
 ● 召命について「知る」
 ● 各自の召命について「考え」「選ぶ」
 ● 召命のために「祈る」
 ● 召命促進のために「働く」
 これらについて、以下述べてみたいと思います。


4、いのちを召命として考える
 「召命」ということばは、私たちを創造した神とその愛を受けた人間との関係を表します。神は人をご自分にかたどり、ご自分に似たものとして造り(創1・26参照)、ご自分との深い愛の関係にお招きになりました。

 第二バチカン公会議はこう言います。「人間が神への交わりに召されているということが、人間の尊厳の最も崇高な面である。人間はその存在の初めから、神との対話に招かれている。事実、人間が存在するのは、愛によって神から造られ、愛によって神から常にささえられているからであり、神の愛を自由をもって認め、創造主に自分を託さなければ、人間は真理に基づいて充実して生きているとは言えない」(『現代世界憲章』19)。

 召命とは、神の啓示のいきいきとした働きを意味し、人間存在の真理を明らかにします。人は愛のうちに神から呼ばれている者なのです。


5、召命における対話
 召命は、呼びかける神の愛と、愛をもって神に応える個人の自由との対話です。

 つまり、神に呼ばれている私たちの人生は神との対話です。「私はどのように生きるのか」という自分の召命にかかわる問いかけは、いつでもどのような人に対しても神からのものです。召命とは人間にとって、この神との対話を受け入れることです。

 この対話は、私が先に語るのではなく、神が私に語られるものです。私は応えるのです。大切なことは、この対話を受け入れることです。神は私たちが母の胎内にいる時から(エレミヤ1・4〜5)、つまり生まれる前から一人ひとりに呼びかけておられますが、人はある時この「呼びかけ」を意識し、これに応えるように促されます。したがって私たちが生涯の完成に向かって歩みながら自分の個性に従って成長していくために、その基礎をいつも神との対話のうちに置かなければなりません。



6、司祭になりたい!
 私は今年3月20日で司祭叙階25年銀祝を迎えます。中学生の時に司祭になることを強く志した私は、高校1年から当時あった名古屋教区の聖ヨハネ小神学院で過ごしました。そして大学卒業後、東京カトリック神学院に入学し、本格的に司祭への道に進みました。この神学校6年間、そして司祭叙階から25年たった今、「自分は本当に司祭になって幸せか」と問われれば、「はい、そうです」と答えます。その理由は、神の愛に応える私の道をはっきりと知って、その道を歩んでいるからです。

 召命とは、突然神の呼びかけが聞こえてくるといったものではないでしょう。私の場合もそうでした。召命とは、人が真剣に自分の将来を考え、進路を見つめ、キリストの特別の弟子となることへの憧れを心に感じることから始まります。その憧れが自分の心の中で打ち消すことのできないものとなり、時間が経つにつれて大きくなってくるとすれば、それは召命に気付いたしるしです。


7、神のみ心に従う
 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである」(ヨハネ15・16)。召命とは、人間一人ひとりに対する神の特別のみ心であり、神からの選びです。ある人は司祭や修道者に、ある人は信徒として招かれています。自分に対する神のみ心が何であるかを見出すことはすべてのキリスト者の大切な務めであり、人生の具体的な選択を行うときには、この神のみ心をよく考え理解した上で選択すべきです。

 神の選びは外から押し付けられるようなものではありません。神は私の内の内におられます。神のみ心に従うとは、自分の最も深い本性に従うことになるのです。聖霊が私の心の奥底に注がれて、表面的な自分ではなく、神の目に映る自分の自我を発見し、受け入れるように導かれます。恵みと自由は対立しません。

 そのために、神は私たちの人生の途上で、私たちと共に歩み、私たちがただ自分一人で生涯を築いていくのではないことを明かされます。ですから自分史の中に働く神の現存に敏感であることが大切です。時に感じる孤独感を捨て、むしろイエスと同様に自分の全てを委ねることのできる御父がそばにいて下さることを知るのです。召命の原点は、「私たちとともにいる神」(エンマヌエル)です。


8、自分の召命を考える
 召命はすべての人にすでに豊かに与えられています。神は私たちがそれに気づき、自由に応えようとする人間の協力を待っておられます。京都教区のすべての信徒の皆さん、キリスト者として自分の召命を考えましょう。キリスト者としてどのように生きるにせよ、また生きてきたにせよ、自分の召命の道をいつも意識して生きることは、その人の生き方をより肯定的で積極的なものにします。家庭で、仕事で、社会で、教会で自分がどのような務めをはたすべきか、だれにとっても自分の召命を考えることは信仰を深め、喜んで生きる力があらたに授けられるよい機会です。そして、信徒自らが自分の召命を真剣に考えるときに、「司祭を育てるために私も招かれている」という自覚と責任をもつことができます。


9、青年の皆さんへ
 「生きているのは、もはやわたしではなく、キリストこそわたしのうちに生きておられるのです。今わたしがこの世に生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた、神の子に対する信仰によって生きているのです」(ガラテヤ2・20)。昨年の6月29日聖ペトロ・聖パウロの祝日から始まった「パウロ年」は今年の同祝日まで、まだ半年あります。ベネディクト16世教皇は言われました。「もっとも深くパウロを動かしたものは、イエス・キリストによって愛されたこと、そして、この愛を他の人々に伝えたいという望みでした」と。(注4)宣教をめざした召命の原動力はキリストの愛です。

 若い人たちに特に呼びかけます。キリストの愛のまなざしを感じたら、聖霊の声に素直に耳を傾けてください。あなたがたの人生をかけて無条件に従いなさいと呼びかけられたら、イエスに熱心に応えるのです。キリストの弟子として働くことのすばらしさに目覚めたら、それは何にも代えられない喜びです。一度限りの人生で、すべてをおいて手にしたい宝です。また、この機会に、ラテン・アメリカやフィリピン、ベトナムなどのアジアから日本に来ている外国籍信徒の若者の皆さんにも言います。皆さんも是非日本で教区司祭や修道者になることを考えてください。


10、召命を受けとめる自由な心
 では、どうしたら召命を神からの愛として受けとることができるのでしょうか。まず、キリスト者は回心の歩みの中で起こる「信仰での恐れ」というものを絶えず乗り越えていかなければなりません。この恐れは自分の召命をどのように確認するかによって克服していくことができます。そこで、まず自分の中に神の招きを「理解していない」しるしを見つけます。自分や他人への不満が多いとき、生活への一般的な不満があるとき、悲観主義的な考えや見方に傾くとき、はたまたすぐにイライラしたり、怒りに囚われているときなどです。このようなときの心は固く、他人に閉ざされ、神の声に耳を傾ける余裕がありません。

 反対に神の招きを「幸せに思える」しるしがあります。困難なときにも平和な感情を持てるとき、孤独のときにでも自分を見失わないとき、小さなことにも喜びを見いだせるとき、犠牲する用意があるとき、失うことを恐れず断念する気持ちが持てるときなどです。いいかえれば、神が自分の内で働いておられることを素直に受けとる自由な心を感じるときです。神の呼びかけに応えられないと嘆く臆病な私たちを神は忍耐強く愛し、うぬぼれや傲慢な信仰を浄め、主への揺らぐことのない信頼と希望のうちに私たちを強くしてくださいます。


11、召命促進のために祈り、働く
 教会は祭司的、預言者的、王的な民として、祈りと秘跡的な生活、福音宣教、愛の奉仕をとおして、司祭への召命を促進し、そのために奉仕します。おのおののキリスト者は自己が属する教会共同体において自分固有の召命を見いだし、これに寛大に応え、教会の建設と使命のために共に働くよう招かれています。

 小教区や修道院の共同の祈りで、また個人の祈りで、司祭召命を願う祈りを定期的に唱えています。「収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫の主に願いなさい」(マタイ9・37〜38)。召命のための祈りは、召命が神からのものであり、神によって完成されるものであることを教えてくれます。実に召命のための祈りは全教会のための切なる祈りであると同時に、各自の召命を歩む決心と熱意の恵みを願う祈りでもあります。

 司祭と奉献生活者は、召命とは何かを力強く現代的な形で明確に示す必要があります。そのために、皆さんはまず自分の召命を忠実に生きることが求められます。

 信徒の皆さんは、家庭と仕事を通して社会で福音を証し、「共通祭司職」に基づく教会での信徒固有の働きを強く意識しそれを具体的に生きることができるように、典礼と祈りに積極的に参加し、聖書に親しみ、信仰を分かち合い、さらに福音宣教者となる学びを続けてください。福音によって動機づけられたボランティア活動は、無償の奉仕の意義や犠牲と自己奉献の価値を学ぶよい機会です。きっと召命のきっかけを見出すことでしょう。


12、マリアと共に召命のために祈る
 司祭召命は神の恵みなしにはあり得ません。司祭召命のために祈りながら、教会には必要な召命が神から十分に与えているという信仰と、必要な助けが与え続けられているという希望をしっかりと保ちましょう。

 他のだれにもまして、召命のたまものを完全に生きた人間は聖母マリアです。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)と答えたマリアの模範にならうために、私たちはあり余る恵みをいただいているのです。パウロが言うように、この恵みをけっして無駄にしてはいけません。

 私たちは自分がちっぽけな存在であることをわきまえています。にもかかわらず、神は私たちが限界をもつ罪深い存在であることを承知の上で、なお「あなたたちは世の光である」と呼びかけられます。それは、私たちが自分の力で光になるのではなく、キリストの光を反射し伝播することによって光となりうるからです。

 今年も京都教区の福音宣教の歩みを聖母マリアの取次ぎによって父である神様におささげし、平和の元后であるマリアさまを通して、世界の平和のための祈りを続けましょう。
                     2009年1月1日 神の母聖マリアの祝日



(注1)京都カテドラル・カトリック河原町教会の告解室に「殉教者の間」が完成し、聖フランシスコ・ザビエル像(神戸市博物館所蔵)の複製画、京都の大殉教図と京都の聖ラザロのエッチングガラスが設置されました。

(注2)ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告、『現代の司祭召命』37。

(注3)現在の教会法では、従来修道者と称された身分は、「修道会」と「在俗会」を併せた「奉献生活の会」と、「使徒的生活者の会」に分類される。

(注4)2008年6月28日聖ペトロ・パウロ使徒の祭日の前晩の祈り