2013/1 No.422
<京都教区時報 2013年1月号目次>

・1   2013年 司教年頭書簡   信仰 パート3
         〜 ともに喜びをもって生きよう 〜新 




・6 大塚司教 1月のスケジュール

・7  1月のお知らせ 

  


2013年 司教年頭書簡
信  仰 パート3


〜 ともに喜びをもって生きよう 〜

         京都司教 + パウロ大塚喜直


 「主において常に喜びなさい」(フィリピ4・4)「信仰の喜び」はキリスト者の最大の宝ものであり、キリスト者の特徴の一つです。1987年京都で開催された第一回福音宣教推進全国会議(ナイス1)の成果として司教団は、「ともに喜びをもって生きよう」と呼びかけました。「信仰を、掟や教義を中心としたとらえ方から、『生きること、しかも、ともに喜びをもって生きること』を中心としたとらえ方に転換したいと思います。というのは、信仰生活は、私たちとともにいてくださる神のみ前で、人々とともに、キリストの福音を信じる『喜び』に生きることだからです」。

 「信仰年」(2012年10月11日〜2013年11月24日「王であるキリストの祝日」)を歩むわたしたち京都教区は、信仰パート3として「信仰の喜び」をテーマにします。神からの呼びかけに応える「本物の信仰」によって「本物の信者」になるため、「信仰の喜び」を「信仰のセンス」に照らして確認しましょう。


愛される喜び




 1.神に愛される喜び 

 愛である神は、ご自分の永遠の喜びを分かち合うために世を創造し、人間を造られました。日常生活のなにげないささやかな喜びも、人生の中の大きな喜びも、真の喜びはすべて神から愛されているしるしです。愛である神こそ、真の喜びの源なのです。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(一ヨハネ4・16)。

 信仰者が求める喜びは、神から愛されているという自覚から生まれます。その結果、「信仰の喜び」は、神がわたしたちの内にいてくださる証拠となります。ペトロが言います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(一ペトロ1・8)。そのとおり、わたしたちは、神がすべての人を愛してくださることを信仰によって受け入れ、「信仰の喜び」を知っています。
  〔信仰の人格的センス〕



 2.神がそばにいてくださる喜び 

イエスさまにお祈りする子供たち

 神の限りない愛はイエス・キリストのうちに完全なしかたで示されたので、わたしたちが探し求める「信仰の喜び」は、イエス・キリストのうちに見出されます。だから、パウロは「主において喜びなさい」と勧告します。そして、続けて主がすぐ近くにおられるからだと、喜ぶ理由を述べます(フィリピ4・5)。「信仰の喜び」は、神がそばにいてくださる喜びなのです。

 このことを信仰によって発見し受け入れる人は、この世で何も恐れることはありません。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13・44)。日々の出来事の中に隠れておられる神を見いだす時、その発見の喜びは比較にならないほど大きく、もう手放すことはできません。
 〔信仰の発見的センス〕






 3.キリストを知る喜び
木に登るザアカイ

 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」(ヨハネ12・44)。イエスと父なる神とは一つなので(ヨハネ10・30参照)、神を信じることと、イエスを信じることは同じことです。そして、イエスにとって父を知ることは子としての喜びであるので、イエスは御父とともに持っている完全な喜びを、神の子らであるわたしたちに与えようと望まれます。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15・11)。

 こうして、わたしたちにとっても、キリストを知ることが「信仰の喜び」となるのです。イエスが徴税人であり罪人とみなされていたあのザアカイを訪ねた時、「喜んでイエスを迎えた」ザアカイのように(ルカ19・5−6)、わたしたちも日々、罪人であるわたしたちをゆるし、友として愛してくださるキリストを知ることが「信仰の喜び」となり、この喜びはわたしたちの人生全体を根底から造り変え、救いをもたらす力となるのです。
     〔信仰の認識的センス〕



 4.キリストを誇る喜び

三重南部ブロック春の中高生黙想会
十字架の道行

 イエスは、父なる神がご自身を小さい者に現わされることを喜びます。「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』」(ルカ10・21)。さらに、イエスはこの喜びを「小さい者」に伝えることを父のみ旨として受け取り、そのためにご自分のいのちを与えられます(ヨハネ15・9−15参照)。「信仰の喜び」は、イエスの受難と十字架の奉献によってわたしたちのものとなったのです。
アテネのアレオパゴスで
説教をするパウロ


 だからこそ、パウロにとっては、キリストの十字架の中にいのちをかけて愛してくださったキリストの愛を発見することが喜びとなり、パウロはそれを「キリストを誇る」と表現しました。パウロが「誇る者は主を誇れ」(1コリ1・31)とエレミヤのことば(9・23)を引用して語るとき、それは「主において喜べ」という勧告と同じ響きとなりました。
  〔信仰のキリスト論的センス〕


 5.心の琴線に触れる喜び 

聖香油ミサ

 典礼は「信仰の喜び」を味わう特別な場です。7つの秘跡(洗礼・堅信・聖体・ゆるしの秘跡・婚姻・叙階・病者の塗油)において、わたしたちは神の救いの恵みを祝い、「信仰の喜び」で包まれます。したがって、「典礼を単なる義務の対象、順守すべき儀式ではなく、いつも私たちとともにいてくださる神と交わり、『ともに生きる喜び』を体験し、分かつ場にし、人々の心の琴線に触れるような典礼を生み出す努力が求められます」(ナイス1より)。
ムリーリョ
「放蕩息子の回心」



 ゆるしの秘跡は、「信仰の喜び」を回復する秘跡です。「悔い改める一人の罪人については、喜びが天にある」のです(ルカ15・7参照)。放蕩息子のたとえのように、あわれみ深い神はわたしたちを見捨てません。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15・32)。わたしたちの神は、罪人が神に立ち帰る時、ご自身の愛の喜びを惜しみなく与えてくださる方です。
                              〔信仰の秘跡的センス〕



 6.与える愛を生きる喜び

愛の奉仕者 マザー・テレサ

「兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(二コリ13・11)。「喜びなさい」という命令は、「互いに愛し合いなさい」という命令と不可分です。「信仰の喜び」は、神への愛を実際に生きることで保たれるからです。

 神の愛は与える愛であり、愛は犠牲を伴います。イエスは喜びを捨て、御父の喜びを与えるために十字架の死を引き受けられました。「信仰の創始者また完成者であるイエス」は、「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(ヘブライ12・2)。わたしたちも日々自分の十字架を担って与える生き方を実践する時、「信仰の喜び」がわたしたちのなかで確かなものとなります。
    〔信仰の実践的センス〕






アンジェリコ
「キリストの復活

悩める人

 7.救いの喜び

 「信仰の喜び」は、救いの喜びです。復活の朝、イエスを納めた墓にやってきた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ます(マタイ28・8)。「イエスが今も生きておられる」というメッセージは、救い主キリストへの復活信仰となりました。人生において最後に勝利を収めるのは悪ではなく神の愛なのだという体験は、信仰者を救いの喜びへと導き、生きる勇気と忍耐を与えます。

 だからパウロは言います。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3・10−11)。キリスト者も人生の多くの試練、とくに悲惨で不可解な出来事の中で、「信仰の喜び」を感じられないことがあります。逆につらさや悲しみを強く感じます。しかし、「信仰の喜び」を感じられない時でも、救われているという真実は全く変わらないのです。 
   〔信仰の救済的センス〕



 8.キリストの栄光にあずかる喜び

 人生に不安を感じない人はいません。しかし、キリスト者は永遠のいのちを求めるという根本決断をしているので、不安を気にするより、信仰によって不安を正しく評価します。不安を取り除くよりも、そのまま受け入れて生きるのです。なぜなら、信仰者は神が約束された救いを確信するとともに、今もなお神が世界のうちに働き、悪の力に打ち勝ちながら、この世を究極の完成へ導かれることを信仰において希望するからです。イエスは言います。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16・20)。だから、わたしたちは「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る」(ローマ12・12)のです。

 パウロが言うように、わたしたちの個々の苦しみは、「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」(コロ1・24)ものとなるのです。ペトロも言います。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(1ペトロ4・13)。
 〔信仰の統合的センス〕


 9.イエスに信頼する喜び

ショッピングを楽しむ人々

 現代は、人間を「信仰の喜び」から遠ざけるさまざまな誘惑に満ちています。たとえばネット社会には、わたしたちを消費主義的なものの考え方へ引き込み、即物的な満足と快楽を追求するように誘い、あたかも幸福を手にしたかのような錯覚を与える危険が潜んでいます。現代人は物質的な富を豊かに所有しながらも、どこか生活の空しさを感じています。所有することは真の喜びとはなりません。宣教者として何も持たないパウロは言います。「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(二コリ 6・10)。

 カナの婚姻で、「ぶどう酒が足りない」ことにマリアだけが気づきました(ヨハネ2・3)。ぶどう酒は喜びのシンボルです。マリアは「信仰の喜び」に満たされた方なので、生活の中に神からの「喜び」が欠けていることに敏感でした。そして、イエスのみが真の喜びを与えてくださるという信頼のうちに行動することができました。いつの世も、一時的で人を欺く快楽に惑わされず、真の永続的な喜びを選択する方法はイエスに信頼することです。
  〔信仰の批判的センス〕



 10.交わりで深まる喜び
東日本大震災 ボランティア活動


 初期キリスト教共同体は、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をして」いました(使徒言行録2・46)。「信仰の喜び」は、ともに兄弟姉妹の交わりを生きることによって深められます。パウロは、個人個人に対してではなく、「(あなたがたは)主において常に喜びなさい」(フィリピ4・4)といっています。そして、パウロはいつも共同体と喜びを分かち合いました。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(フィリピ2・17−18)。

 わたしたちは他の人々が幸福でないのに、自分だけ幸福でいることはできません。パウロは言います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)。「 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(一コリント12・26)。苦しむ人に寄り添う時、人々の心の中で働く神のあわれみを見いだすことができます。「信仰の喜び」を自分のうちに保ちたければ、人々との交わりの中で喜びを伝え、分かち合わなければならないのです(一ヨハネ1・3−4参照)。 
     〔信仰の共同体的センス



 11.聖霊の実である喜び

ペリー公の祈祷書
「聖霊降臨

 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ 14・17)。イエスがもたらす神の国は、飲食という日常的な事柄ではなく、人々が聖霊の働きによって、神と他者との正しい交わりの中で築く「義」と「平和」のうちにあり、そこに内的な喜びが与えられます。「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です(ガラテア5・22−23)。聖霊は御父と御子の愛の絆であり、わたしたちを神の子とし、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようにし、神のいつくしみを体験し味わわせてくれます(ローマ8・15参照)。

 信じることは人間の自由意思による選択ですが、聖霊の働きなしに人間の力によって生まれる決断ではありません。信仰を可能にするのは、人間の心を開く聖霊によるのであり、これこそ神のみわざです。そこで、パウロはこう祈ります。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15・13)。 
   〔信仰の聖霊論的センス〕



 12.マリアの賛歌
宇治カルメルのマリア像

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46−47)。マリアは主をご自身のうちに受け入れ、賛美の歌でもって救いの喜びを告げ知らせました。それが「マリアの賛歌」です。マリアは、謙遜で完全な奉仕のうちに自分の生涯を神にささげることを通して、神の愛を喜ぶ第一の宣教者となりました。

 キリストの弟子であるわたしたちの使命は、信仰が真の完全で永続的な幸福と喜びをもたらすことを世に示すことです。これが「信仰年」のめざすところです。現代社会の困難な状況の中でわたしたちの周りにいる多くの人々は、キリスト教の喜びと希望のメッセージを知りたいと心から望んでいます。「信仰年」にあたり、わたしたちも「信仰の喜び」の宣教者となるために、まずわたしたち一人ひとり、信じることの喜びをあらたに見いだすことが求められます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4・4)。


   2013年1月1日
   神の母聖マリアの祝日







    大塚司教 1月のスケジュール




1日(火) 10:30 「神の母マリア」 新年ミサ(河原町)
5日(土) 11:00 司祭・修道者 新年ミサ(河原町)

6日(日) 9:00 女子カルメル修道会 ミサ(衣笠修道院)
9日(水) 13:00 中央協 予算審査会
10日(木) 10:00 中央協 常任司教委員会
11日(金) 11:00 中央協 列聖列福特別委員会

13日(日) 14:00 津教会・英語ミサ
15日(火) 14:00 大阪教会管区 結婚法務 担当者会議(京都)
17日(木) 10:00 司教顧問会
18日(金) 11:00 大阪教会管区 司教会議(大阪大司教館)

20日(日) 9:30 ポルトガル語ミサ(滋賀県 水口)
22日(火) 14:00 福音宣教企画室 会議
27日(日) 9:00 京都北部地区 舞鶴ブロック司教訪問(東舞鶴)
29日(火)‐1日(金) 社会司教委員会 社会問題研修会 in 済州










  1月のお知らせ        


《 教 区 》

福音宣教企画室
/Tel.075(229)6800
 典礼研修会 「ミサの学び」から典礼奉仕へ
  日 時:22日(火) 13:30〜15:00
  会 場:河原町教会 ヴィリオンホール

聖書委員会/Tel.075(211)3484 (水)(木)
 よく分かる聖書の学び
  日 時:23日(水) 10:30  参加費:300円
  講 師:北村 善朗 師
  会 場:河原町教会 ヴィリオンホール

《修道会》
男子カルメル修道会
(宇治修道院)
   Tel.0774(32)7016 Fax.(32)7457
 社会人のための霊的同伴(松田浩一師)
  日 時:25日(金)20:00〜26日(土)15:00
  参加費:5,500円(宿泊・食事込)

 水曜黙想(松田浩一師)
  日 時:23日(水)10:00〜16:00
  テーマ:主の祈り(悪からお救いください)
  参加費:2,700円(昼食代他)

 一般のための黙想(松田浩一師)
  日 時:12日(土)17:00〜13日(日)16:00
  テーマ:キリストへの信頼
  参加費:6,500円


《諸団体》

京都カトリック混声合唱団
 
練習:13日(日) 14:00 /26日(土)18:15

コーロ・チェレステ(女声コーラス)
 練習:10日(木) /24日(木)/31(木)10:00

聴覚障がい者の会
 手話ミサと総会:2月5日(火) 11:00
 昼食代1,000円(どなたでも参加可)
          会場:カトリック会館6階

心のともしび 番組案内 
 テレビ(衛星.CATV)スカイAスポーツプラス
  毎週土曜日 朝7:45
  元気に生きる」19日まで
  26日から「イエスのポートレート」

 ラジオ(KBS京都) (月)〜(土)朝5:15
  1月のテーマ「始めの一歩」






京都教区サポートセンター
  東日本大震災「大船渡支援」献金報告
  11月分 1,327,346円 / 累計 18,822,774円

  ボランティア募集中 
   詳細は京都教区ホームページをクリック

※ 3月号の原稿締切り日は1月23日(水)です。 



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