2015/1 No.446
<京都教区時報 2015年1月号目次>

・1 2015年 司教年頭書簡 神の「貧しさ」を生きる パート2  
       心の貧しい人は幸い


・2 大塚司教 1月のスケジュール

・3 1月のお知らせ

  



2015年 司教年頭書簡
神の「貧しさ」を生きる パート2


心の貧しい人は幸い    

    京都司教 +パウロ大塚喜   

教皇フランシスコの呼びかけ
 母国アルゼンチンで、貧しい人のための司牧に献身してきた教皇フランシスコは、教皇就任以来、「貧しい人のための、貧しい教会になろう」と呼びかけておられます。宣教の基本は、宣教者が自ら告げ知らせる福音を、自ら忠実に生きることです。教皇はこれを、ご自身の内面からほとばしり出る輝き、福音に基づく謙遜、教皇としての簡素な生活、近づきやすいふる舞いでもって、無言のうちに示しておられます。

 現代のキリスト教は、世界が貧困に直面しているのに、「貧しい人たちを無視して、自分たちだけが救われるような宗教でいいのか」という深刻な問いを突き付けられています。「フランシスコ」という名は、教皇が、貧しい人々、素朴な人々の近くにいるという一体感と、教会刷新への使命感を感じさせます。そして、教皇は福音の喜びを全ての人々にもたらすために、「出向いていく教会」になろうと呼びかけておられます。それは、出向いていく姿勢・活力をもった出動態勢にある教会です。わたしたちキリスト者は、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている、隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう招かれているのです(『福音の喜び』20参照)。

 京都教区のわたしたちも、この教皇フランシスコの呼びかけに応えて、もっと貧しい人の困難な状況を自分のものとし、貧しい人の視点から教会の生きるべき霊性を見直したいと思います。昨年は、物質的貧しさから考察したので、今年は、精神的・霊的な貧しさから考えましょう。
 教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』(2014年、カトリック中央協議会)を読むことをお薦めします。


1.貧しさの中で神により頼む
         〔格的センス〕
 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)。ガリラヤ湖畔で、貧しい人は幸いとイエスが語りかけた人たちとは、物質的な貧しさからはじまって、貧しさゆえに、人々から踏みつけられ、圧迫されて無力な存在となり、周囲からの助けなしには生きていけないような状態の人たちでした。いわゆる世間の論理では、弱者、敗者とみなされ、喜びなどろくになく、夢も希望も持てず、心に余裕も安らぎもない人々です。自分は幸せだと思ったこともないような、その日暮らしの貧しい農民や漁民のかれらが、イエスにいちるの望みをかけて集まってきたのです。イエスはそんな群集を見て、原文では感嘆文で「なんと幸いなことか!心の貧しい人々は」と叫んだのです。
「幸いだ」と訳されている言葉は、「神に祝福されている。神から恵みを受けている」という意味の言葉です。人間の目にはどう見ても、幸せとは思えない状態にある人を、イエスは感動しながら、「なんと神に祝福された者か!」と言うのです。当時のユダヤ人の多くは、祖国を占領しているローマ帝国に反抗もできず、義(救い)を求めていても、お偉い律法主義者やファリサイ派のように、すべての戒律を守れないので、自分たちは救われない人間だ、と思いこんでいました。だから、神に祝福されていると聞いて、驚いたと思います。
マタイ福音書の山上の説教で、「貧しい人」に付く新共同訳の「心の」という句は、原文ギリシャ語では「霊において」という言葉なので、「霊において貧しい人」とも訳せます。フランシスコ会訳は、「自分の貧しさを知る人」とあります。ルカ福音書の平行箇所(6・20〜26)では、貧しい人のことがそのまま物質的にとらえられ、富んでいる人と対比されています。マタイでは、貧しい人の中にある霊的な要素が引き出されています。貧しさゆえに、自分を支えるこの世的なものを持たず、神にのみ依存せざるを得ない人々に向かって、イエスは「それでいいんだよ。いや、それがいいんだよ。だって、あなたたちこそ、父なる神への信頼を持つことができるから」と慰め励まし、神への全き信頼を持つように諭したのです。これが、物質的貧しさがもたらす、肯定できる精神的・霊的な貧しさというものです。わたしたちは、この心の貧しい人がいだく神への信頼を、じっくり考え、深めてみたいのです。


2.自分の無力さに気づく
            〔発見的センス〕
イエスの時代、時の体制に満足していた人々は、イエスの言葉を受け入れようとしませんでした。地上の富や権威に依存する豊かな人々が、自分の無力さを思い知り、謙虚に神だけにより頼む心をもつことは、ほぼ不可能なことでした。「金持ちが天の国に入るのは、難しい。重ねていうが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とイエスは断言しました(マタイ19・23〜24)。お金や富に執着し、それに自分の生き方を依存させると、この世の富は、人間にとって永遠の救いには障害となり得るのです。
アッシジの聖フランシスコは、サン・ダミアノ聖堂の十字架のキリストから、「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞き、父親の財産を使って教会の修復を始めました。しかし、教会の修復とは、キリストが諭した貧しい人の幸いを取り戻すことだと気づき、終に自分の存在のすべてが、父なる神に依存していることを認め、福音に忠実に従うために、裕福で何不自由ない生活を捨てました。そして、貧しいキリストに倣い、貧しい人への愛に生きたのでした。
救いのために、神の前で人間の無力さを見ようとしない態度、これが否定されるべき精神の貧しさというものです。わたしたちは、この霊的な貧困さに気づくべきです。このことに気づく者こそ、幸いなのです。つまり、神とのかかわりにおいて、自分が霊的貧困を極めている者であることの自覚こそ、イエスが私たちに求めることなのです。わたしたちも、救いのために自分では何もできない人間の限界を心に留め、神への全幅の信頼を持ち、謙虚になりましょう。


3.自分を正当化しない
             〔認識的センス〕
わたしたちが、自らの貧しさのなかで、神への全幅の信頼を持つためには、自分のみじめさを知り、罪人であることを認め、神の助けを必要としていることを自覚しなければなりません。イエスは、自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々にたいして、ファリサイ派と徴税人のたとえを話され、「神さま、罪人のわたしをあわれんでください」と祈った徴税人をほめました。「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と(ルカ18・9〜14参照)。また、貧しいやもめが神殿で銅貨二枚を献金したとき、ほとんど何も持っていなくても、惜しみない心で、すべてを与える彼女の信仰をほめました(ルカ21・1〜4参照)。自分自身の正しさ(義)に頼るファリサイ派のような、錯覚にすぎない自己満足に陥ることなく、徴税人のように、自分を正当化しない謙遜を身につけること、これが心の貧しさの意味です。
パウロは、キリストの受肉と十字架の死に至るまでの謙遜は、自分を無にすること(ギリシャ語で「ケノーシス」)だと説明しました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・6〜7)。では、罪人であるわたしたちが、自分を無にするキリストの「ケノーシス」に倣うには、どうしたらいいのでしょう。それは、十字架のキリストにつながるのです。罪の奴隷である現実の弱さをそのまま認めて、主よ、わたしをあわれんでくださいと、罪人である自分をキリストに差し出し、あとはすべてキリストに委ねてみましょう。自分の力で無となるのではなく、キリストにおいて無となるのです。そのような貧しい心でもって、神の前で傲慢にならず、自分を正当化しない謙遜さを求めましょう。


4.貧しくなったキリストの豊かさに学ぶ
             〔キリスト論的センス〕
イエスご自身が言うように、真の謙遜を身につけるには、イエスから謙遜を学ぶ以外にありません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11・28〜29)。心の貧しさ、霊における貧しさを理解するには、イエスご自身を知ることが必要です。
イエスは、ご自分の神の子としての栄光を、自ら手放した神です。主は豊かであったのに、ご自分の貧しさによって、わたしたちを豊かにするために、貧しくなられました(二コリント8・9参照)。これが、神による貧しさの選択です。イエスが自分を無としたのは、自己の内的な豊かさを持っていたからと言えます。イエスは、御父との関係において、「愛されている」という意識によって完全に支えられていました。だから、自己を保つために、外的な支えを全く必要としなかったのです。つまり、自らの内的世界を支えるために、どんな権威も物質的な持ち物も必要としないほど、すべてにおいて豊かに自己を所有していたということです。
したがって、キリストの「貧しさ」とは、御父の意志に従って、自分を完全に無にするという自己奉献の「貧しさ」であり、キリストの「豊かさ」とは、神と隣人への愛のために、自分を放棄するほど、自己を完全に所有するという「豊かさ」です。これが、イエスが示す貧しさの霊性とでも言えるものです。貧しさを実践する意欲は、神に愛されている、守られている、という生活の実感からあふれ出てきます。わたしたちも、神の前での「貧しさ」と「豊かさ」を、柔和で謙遜なキリストから学びましょう。


5.見えない霊的な豊かさを分かち合う
               〔秘跡的センス〕
わたしたちが、自ら貧しくなられたイエスの謙遜を学ぶとき、「神と富に仕えることはできない」(マタイ6・24、ルカ16・13)という、イエスの厳然としたことばを忘れてはなりません。「してはならない」のではなく「できない」、つまり、神と富に仕えることは両立できないのです。「マンモン」(ギリシャ語)という名の富は、イエスに従う道を妨害するように働くからです。イエスの貧しさの霊性を生きることは、このマンモンとの闘いだと言えます。人生の安定、成功、権力、名声を追い求め、神と人の前で、自分を特別な存在であるかのように見せてくれるもの、それらすべてがマンモンとなっているのです。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるもの」(ルカ16・13〜15参照)なのです。
しかし、そのような富をマンモンでなくする道があるのです。パウロも、金銭そのものがすべて悪の根であるとは言わず、金銭への「欲」が、すべての「悪の根」だと諭しました(1テモテ6・10参照)。富は、蓄積されたときに悪となるので、愛の心によって分かち合われれば、マンモンであることをやめて、有益なものとなり得るのです。たとえば、パウロはコリントの人たちの聖餐式のやり方を注意しました。空腹の者がいるのに、数人だけでパンを食べてしまうなら、パンもまた、「主の体に対して罪を犯すもの」となるのですと(1コリ11・17〜34参照)。しかし、パンが裂かれ、平等に分かち合われれば、それはわたしたちが受けて、ならせていただくイエスの体となるのです。つまり、人間に必要なパンも、人々の間で分かち合われることで、「愛の秘跡」の道具となるのです。秘跡とは、目に見えるしるしを通して、目に見えない神の恵みを実現するものです。わたしたちも、目に見える物質的な豊かさを、愛の心ですべての人と分かち合い、目に見えない霊的な豊かさを分かち合う恵みにあずかりましょう。


6.より多く欲することをやめる
               〔実践的センス〕
わたしたちは自分の持ち物の所有者ではなく、管理者です。それらを自分だけの独占的な所有物とみなさず、隣人のために用いることで、神の摂理に仕える者となります(『現代世界憲章』69参照)。物的財の普遍的使用目的の原則によれば、物には社会的価値があるからです(『カトリック教会のカテキズム』2402〜2406参照)。ですから、この世で富を持つことは、それ自体は罪ではありませんが、富を持つ者は、神の前で厳粛な責任を持っていることを知るべきです。聖ヨハネ・クリゾストモは、貧しい人がいるとすれば、それは他の人々が「より多く」を獲得して受け継いでいるせいであり、この「より多く」は、貧しい人と分かち合わない限り、盗まれた財のままであると教えています。金持ちの余剰所有は本来貧しい人々のもの、すなわち貧しい人々から奪い取ったものなのです(『カトリック教会のカテキズム』2446参照)。今、世界で拡大する経済格差を、神は厳しく見ておられるはずです。
人は、自分本位に成功や快楽を求め、そのためにより多くを所有すると、それらを偶像化して、自分が満たされたと錯覚します。そして、最終的には、それらの奴隷となり、決して満足することなく、つねにより多くを求めずにはいられなくなります。より多くを欲することをやめる、これがキリスト教的な貧しさへの実践です。『老子』に「足るを知る者は富む」という言葉があります。満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも、精神的には豊かで幸福である、という意味です。
イエスは、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われました(マタイ6・21)。富への執着と闘い、より多く欲することをやめると、自らの虚栄心と自己中心的な人生観から解放されます。心の中に、貧しい人や弱い人の居場所が生まれて、かれらを兄弟姉妹として「自分よりも優れた者」(フィリピ2・3)と考えて、大切にする気持ちが湧いてきます。信仰者として、より多く欲するという態度をつねに反省しましょう。


7.受けるより与える
               〔救済的センス〕
金持ちの青年がイエスに、永遠のいのちを得るために、どんな善いことをしたらいいのでしょうかと尋ねました。イエスは青年に、「あなたに欠けているものが一つある。持っているものを売って、わたしに従いなさい」と言われました(マルコ10・17〜22参照)。救われるために「何をなすべきか」という問いに、答えはありません。わたしたちにできることは、ただ、恵みの賜物としての神の国を受け入れることです。その条件のひとつとして、富への執着を捨てるのです。
キリスト教の回心は、「自分に何か欠けている」と感じることから始まります。この欠けているものへの気づきとは、「したい」という願望の次元と、「すべき」という義務の次元を越えた、愛の世界へのめざめです。愛は、自分の欲望を満たして行く世界で実現されるものではありません。また愛は、何かに強制された義務の世界で生まれるものでもありません。人が自分の自由意思に基づいて、喜んで自分を差し出す行為の中から生まれてくるものが、愛です。金持ちの青年もきっと、イエスの十字架上の奉献を知ったとき、イエスがこの愛の世界に生きたことを悟ったことでしょう。
高山右近など、キリシタン時代の信徒たちは、聖イグナチオの『霊操』に精通していました。かれらは、『霊操』によって、貧しい人に財産を差し出すことが、実際の貧しさであり、自分の意思を神に委ねることが、心の貧しさ、霊的貧しさであるという生き方をしっかりと身に着けていたのです(『霊操』98,146,147参照)。霊において貧しくなることにより、幼子のように神の国を受け継ぐことができる単純な生き方に魅力を感じていたのです。殉教者は、ここから生まれたのです。
パウロは、「受けるよりは与えるほうが幸い」(使徒言行録20・35)というイエスの言葉を残してくれました。わたしたちも、生活の中で得ることよりも、与えることに重点をおいて、持ち物の多少にかかわらず、それを正しく使うことを学びましょう。


8.不安を受けとめて生きる
               〔統合的センス〕
人生に不安がなければ、幸せでしょうか。イエスは言います。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6・25)と。わたしたちは、つい日常のことで思い煩います。たしかに、人生に不安を感じない人はいません。ある意味、人は不安の中で生きる者であり、不安に対抗するため、さまざまな態度を取ります。不安が怖いので無感情になるか、安心をあきらめる。不安を取り除くか、未然に不安を防ぐなど。しかし、キリスト教は不安を一掃することしか考えないのではなく、不安をそのまま受け入れて生きようとする道があると考えます。不安を気にするより、不安を正しく評価するのです。
そこで、イエスのあのことばを思い出します。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタイ6・26)。人は、神に造られた尊い存在であり、神から大切にされていると信じるときに、神との愛の関係に基づく安心感を持つことができるのです。福者マザー・テレサのあの笑顔が、それを映し出しています。わたしたちも、日常での不安を受けとめ、外的・物質的支えがなくとも、神に依存することを受け入れるなかで、生きる力と喜びを見出しましょう。


9.貧しい人のために生きる信仰
               〔批判的センス〕
日本は、かつての戦後の貧しい生活を克服し、平成にはバブル景気に酔い、経済的には富める社会になったかのようでした。しかし、生活のあらゆる分野に、現実的な物質主義が浸透して、人々の心はすさみ、現代人はもう、貧しく生きることに価値を見出せないでいます。それよりも、もっと快適に、もっと快楽に満ちた生活を描き、手段を選ばず成功や権力を求め、人を踏み台にしても自己実現をはかることに躍起になっています。その結果、自己中心的に富に溺れた生活を送ることになるのです。そんな時代に、わたしたちキリスト者の信仰は、自分中心の自己満足と、独りよがりの慰めを求めるためだけに神により頼むような、名ばかりの信仰になってしまってはいないでしょうか。
イエスは、荒れ野での誘惑で、マンモンによる世俗的なメシアへの数々の誘惑に直面しました(マタイ4・1〜11参照)。しかし、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)と答え、誘惑に打ち勝ちました。無理解と屈辱の苦しみを味わいながらも、イエスは御父のみ旨を絶えず求めつづけました。これは、イエスの悪魔との闘いでした。そして、それが、実際にイエスが貧しさを生きるということでした。
霊的な貧しさとは、静的な美徳のようなものではなく、動的な霊的闘いです。キリスト者が自発的な貧しさを選びとるということは、信仰にとって大きな挑戦となります。この挑戦で大切なことは、貧しくあるという選択が真にイエスに従うことになるために、それが同時に、貧しい人々のための選択であるかどうかにかかっているということです。わたしたちも、教皇フランシスコの呼びかける「貧しい教会になる」ために、一人ひとりが、貧しい人のために生きる信仰を求めましょう。


10.他者と貧しさの中で一致する

                〔共同体的センス〕
人が持っているものと、その人自身のあるがままの姿とは異なります。しかし、人が与えるものが、その人自身を表すとも言えます。人は、たとえ貧しく、何も持たないときでも、自分自身を与えることはできます。そのとき、「与える人」と「与えられるもの」とが一致します。こうして、貧しさは、わたしたちが互いに支え合い、一致するためのよい条件となります。人は、何かを持っている間はそれを与えますが、もう何も持つものがなくなれば、自分自身を与えることしかできないからです。そのときだけ、本当に人を愛することができ、分かち合うことができるのです。反対に、人が物を持っているなら、他の人との分け隔てを生むことにつながります。与えられる人は、与える人から、受け入れてもらわなければならない低い立場におかれているからです。持っている人が貧しくならない間は、与えることによって、自分の力を発揮しているのに過ぎません。わたしたちが貧しい中から与えるなら、その人と平等な結び付きが生まれます。他の人と連帯することになるのです。相互の貧しさが、人々の間に一致を生み出すのです。
初代教会の信者たちは、「皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります(使徒言行録2・44〜45)。物質的貧しさを一人ではなく、兄弟姉妹の共同体において、各自が自発的に選び取るとき、その生き方の実りとして、霊的な貧しさが共同体で共有されることになります。反対に、霊的な貧しさがともなわない物質的な貧しさも、個人にとっても、共同体にとっても、意味がありません。貧しい人のための教会になるために、修道者の共同体も、小教区の共同体も、自発的な貧しさという福音的貧しさを、それぞれの意思で選び続けていきましょう。


11.謙遜の恵みを聖霊に祈る
               〔聖霊論的センス〕
「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」(1テモテ6・10)。パウロは、金銭欲を捨てない人が、信仰を失うのをよく見ていました。アウグスチヌスは、次のように言いました。「もし、金持ちは神を持たずに、何をもっているというのか。また、貧しい者が神を持つなら、何を持たないというのか」。神の目からは、人間的な富は価値のない貧しさであり、心の貧しさは、神の前で価値のある豊かさとなっているのです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4・18)。イエスは、主の霊によって、貧しい人への福音告知の使命を自覚しました。わたしたちは、聖霊の注ぎをうけて、福音が薦める貧しさによって魅せられ、自発的に喜んで貧しさを引き受けることができるのです。今の生活で、いつも貧しい心で生きるために、どのような選択をなすべきかについては、各自で決めてください。貧しさへの招きは、神からの義務ではなく、聖霊の促しです。聖霊は必ず、生活の中に貧しいキリストがおられることを気づかせ、キリストに従うために、所有欲を捨て、金銭に対する偶像崇拝と浪費をやめ、節制ある福音的な生き方を選ばせてくれます。そして、永遠の愛である神だけが与えることのできる平和と喜びを与えてくれます。そのために、キリストの謙遜に倣い、自分の知識や経験に頼らず、いつでも新しい心と思いで、心の貧しさを生きることができるようにと聖霊に祈りましょう。

マリアの賛歌
「貧しさ」という言葉ほど、イエスご自身の態度、選び、行動を説明する、わかりやすい言葉はありません。そして、イエスが説いた「心の貧しい人の幸い」は、わたしたちと神の関係を基礎づけ、わたしたちと物のあるべき関係を方向づけ、さらには、わたしたちと貧しい人の関係を近づけてくれるものです。貧しさと福音宣教の間には、強いきずながあります。神は、貧しい教会が、貧しい人に宣教することを望んでおられます。福音的な貧しさは、神の国が広がるための基本条件です。教皇フランシスコは、『福音の喜び』の中で、現代の福音宣教は、喜びが広がることによって初めて実現すると強調します。福音の喜びは、神のわざに喜び、驚くことができる貧しい心から湧き出ます。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・47〜48)。マリアの賛歌(マニフィカト)は、真福八端を生きる人の歌でもあります。貧しい人の母であり、新しい福音宣教の星であるマリアの助けによって、わたしたちが福音の喜びを生き、幸せになる勇気をもてますように。

2015年1月1日 神の母聖マリアの祝日



 
   

    大塚司教 1 月
のスケジュール





1日(木) 10:30 「神の母聖マリア」新年ミサ (河原町)

4日(日) 9:00 女子カルメル修道会 ミサ (衣笠修道院)
5日(月) 11:00 司祭・修道者 新年ミサ (河原町)
6日(火) 11:00 聖テレジア幼稚園 新園舎 祝別 竣工式
7日(水) 13:00 中央協 予算検討会
8日(木) 10:00 中央協 常任司教委員会

11日(日) 9:00 洛東ブロック司教訪問 (伏見)
15日(木) 10:00 三重カリタス会 嬉野カトリックの家 祝別 竣工式
16日(金)‐18日(日) 済州教区 司祭叙階式

20日(火) 14:00 大阪教会管区 結婚法務担当者会議(大阪大司教館)
21日(水)‐22日(木) 日本カトリック神学院 福岡キャンパス
23日(金) 11:00 大阪教会管区 司教会議 (大阪大司教館)

25日(日) 9:00 京丹ブロック司教訪問 (九条)
16:00 キリスト教一致祈祷集会 (河原町)
29日(木) 10:00 司教顧問会



 










  1 月のお知らせ    



  委員会の任命(1月1日付)

   中学生会        N.ホセ師
   中学生広島平和巡礼 鶴山 進栄師、キム・テジョン師
   高校生会        チェ・ソンファン師・小立花 忠師
   京都カトリック青年センター 鶴山 進栄師、チェ・ソンファン師、N.ホセ
   アジア体験学習          G.ランディ師、ブ・ヨンホ師
   2016年 WYD(2015年準備会)  鶴山 進栄師、キム・テジョン師

《 教 区 》

聖書委員会/Tel.075(211)3484 (月)(水)(木)
 よく分かる聖書の学び
  日 時: 21日(水) 10:30
  講 師:北村 善朗師/参加費:300円
  会 場: 河原町教会ヴィリオンホール


《修道会》
 男子カルメル修道会(宇治修道院)
   Tel.0774(32)7016 Fax.(32)7457
  一般のための黙想(松田 浩一 師)
    日 時:10日(土) 17:00〜11日(日)16:00
    テーマ:神の栄光・生きている人間
    参加費:6,500円

  水曜黙想( 中川 博道 師)
   日 時:14日(水) 10:00〜16:00
   テーマ:神の国は近づいた
   参加費:3,000円(昼食代他)

 ノートルダム教育修道女会(唐崎修道院)
  召命黙想会
   日 時:2月14日(土)15:00〜15日(日)15:30
   テーマ:主よ、お話しください。僕は聞いております。
        共に生きること、祈ること
   指 導:山内 十束師(御受難会)
   対 象:独身女性信徒/費用 2,000円
   締切り:2月8日(日)(事前申込要)
   申込み:Tel.077(579)2884 Fax.(579)3804

《諸団体》

京都カトリック混声合唱団
 練習
 11日(日) 14:00 /24日(土) 18:00ミサ奉仕後
     カトリック会館6階

コーロ・チェレステ(女声コーラス)
 練習 8日(木) /22日(木)/29日 10:00
  カトリック会館6階

聴覚障がい者の会
 手話表現学習会
(聖書と典礼)
  20日(火) 13:00 カトリック会館6階

心のともしび 番組案内 
 テレビ
(衛星.CATV)スカイAスポーツプラス
  毎週土曜日 朝7:45
   シリーズ「人生を導く聖書の言葉」
   出演は 松浦 謙師(大阪教区)

 ラジオ(KBS京都) (月)〜(金)朝5:45 (土)朝5:15
   1月のテーマ「人生は学び」



京都教区サポートセンター   東日本大震災「大船渡支援」献金報告
 
東日本大震災「大船渡支援」献金報告
   11月分 105,402円 / 累計 45,302,890円

 
  

※ 2015年3月号の原稿締切り日は 1月21日(水)です。


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