2014/1 No.434
<京都教区時報 2014年11月号目次>

・1  2014年 司教年頭書簡 神の「貧しさ」を生きる
〜 貧しい人々への優先的選択(Option for the poor) 〜




・ 2 大塚司教1 月のスケジュール

・3 1月のお知らせ

  



2014年 司教年頭書簡

神の「貧しさ」を生きる

〜 貧しい人々への優先的選択 (Option for the poor) 〜
 
京都司教  十 パウロ大塚喜直
        



「貧しい人々のことを忘れないでください」

 2013年3月、教皇ベネディクト16世の引退にともなって行われたコンクラーベ(教皇選挙)で、第266代の教皇に選出されたベルゴリオ枢機卿が、ある枢機卿からかけられた言葉です。新教皇は、なぜフランシスコと名乗ることを望まれたのかについて、ご自身で明かされています。「『貧しい人々。貧しい人々』このことばが、わたしの中に入ってきました。そして、その後すぐに貧しい人々との関連で、アジジのフランシスコのことを考えました。それから、投票のすべての計算が終わるまで、戦争のことを考えました。フランシスコは平和の人です。
 こうして、アシジのフランシスコという名前がわたしの心に入ってきました。」

 教皇フランシスコの登場は、現代のカトリック教会にとって摂理的だと思います。というのも、第二バチカン公会議を契機に(教会憲章8項参照)、「貧しい人々への優先的選択」(Option for the poor)を推進してきたカトリック教会が、現代世界に対して自ら告げる福音の信ぴょう性を証しするために、今こそ自らが、貧しくなるか否かの選択の時代に来ているからです。

 「貧しさ」ということばは、意外とあいまいなことばです。「貧しさ」の反対の「富」や「豊かさ」という概念も、とりようによって意味が異なります。そこで、「貧しさ」という概念を「物質的」なものと「精神的」なものに分け、さらにそれぞれ「否定的」なものと「肯定的」なものに分類してみます。

 否定的な「物質的貧しさ」とは、人間性を奪うもので、根絶すべき貧困です。
 肯定的な「物質的貧しさ」とは、信仰によってあえて自発的に求めていく福音的な貧しさです。
 否定的な「精神的貧しさ」とは、人が富に溺れることで、人間としての精神的・霊的価値を持たない状態を指します。
 肯定的な「精神的貧しさ」とは、人が神への信頼によって、柔和で謙遜になれる霊的な状態を指します。

 そこで、今年の年頭書簡では、貧しさについてのパート1として、「物質的な貧しさ」について取り上げて、来年パート2として、「精神的・霊的な貧しさ」について考えます。

1. 貧しい人のために貧しくなる   〔人格的センス〕

 旧約時代の神は、「貧しい者の叫びを聞かれる」、「弱い者、貧しい者をあわれまれる」「圧迫されている者に正義をもたらされる」というように、「貧しい者のための神」として描かれますが、新約時代では、神ご自身が「貧しい者になられた」のです。父なる神は、人類を救うために御子をこの世に遣わし、御子は、この世で貧しさと弱さを身に帯びられました。「貧しい人々への優先的選択」は、神ご自身の選びであり、旧約の預言者たちのことばやマリアの賛歌(ルカ1・46〜55)、そしてイエスの真福八端のことば(マタイ5・1〜12、ルカ6・20〜26)にこだましています。

 この神の選びは、「貧しい人々は、幸いである」という「祝福」と、「神の国はあなたがたのものである」という「約束」をもたらします。神の「約束」は、神からの「賜物」であり、それは、わたしたちにとって「招き」という神の望みでもあります。というのも、「貧しい人々への優先的選択」は、神の招きに人間がどのように応答すべきかの倫理の基準ともなるからです。

 教皇フランシスコの呼びかけに応えて、現代のカトリック教会も、わたしたち一人ひとりのキリスト者も、貧しい者に対する神のやり方に倣い、「貧しい人のために在ること」と、「貧しい人で在ること」の2つの基本姿勢を、真摯に検証してみましょう。




2. 貧しい人を心にとめる   〔発見的センス〕

 貧しい人々に対する現代人の罪は、見ても見ないふりをする「無関心」です。イエスが最も咎められた態度です。「道の反対側を通っていく」ことです(ルカ10・31よいサマリア人のたとえ)。「門前のラザロのことを無視する」ことです(ルカ16・20)。新約聖書では、キリストご自身が貧しい者となられたので、貧しい人々を侮ってはならないと教えています。「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6・24)や、「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい」(マタイ19・23)というように、キリストが富める者たちを痛烈に諭したことばを忘れることはできません(ルカ16・19〜31参照)。

 世界のいたる所で、戦争や紛争、また自然災害によって、飢え、渇き、病み、見捨てられ、難民となり、移住する人々のことを、わたしたちはマスメディアを通じて見聞きしています。自分たちの街でも、貧しい人々を見かけています。でも、貧しい人の存在に慣れてしまいます。また仕方がないと諦めてしまいます。貧しい人々に無関心でいると、人間の残酷さ、冷たさ、他人の痛みに対する鈍感さが常態化して、貧しい人々に対して無感情になってしまいます。わたしたちは、まず貧しい人々に無関心でいることに良心の呵責を感じ、貧しい人々の苦悩に心を向けましょう。貧しさの悲惨さに対して心の目を開き、そこに何があって、何を見ていなかったかを知るのです。痛悔と憂いの気持ちで、貧しい人を心にとめましょう。


3. 貧しい人に福音を告げる  〔認識的センス〕
 キリスト者は、貧困を単に社会経済の問題として捉えるだけでなく、福音的な視点から見る必要があります。イエスの時代の貧しい人々とは、物質的な貧しさだけでなく、宗教的にも社会的にも蔑視された人々でした。ザアカイのような徴税人、罪深い女性として知られたマグダラのマリア、重い皮膚病を患った人、フェニキアの異教の婦人など、人々からさげすまれ忌み嫌われた人たちでした。ヤコブの手紙における富める人々への非難のことばも(ヤコブ1・9〜11、2・1〜13)、コリント人に対する非難のことばも(1コリント11・17〜22)、当時支配的だった宗教的な文化に欠くことのできない、人の名誉と侮辱の重大さが、その背景にあることを忘れてはなりません。

 また現代でも、貧困はさまざまな要因から生まれ、その結果あらゆる痛ましい現象を引き起こします。人間らしい生活ができない物質的な不足という過酷な環境下で、最も弱い人間が社会から疎外され、難民となり、家族もなく孤独な生活を余儀なくされます。さらに、貧困のために精神的に疲労し、生きる意味をも見失って、自分自身の存在について希望を持てなくなる人もいます。貧困は、いつの時代も暴力であり、社会的蔑視も、見えない暴力です。

 だからこそ、教会は、神が救いの対象として、貧しく、蔑視された人々を優先的に選んだことを、かれらに告げ知らせる使命があります。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために遣わされた」(イザヤ61・1、ルカ4・18参照)のであり、イエス自身も、神の国の到来のしるしとして「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11・5、ルカ7・22)と断言しました。わたしたちも、イエスが貧しい人々に宛てて告げた福音があることを、言葉ではなく、実際の愛の行いでもって告げましょう。


4. キリストのように貧しくなる  〔キリスト論的センス〕

 神は、人間と完全に結ばれるために、「貧しく」なられました。イエスは、「救い主」でありながら、貧しく生まれ(ルカ2・7)、より貧しく生き(マタイ13・55)、宣教し(マタイ8・20)、最も貧しく死んだ「神の子」です(マタイ27・54)。キリストは、「もっとも小さい者」(マタイ25・40)とひとつになることを望み、自ら貧しくなることによって、貧しい人々と共に一人の人間として生きることを選びました。このキリストの貧しさは、貧しく「ある」ことよりも、他者を富ませるために貧しく「なる」ことに特徴があります。だから、パウロはこう言います。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリ8・9)。

 ヨハネは、みことばが人間になったこと(受肉の存在論的事実)を強調しますが(ヨハネ1・14参照)、パウロは神の子の受肉のその在りさま、つまり実存に焦点を当て、キリストが、いやしい身分、苦しむしもべの姿をとったこと(受肉の救済的意義)を強調します。神の子は「自分を無にして、しもべの身分になり、・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2・7〜8)であったのです。飼い葉桶の貧しさから、十字架上の完全自己放棄に至るまで、キリストは、神にのみ信頼する人間がたどる極限の生きざまをわたしたちに示しました。

 ところで、イエスは自分の「貧しさ」に対しては、自由でした。洗礼者ヨハネが生活の仕方において厳格であったのに対し、イエスは人々と、飲むことにも、食べることにも、大らかでした。イエスは、愛については、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と言って、十字架の上で愛の模範を示しますが、「貧しさ」について自分を誇るようなことはありませんでした。イエスの貧しさは、その「程度」よりも、貧しさを選んだ「理由」に注目すべきです。それは、人間への愛と救いのためでした。わたしたちも、キリストのように、隣人への愛に駆られて、「貧しい人々への優先的選択」を実践しましょう。


5. 貧しい人にキリストを見る  〔秘跡的センス〕

 イエスは、「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタイ25・40)と断言して、助けを必要としている人々の中に、ご自分の姿を見いだした者を祝福します。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25・34)。こうしてイエスは、最後の晩餐でパンを取り、「これはわたしのからだである」と言われたその同じことばを、最後の審判の場面での「小さい者」に当てはめ、自分を貧しい人々と完全に同一視します。聖ヨハネ・クリゾストモ(4世紀の司教教会博士)は、この同一視をよく理解していました。「キリストの体を賛美したいですか。それなら、かれが裸であることを蔑んではいけません。教会の外で、裸で寒さに震えておられるキリストを忘れて、教会の中で絹の衣をまとうキリストを崇めてはいけません」(マタイ福音書についての説教)。

 キリストは、聖体やその他の秘跡と同じく、「貧しい人」の中にも現存します。しかし、「貧しい人」自身が、いつでも、必ず、自分のうちにキリストを有し、自分に気づいた人に自動的にキリストを伝え、恵みを生み出すのではありません。わたしたちの方が「貧しい人」と係わるとき、「貧しい人」の中のキリストが恵みとして現存するのです。福者マザー・テレサは、「貧しい人に出会うとき、その人の中のキリストを聖体拝領する」と言いました。キリストを愛する人は、貧しい人々を迎え入れます。わたしたちも、貧しい人々を迎え入れて、キリストへの真の愛を証ししましょう。





6. 貧しい人を大切にする   〔実践的センス〕

 自国の利益と繁栄をこぞって追求する昨今の世界経済のもとで、一握りの人々の手に巨額の資産が集まり、その一方で多くの人々が貧困と無視に苦しめられています。わたしたちは、この現実から目をそらすことができるでしょうか。その陰で声をあげられず、苦しみと困窮のうちにある貧しい人々に気づき、即座に支援の手をさしのべなければなりません。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(マタイ14・16)。イエスは、これを命じるのです。勧めたのではありません。貧困は神が望まないものであり、社会共同体は避けるべき社会悪として、貧困と闘わなければなりません。教会は、貧しい人のために援助し、社会正義を追求して、貧しい人々に代わって貧困をなくすため、社会の福音化の活動を推進しています。

 キリスト者は、キリストに倣って「貧しい人」を愛します。それは同時に、「貧しい人」を大切にし、「貧しい人」の人間としての尊厳を認め、回復することです。日本ではキリシタン時代、信徒たちは、神の愛(カリタス)を意味する「ごたいせつ」の心の実践に力を注ぎました。今、列聖運動をしているユスト高山右近は、父ダリオとともに「ミゼリコルディアの組」に属し、貧しい人々や病者など、当時の弱い立場の人々の側に立ち、救済活動を熱心に行いました。

 教皇パウロ6世が言うように、世界は福音宣教者に、生活の真正な証しとして、「単純質素な生活、祈りの精神、すべての人々に対する愛、とくに小さく貧しい人々への愛、従順、謙遜、離脱、自己犠牲を要求し、期待しています」(『福音宣教』N.76)。2011年の東日本大震災と福島原発事故のあと、節電や脱原発が叫ばれる中、わたしたちキリスト者は何よりも、神から求められる単純質素な生活を選択しましょう。


7. 貧しい人々と連帯する  〔救済的センス〕

 福音宣教とは、何かを教えることではなく、神の国で起こっていることを伝え、証しすることです。キリスト者はこれを、「貧しさ」のなかで、神のみを信頼する生き方の中で実践しなければなりません。というのも、教会は世界を救った十字架を宣べ伝えるからです。十字架は、神の「貧しさ」そのものです。その十字架が、失われた人間のいのちの豊かさを取り戻しました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。キリストの十字架は、わたしたちが豊かにいのちを受けるためのものでした。だから、パウロは言います。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリ8・9)。

 救い主が「貧しくなる」ことは、アダムが犯した罪の結果ゆがめられた人間性を、以前の状態にもどすために、神が選んだ方法でした。キリストは、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(フィリピ2・6)、神の本質とは正反対の貧しさ、弱さ、愚かさを身に帯びて、堕落した人間を救う方法を選ばれたのです。パウロは、神が望んだこのような宣教の本質を見抜いて、こう説明します。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。・・・そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1コリ1・21)。神は人間を救うために、ご自分の栄光を捨てて、貧しさと弱さを通して実現する「愚かな」宣教という手段を選んだのです。

 だからこそ、神の選んだ「貧しさ」と、教会が託された宣教とを、切り離すことができないのです。キリスト者は、この愚かな宣教のために選ばれているのです。ヤコブも言います。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(ヤコブ2・5)。わたしたちも、すべての人々のいのちのかがやきを求めて、あえて自らも貧しさを選び、貧しい人々と連帯しましょう。


8. 喜んで貧しくなる  〔統合的センス〕

 キリスト者の「貧しさ」は、禁欲主義の業ではありません。キリスト者の「貧しさ」は、何かが欠けている状態をさすのでもありません。それどころか、イエスのいのちの中に充満する最高の価値、福音という「宝もの」を見つけた人の喜びからくる「豊かさ」なのです。これを、イエスは「隠れた宝のたとえ」(マタイ13・44)で説明します。イエスは、すべてを売ってから、隠れた宝を探しに行きなさいとは言わず、すべてを売ることができるのは、宝を見つけた喜びを知るからだと教えます。神の国を探すために全財産を売るのではなく、神の国を見つけたから、全財産を売るのです。神の国を見つけないで、「貧しさ」を選ぶことはできません。「貧しさ」は神の国を得るために払う代価ではありません。「貧しさ」は、神の国を選んだことの結果であり、効果です。これが福音的な貧しさです。

 「高価な真珠のたとえ」(マタイ13・45〜46)も同じことです。人は、神の国の価値を見つけたら、即座にそれを選択し、手に入れるべきです。見出したときが、人生を変えるときです。神の国を見つけた人は、物質的なものよりも霊的なもの、見えるものよりも見えないもの、一時的なものよりも永遠のものを優先します。わたしたちも、苦しい生活の中でも、お金では買えない福音の宝を見つけ、喜んで貧しさを選ぶ信仰を生きましょう。


9. 貧しさを自由に生き 〔批判的センス〕

 神の国のために選ぶ福音的な貧しさは、抽象的な理想でもなく、また単なるカリスマでもなく、キリストの人格の神秘に触れ、キリストとの親密なつながりを持つためのものです。というのも、神の国はこの世で、イエスのことばと人格において現存しているからです。したがって、キリストに従う者にとって、「貧しさ」なしのキリストはなく、キリストなしの「貧しさ」もありません。ペトロはイエスに言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(マルコ10・28)。しかし、イエスは従う者に、けっして「貧しさ」を命じることはありませんでした。勧めたのです。イエスは、「貧しさ」を自由に選ぶ人を祝福し、天の国の約束によって、天の父が貧しい人々を引き付けるのだと宣言しました。キリストの弟子であるわたしたちは、この世の富がもはや意味を持たない世界のことを考えて(終末論的動機)、今からキリストの「貧しさ」を自由に選んで生きるという、使徒的で預言的な「貧しさ」を目指すのです。

 キリストは、すべての人に劇的な決断を求めているわけではありません。むしろ、きょう一日、具体的に貧しく生きることを待っているのです。キリスト者は、聖職者か、修道者か、信徒かの教会内の身分と、各自が置かれた環境にしたがって、自分で「貧しさ」のスタイルを決めるのです。福音的勧告とは、義務ではなく、自由に選ぶものです。これが、修道者の「清貧」、「貞潔」、「従順」の誓願というものです。だれにとっても大切なことは、「貧しい人のために在ること」と「貧しい人で在ること」の均衡をとることです。わたしたちも、各自が見つけた神の国という高価な真珠を失わないために、その光で自分の生活を照らしましょう。


10. 貧しい教会になる   〔共同体的センス〕

 「信者たちは、皆一つになって、すべてのものを共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆でそれを分け合った」(使徒言行録2・44〜45、4・32〜35も参照)。教会的な交わりの中で、「物質的貧しさ」を分かち合い、「貧しい人」に奉仕することは、キリスト者の共同体にとっておろそかにできない義務です。教皇フランシスコは言われます。「教会は決して閉鎖的であってはならず、開かれ、すべての人を探し求め、世界の片隅に立ち尽くしている貧しい人々に献身しなければならない」(2013年聖霊降臨のミサ説教)。教会が実行する「貧しい人々への優先的選択」は、共同体全員がそれぞれのやり方で分担し、補い合って、追求することができます。
そこで、すべてのキリスト者が「貧しくなる教会」に属していますが、「神の国に入るため」にすべての人に求められる「貧しさ」と、「神の国を告げる人」に求められる「貧しさ」があります。イエスが宣教にあたって弟子たちに、何も持っていくなと命じたように(ルカ10・4)、自分の人生を賭けて神の国を宣べ伝えることを選んだ人は、それを妨害するものを一切身に着けてはならず、みことばだけを携えていくのです。「貧しさ」に徹すれば徹するほど、自分の持っている物や権威に頼らず、恵みとしていただく信仰のみでイエスと交わる喜びを、貧しい人々と分かち合うことができるのです。だから、福音を証しすると言いながら、世の中の常識や価値観で、この世の富を優先する行動がどれほどつまずきになるかを、常に反省する必要があります。「新しい福音宣教」に向かうわたしたちも、告げ知らせる神の国の価値を忠実に生きるように、自分たちの行動に細心の注意を払いましょう。


11. 貧しい人への愛を聖霊にいのる  〔聖霊論的センス〕

 「貧しさ」を選ぶキリスト者の生活は、聖霊とその実によって導かれます。聖霊は、現代人の過剰な消費主義的行動を変え、快楽主義と闘い、貧しい人々に対する無関心な態度や個人的責任をないがしろにしないように、各自の良心を通して働いています。だから、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実が(ガラテヤ5・22〜23)、貧困との闘いと福音的貧しさの実践のための原動力となるのです。

 父なる神は、わたしたちが聖霊の助けによって「貧しい人」とともに生きるとき、「貧しい人」にとってもそうであるように、「貧しさ」を通して伝えられる福音に、謙虚にこころを開く恵みをくださいます。「受けるよりは、与える方が幸いである」(使徒言行録20・35)とイエスは言いましたが、「与えること」は、単なる道徳的な訓戒や命令で行うのではなく、聖霊が人のこころの奥深くに「与えたい」という意志を起こさせることで可能になるのです。

 キリスト者の「物質的貧しさ」の追求は、福音の新しさを構成するものです。「互いに愛し合いなさい」というイエスが与える掟の新しさは、旧約の掟以上に内容が厳しいということではなく、その掟を実行するための信仰と聖霊の恵みが、一人ひとりに与えられるところにあります。福音の倫理的な教えも、聖霊の恵みがなければ死んだ文字のままです。聖霊とはキリストの霊なので、聖霊は、キリストが愛する貧しい人々への愛を育んでくれます。だから、わたしたちも、貧しい人をすすんで愛することができるように、聖霊に祈りましょう。


■教皇フランシスコとともに

 「わたしたちは、『シャツの糊を効かせ過ぎたような堅苦しいキリスト者』、『紅茶を静かにすすりながら神学的な問題を口にするお高くとまったキリスト者』であることは許されません。許されないのです!私たちは勇気のあるキリスト者でなければならず、まさに受肉されたキリスト御自身である貧しい人々を探し求めなければなりません」(2013年5月18日 聖霊降臨祭の前晩の講話)。教皇フランシスコは、就任以来、今日の教会にとって「貧しさ」が宣教の基本であることを、はばかることなく述べるとともに、教皇としてはそれまでにない簡素な生活とふるまいでもって、無言のうちにわたしたちに示そうとしています。

 わたしたちも教皇とともに、現代の教会を、旧約伝統にあるように、神にのみ信頼をおく謙遜で貧しい者としての「アナウイン」(ヘブライ語で、「主の貧しい者」を指す)の共同体に、造り変えていきましょう。そして、「弱く、貧しい者の友」(聖マリアの連願)である聖母マリアのこころで、貧しい人々に福音があることを告げ、自ら貧しい人となって、貧しい人とともに歩み、神の「貧しさ」を生きる者となりましょう。

2014年1月1日
  神の母聖マリアの祝日








    大塚司教 
1月のスケジュール




1日(水) 10:30 「神の母聖マリア」新年ミサ(河原町)

5日(日) 9:00女子カルメル修道会 ミサ(衣笠修道院)
6日(月) 11:00 司祭・修道者 新年ミサ(河原町)
8日(水) 13:00 中央協 予算検討会
9日(木) 10:00 中央協 常任司教委員会
10日(金) 10:00 メリノール女子学院 創立50周年記念 感謝ミサ

12日(日) 14:00 草津教会・ポルトガル語ミサ
14日(火) 14:00 (社福) カトリック京都司教区 カリタス会 理事会
15日(水) 14:00 大阪教会管区 結婚法務 担当者会議(京都)
16日(木) 10:00 司教顧問会

19日(日)‐26日(日) 西宮トラピスチン修道院 黙想会
28日(火) 11:00 大阪教会管区 司教会議(大阪大司教館)
31日(金) 10:00 青谷聖家族幼稚園 新園舎竣工式











  1月のお知らせ        


《 教 区 》

聖書委員会/Tel.075(211)3484 (水)(木)
 よく分かる聖書の学び

  日 時:15日(水) 10:30 講 師:北村 善朗師
  会 場:カトリック会館6階 参加費300円

 
《修道会》

男子カルメル修道会(宇治修道院)
   Tel.0774(32)7016 Fax.(32)7457
 一般のための黙想(今泉 健師)
  日 時:11日(土) 17:00〜12日(日) 16:00
  テーマ:念祷生活
  参加費:6,500円(宿泊・食事込)

 水曜黙想(松田 浩一 師)
  日 時:15日(水)10:00〜16:00
  テーマ:キリスト信者の祈りのカテキズム
  参加費:2,700円(昼食代他)

 社会人のための霊的同伴(松田 浩一 師)
  日 時:24日(金) 20:00〜25日(土)15:00
  参加費:5,500円(宿泊・食事込)


《諸団体》

京都カトリック混声合唱団
  練習:12日(日)14:00/25日(土)18:15ミサ奉仕後
  カトリック会館6階

コーロ・チェレステ(女声コーラス)
  練習:9日(木)/23日(木)/30日(木) 10:00
  カトリック会館6階

心のともしび 番組案内 
 テレビ(衛星.CATV)スカイAスポーツプラス
  毎週土曜日 朝7:45
  4日放送分より新シリーズ
  出演は森田直樹師(現在仙台教区)

 ラジオ(KBS京都) (月)〜(土)朝5:15
  1月のテーマ「心新たに」


京都教区サポートセンター

  東日本大震災「大船渡支援」献金報告

  11月分 1,085,558円 / 累計 34,756,584円


  ボランティア募集中 
   詳細は京都教区ホームページをクリック




  「大船渡支援」献金 郵便振替口座
   口座番号「01000−2−0024724」
   加入者名「カトリック京都司教区本部事務局」
   摘要欄に「大船渡支援」とご記入ください。

 

 ※ 2014年3月号の原稿締切り日は1月22日(水)です。


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