2016/1 No.458
<京都教区時報 2016年1月号目次>

・1 2016年 司教年頭書簡  御父のように、いつくしみ深く
      〜いつくしみの特別聖年を歩む〜 
 
      



・2 大塚司教 1月のスケジュール

・3 1月のお知らせ

  







2016年 司教年頭書簡

御父のように、いつくしみ深く
   〜いつくしみの特別聖年を歩む〜
    

    京都司教 +パウロ大塚喜   


■はじめに
 教皇フランシスコが公布された「いつくしみの特別聖年」が始まっています。聖年のモットーは「御父のように、いつくしみ深く」です。いつくしみとは、父なる神だけの態度ではなく、わたしたちもまた御父のように、いつくしみを生きようという呼びかけです。教皇は、この特別聖年を有意義に過ごすため、巡礼を行なうことだけではなく、信徒一人ひとりが日々の生活の中で、人を裁かないこと、ゆるしを与えること、社会において疎外された弱い人々に心を開き、慈善のわざを行なうことを勧めています。

京都教区は、2年にわたって、神が選んだ貧しさについて考えてきましたが、神のいつくしみというテーマは、貧しさと密接につながったテーマです。わたしは、昨年11月29日、待降節第1主日に発表した「いつくしみの特別聖年を迎えて」において、特別聖年の開催要項について書きましたので、この年頭書簡では、「神のいつくしみ」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

注1.「あわれみ」と「いつくしみ」は、あえて漢字表記をせず、ひらがな表記に統一します。
2.引用の「大勅書」は、教皇フランシスコの特別聖年を公布する大勅書「いつくしみのみ顔」(Misericordiae Vultus)、「いつくしみ深い神」は、教皇聖ヨハネ・パウロ二世の1980年の回勅「いつくしみ深い神」(Dives in misericordia)のことです。


1.いつくしみの神との交わり
            信仰の人格的センス


 教皇フランシスコは、「いつくしみ、それはわたしたちの罪という限界にもかかわらず、いつも愛されているという希望を心にもたらすも ので、神と人が一つになる道です」(「大勅書」2)と言われます。神のいつくしみは、キリスト教において、貧しさとともに、神とわたしたちとの関係を特徴づける重要なテーマです。天地の創造主である神は、被造物である人間をご自分の似姿として造り、かぎりない愛を注がれる方ですが、人間が罪を犯した後では、そのあやまちを気づかせ、ゆるすことによって、いっそう強くその愛を示されます。これが神のいつくしみです。

 出エジプト記では、主はモーセに向かって宣言します。わたしは「主、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ち、幾千代にも及ぶいつくしみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト34・6〜7)。旧約聖書には、契約に不忠実なイスラエルの民に対して、神がどれほど忍耐づよく、繰り返し、いつくしみとあわれみを示されたかが記されています。契約において、神は「正義と公平を与える」とともに、その態度を貫くために、ご自身を「いつくしみとあわれみの神」として啓示されたのでした(参照ホセア2・21)。
このような神に対して、イスラエルの民は、「主よ、わたしをあわれんでください」(参照 詩編4・2、6・3、9・14、25・16など)という叫びをいく度となくあげ、「神に感謝せよ、神はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠」(詩編107.1)と、感謝と賛美をささげました。わたしたちも、いつくしみの神に信頼して、罪のゆるしを願い、神との深い交わりに与りましょう。


2.いつくしみのみ顔イエス
              信仰の発見的センス

 神のいつくしみを見出す場所は、御父から遣わされた御子との出会いの中にあります。特別聖年を公布する大勅書が「いつくしみのみ顔」と題されているように、教皇フランシスコは「イエス・キリストは御父のいつくしみのみ顔だ」と言われます。わたしたちは、神のいつくしみを、イエスのみ顔によって知ることができます。御子を見る者は父を見るのです(参照ヨハネ14・9)。イエスは、そのことばと行いによって、父なる神のいつくしみを表しています。イエスのうちに、いつくしみを見る人、見つけ出す人にとって、神は「あわれみに満ちておられる」(エフェソ2・4)父として、特に「見えるもの」となられます(「いつくしみ深い神」2)。

 救おうとする人間のみじめさも自ら体験するために、神の子が受肉しました。イエスご自身が、いつくしみの受肉なのです。いつくしみということばが福音書に使われていなくても、イエスの行いはすべて、神のいつくしみの体現に他ならなかったと言えます。イエスの使命は、ご自分の全生涯と最後の十字架上の奉献をとおして、神のいつくしみを御父の心として表わすことでした。いつくしみの特別聖年に、聖書を読み、いつくしみ深い御父と、イエスのいつくしみのみ業を黙想しましょう。


3.イエスのように「あわれに思う」
                信仰の認識的センス


 イエスは、御父のいつくしみの心を届けるため、ご自分がどのような人々のもとに遣わされているか、宣教の最初に宣言されました(参照ルカ4・18〜19)。それは、貧しい人、生活手段のない人、自由を奪われた人、目の不自由な人、社会の不正のために苦しんでいる人々、そして、罪人とされた人たちです。注目すべきは、イエスがそのような人々の前に来られると、必ず深いあわれみの感情を覚えられたことです。福音書は、イエスがいやしの奇跡を行うとき、無感動なやり方でされたのではなく、「あわれに思って」行動されたと記しています。この「あわれに思う」のギリシャ語は、「はらわた・腸」を意味するスプランクナ(使徒言行録 1・18)の動詞スプランクニゾマイが用いられています。「はらわたを突き動かされる」「内臓を引き絞られる」という意味です。岩波訳の聖書では、「腸がちぎれる想いに駆られ」とあります。まさに、旧約の神のあわれみを指すことば「ラハミム」(はらわたの意味)を引き継ぐ表現です。あわれみは、苦しむ人への共感となって、人間を深奥から動かします。イエスがファリサイ派の偽善を戒めたのは、あわれみの施しとして、内側にあるものを与えていなかったからでした(参照ルカ11・41)。あわれみは、利己主義や自己満足からのものではなく、正しい動機によるものでなければなりません(参照マタイ6・1〜4)。真のあわれみは、イエスのように「あわれに思う」心から発するものです。苦しむ人への共感から、いつくしみ深く行動しましょう。


4.あわれみ深い大祭司キリスト
                信仰のキリスト論的センス


 ヘブライ書でイエスは、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブライ2・17)と呼ばれます。大祭司は、年一回あがないの日に至聖所に入り、神の前に民を代表して、いけにえをささげ、みずからの罪と全イスラエルの罪のあがないの儀式をしました。しかし、罪のないイエスは、わたしたちの罪をあがなうために、十字架の上で、御父のみ心にかなう生きた聖なる供え物として、ただ一度、ご自分をおささげになりました。その大祭司イエスは、みずからも弱さを身にまとい(ヘブライ5・2)、「わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われた」(同4・15)ことで、あわれみ深い大祭司と呼ばれるのです。苦しんでいる者を、上から下を見下ろす態度ではなく、弱さと罪の中で苦しみ叫んでいる、わたしたちのきょうだいとなった大祭司です。今年の四旬節は、御父が御子の十字架のあがないによって与えて下さったあわれみを深く黙想しましょう。


5.ゆるしの道具となりなさい
               信仰の秘跡的センス


 教皇フランシスコは、わたしたちキリスト者が、御父からあわれみを受けたものとして、御父のあわれみを示す効果的な「しるし」となるよう、「ゆるしの道具となりなさい」と諭されます(「大勅書14」)。わたしたちは、キリストの十字架のあがないによって、すでに神からあわれみを受けていることを忘れ、どうして人に対して傲慢で不遜な態度をとるのでしょうか。イエスは、仲間をゆるさない家来のたとえを始める前に、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と、徹底的にきょうだいの罪をゆるし、あわれみ深い者であれと命じます(マタイ18・22)。そして、たとえの結びにこう言います。「私がお前をあわれんでやったように、お前も自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ18・33)。わたしたちは、自分では決して償うことができなcfl」い負債を、キリストの十字架の死によって、いわば帳消しにしていただいたのです。そのあわれみを受けたわたしたちが、自分に負債のある人をゆるすことはあたりまえだと、わかります。人間関係も社会関係も、正義だけの上に築こうとするとうまくいきません。確かに、自分に敵対し害を加える人をゆるすことには、苦しみと損害がともないます。だからこそ、御父からすでに、計り知れないほどのあわれみを受けている恵みを、忘れてはならないのです。パウロは、新しい契約のもとに、罪がゆるされ、神の恵みのもとに、新しいいのちを生きている証として、「互いに親切にし、あわれみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4・32)と諭します。わたしたちも、人を裁かないとか、処罰を差し控えるといった消極的な態度だけでなく、より積極的に、相手をゆるし、相手に善を行うという「ゆるしの道具」となりましょう。


6.あわれみ深い人は幸い
             信仰の実践的センス


 イエスは、神のあわれみを受けるだけではなく、人に対してあわれみを示し、つねに神のあわれみにつつまれる恵みを、幸いという祝福の形で言い表しました。山上の垂訓での真福八端と呼ばれる幸いの五番目は、「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という教えです(マタイ5・7)。これは、あわれみ深い人が、あわれみを受けるから、幸いになるという意味ではありません。神のあわれみを受けている者が、あわれみ深くあろうとすることのできる「幸い」を賛えているのです。わたしたちは、キリストのあがないによって神のあわれみをすでに受けているので、あわれみ深い者となることができ、そのために努力することができるのです。神はそのようなあわれみ深い人に、いっそうあわれみを注がれるのです。
人は、あわれみ深くなればなるほど、神に似た者となります。あわれみ深い人とは、自分の周囲にいる、自分が助けるべき、最も小さい人に気づき、その人を隣人と思う以上に、行動で隣人となる人です。思うだけでなく、実際に具体的な行動ができる人です。善きサマリア人のたとえ(ルカ10・25〜)で、サマリア人が示した、あのこまやかで、徹底した親切な行動を思い出してください。ヨハネの手紙では、「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(一ヨハネ3・17)とあります。生活の中で、他人の必要に目を留め、あわれみを行動でもって豊かに表わすように努めましょう。


7.放蕩息子の父親の喜び
              信仰の救済的センス


 放蕩息子のたとえ(ルカ15・11〜)を思い出しましょう。受けるはずになっている遺産の配分を受け取って、遠い国に旅立ち、身をもちくずし、財産を無駄使いした息子というのは、神の似姿として創られた人祖がその恩恵を失った状態を暗示しているようです。言ってみれば、あらゆる時代の人間のことでもあります。父親のもとを離れた息子は、もう自分には子としての資格がないことを認めていました。さて、放蕩息子の父親の喜びはどこにあるのでしょうか。放蕩息子が家に近づいてくるのを見たとき、父親は「あわれみに思い、走り寄って首を抱き、口づけを浴びせ」ました。「いなくなったのに見つかった」と言って祝宴を開きます。この父親の深い喜びは、失われたかに思えたわが子の、神の似姿としての人間の尊厳が損なわれず、守られたことを知ったことにありました。自分の所有するものが見つかったことを、自分のために喜ぶのではなく、相手が無事にもどり、相手の善さが失われなかったことを、相手のために喜ぶのです。いのちの与え主である、神の父性からわき出る愛が、ここにあります(「いつくしみ深い神」6)。父なる神は、自分のこどもたちに愛を注がないではいられない方であり、しかも、人間が愛を受けるにふさわしくないときにこそ、人間に愛が必要だから、愛を注ぐのです(「いつくしみ深い神」2)。回心は、神の無限の愛といつくしみが、人間の心に注がれ続けていることの証拠です。わたしたちも神の子として、いつでも御父のもとに立ち返り、御父の喜びとさせていただく恵みを感謝しましょう。


8.御父のように完全になりなさい
              信仰の統合的センス


 ファリサイ派や律法学者の義にまさる義について、ルカは「御父のように、いつくしみ深くなりなさい」(ルカ6・36)というイエスのことばで締めくくりましたが、マタイでは、「父があわれみ深いように、あわれみ深い者となりなさい。」(マタイ5・48)と言われています。「完全な者になる」とは、ギリシャ語で「完成する」とか「成し遂げる」という動詞が使われています。イエスが十字架で息を引き取る前に言われた「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)でも使われています。その名詞形(テロス)は、成し遂げるべき目標とか、目的という意味です。イエスは、御父のみ旨を果たすという目的を、自分のいのちをささげるという究極のかたちで「成し遂げられた」、果たされた、ということになります。ですから、「完全な者になる」とは、罪のない完璧な人間となることを目指すことではありません。神の似姿として創造された人間の目的、すなわち神の愛を受けるにふさわしい者となるために、何事も、愛を動機に、愛を目的にして識別し、できることは何でも、すべてやりつくすということです。人を愛し続けること、これが、ファリサイ派や律法学者の義にまさる義なのです。だから、パウロは言います。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ローマ13・8)。「すべてのキリスト信者は、キリスト教的生活の完成と完全な愛に至るように召されている」のですと、第二バチカン公会議教会憲章40で述べられています。わたしたちは、あらゆる機会に、だれに対しても、真心をもって、愛のわざを行い続けましょう。


9.自分を正当化しない
            信仰の批判的センス


 イエスが求める「心の貧しさ」(マタイ5・3)とは、神への全幅の信頼を持ち、自分のみじめさを知り、罪人であることを認め、神の助けを必要としていることを自覚することです。ファリサイ派や律法学者のあやまちは、みずから義人と思いあがるばかりか、狭量な考えで、罪人を神の救いの対象から締め出したことでした。そのような態度の人々にイエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)と明言しました。そして、「もし、『わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』(ホセア6・6)という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ12・7)と叱責しました。神の前で、自分を正当化しないという謙遜を身につけることでしか、神のあわれみを理解することはできません。神の心を喜ばせるのは、みずから義人と思いあがることではなく、謙虚に回心することです。人間は、神のあわれみを受けているから、神の前で自分を正当化する必要はなく、反対に、あわれみに値しない己の醜さを素直に認めなければなりません。
教皇フランシスコは、信徒が互いにいがみ合い、裁き合うことを嘆いておられます(「大勅書」14)。いつくしみの特別聖年にこそ、わたしたちも、自分たちの教会の信徒同士のかかわりを反省して、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、あわれみ深く、謙虚になりなさい」(1ペトロ3・8)というみことばを、よく味わい、それぞれの共同体で実行しましょう。


10.いつくしみの相互関係
            信仰の共同体的センス


 いつくしみの特別聖年の祈りには、「あなたは、ご自分に仕える者が、弱さを身にまとい、無知と過ちの闇の中を歩む人々を、心から思いやることができるようお望みになりました。これら仕える者に出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように」という一節があります。この祈りの部分は、ヘブライ書の「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブライ2・17)であるキリストが、その模範とされています。わたしたちは、あわれみ深いキリストに「仕える者」として、人間としての弱さを身にまといながらも、周囲の「無知と過ちの闇の中を歩む人々に」対して、いつくしみの態度を取るように励まされます。その上で、そのようなわたしたちに出会う人々が、「自分は、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができるように」と、その人々のために、神からの愛を祈るのです。教皇フランシスコの深い示唆にあふれた謙虚な祈りです。

 いつくしみ深い愛は、人と人との相互関係のなかで体験されるもので、けっして相手に対して一方的な行為として実行されるものではないのです。一方だけが与え、他方が受け取っているように見えても、そこには見えない相互の交わりが生まれています。たとえば、ボランティアを行う人は、援助する相手の方から、期待しない喜びをもらっています。与える人が、受ける人になっているのです。パウロは言います。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それにいつくしみやあわれみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(フィリピ2・1〜2)。わたしたちも、いつくしみを人に施すときに、自分も神のいつくしみに与っている喜びを味わいましょう。
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11.聖霊の導きにゆだねて人をゆるす
            信仰の聖霊論的センス


 『主のいのり』の中で、「わたしたちの罪をゆるしてください。わたしたちも、人をゆるします」と祈ります。わたしたちが人をゆるす「ように」、神のゆるしを願いながら、わたしたちが人をゆるすことを誓っています。この「ように」は、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)や、「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」(マタイ5・48)、また、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)というイエスのことばに出てきます。いずれも、御父と御子が手本となり、命じられています。

 わたしたちが、罪のゆるしをねがい、告白するとき、御父からあわれみの愛があふれ出ますが、自分を侮辱した人に対して心を開かないかぎり、あわれみのこの流れは、わたしたちの心までたどりつくことはできません。わたしたちが人から受けた侮辱やその心の傷を乗りこえていくには、自分自身を聖霊にゆだねるしかありません。人間は、聖霊のはたらきのもとに罪を痛悔し、回心して、罪を告白することができるのです。わたしたちは、パウロが言うように、「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(ガラテヤ5・25〜26)。互いにあわれみ深く、ゆるし合うために、聖霊の導きに自己をゆだねて、霊の実(同5・22)をむすぶ素直な心にしていただきましょう。


12.マリアとともに心の巡礼を
            信仰のマリア的センス


 「教会の祈り」の晩の祈りで、福音の歌 マリアの歌(ルカ1・46〜55)を唱えます。
  わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる。
  神は卑しいはしためを顧みられ、いつの代の人も わたしを しあわせな者と呼ぶ。
  神は わたしに偉大なわざを行われた。
  その名は とうとく、あわれみは代々、神をおそれ敬う人の上に。・・・


 マリアは、神の子を宿すという自分に与えられている誉は、けっして自分自身によるものではなく、卑しいはしためを顧みられた神のあわれみによるのだと賛美します。

 いつくしみの特別聖年に、マリアのような信仰と謙遜を願い、わたしたちも神のいつくしみを賛美しましょう。これまで、わたしと、わたしとかかわりのある人々の生活の中で、かくれた仕方でも、力強く働かれた神に感謝し、いまも、これからも、いつくしみの業を続けてくださる御父への信頼と希望をもって、マリアとともに、救いの門である御子のいつくしみの扉に向かって、心の巡礼をしましょう。


2016年1月1日 神の母聖マリアの祝日

 

 

    大塚司教 1 月
のスケジュール




1日(金) 10:30「神の母聖マリア」新年ミサ(河原町)

3日(日) 9:00 女子カルメル修道会 ミサ(衣笠修道院)
5日(火) 11:00 司祭・修道者 新年ミサ(河原町)
6日(水) 9:00 聖母訪問会創立記念ミサ(鎌倉本部修道院)
     13:00 中央協 予算検討会
7日(木) 10:00 中央協 常任司教委員会

10日(日) 10:30 奈良ブロック司教訪問(西大和)
18日(月) 14:00 司教顧問会
19日(火) 14:00 (社福) カトリック京都司教区 カリタス会 理事会
22日(金) 11:00 大阪教会管区司教会議 (大阪大司教区 司教館)
23日(土) 11:00 トマス・アクィナス 村上透磨師 司祭叙階50周年 金祝感謝ミサ(河原町)

24日(日) 9:00 舞鶴ブロック司教訪問 (福知山)

       15:00 福知山教会 英語ミサ
27日(水) 15:00 ユスト高山右近列福式準備委員会(大阪大司教区 司教館)
29日(金) 11:00 中央協 列聖推進委員会

31日(日) 15:00 田辺教会 英語ミサ








  1 月のお知らせ    



 トマス・アクィナス 村上透磨師
司祭叙階五十周年 金祝記念ミサ

2016年1月23日(土)午前11時
カトリック河原町教会
《 教 区 》

聖書委員会/Tel.075(211)3484 (月)(水)(木)
 よく分かる聖書の学び
  日 時:27日(水) 10:30
  講 師:北村 善朗師/参加費:300円
  会 場:河原町教会ヴィリオンホール


《修道会》

男子カルメル修道会(
宇治修道院)
  Tel.0774(32)7016 Fax.(32)7457
 聖書深読(中川 博道師)
  日 時:9日(土) 10:00〜16:00
  参加費:2,500円

 一般のための黙想(中川 博道師)
  日 時:9日(土) 17:00〜10日(日)16:00
  テーマ:慈しみの御顔探して
      特別聖年を生きるために 
  参加費:7,500円

 水曜黙想(松田 浩一師)
  日 時:20日(水) 10:00〜16:00
  テーマ:主の慈しみは新たになる
  参加費:3,000円

 一般のためのカルメル霊性セミナー(松田 浩一師)
  日 時:23日(土) 10:00〜16:00
  テーマ:キリストの神秘体の一致
  参加費:3,000円

 社会人のための霊的同伴(松田 浩一師)
  日 時:29日(金)20:00〜30日(土)15:00
  参加費:6,500円


ノートルダム教育修道女会(唐崎修道院)
 召命黙想会 <捧げるということ>
  日 時:2月13日(土)15:00〜14日(日)15:30
  テーマ:イエスよ、私を忘れないでください
  指 導:山内 十束師(御受難会)
  対 象:独身女性信徒/費用 2,500円
  締切り:2月8日(月)(事前申込要)
  申込み:Tel.077(579)2884 Fax.(579)3804

《諸団体》

京都カトリック混声合唱団
 練習
  10日(日) 14:00 /23日(土) 18:00ミサ奉仕後
       31日(日) 14:00 カトリック会館6階

コーロ・チェレステ(女声コーラス)
 練習
14日(木) 10:00 /21日(木) 10:00
     カトリック会館6階

聴覚障がい者の会
 手話表現学習会
(聖書と典礼)
  19日(火) 13:00 カトリック会館7階

心のともしび 番組案内 
 テレビ(衛星.CATV)スカイAスポーツプラス
  毎週土曜日 朝7:45
  新シリーズ「小さな気づきを大切に」
   出演は 阿南孝也氏(洛星中学高等学校 校長)

 ラジオ(KBS京都) (月)〜(金)朝5:45 (土)朝5:15
  1月のテーマ「勇気を持って歩む」


 
    

※ 2016年3月号の原稿締切り日は 1月27日(水)です。


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