息子とともに苦しみ、悩み、そして喜んだ日々を振り返って


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 「お父さん、学校休んでいいか」。当時小学6年生の息子は私の顔をじっと見つめながらそう言いました。そんな息子の言葉が、これから始まる4年半もの私たちの親子の苦悩や葛藤の始まりになろうとは、その時は知る由もありませんでした。

 転勤族の私は、高松、大阪、そして舞鶴と転勤を繰り返して来ました。当然家族もそのたびに転居することになるのですが、3人の子供たちにとってみれば、慣れ親しんだ学校や友達との別れは辛かったと思います。「お父さん、1人で行けばいい」と渋る息子たちをなんとか納得?させてその都度、転勤をしてきました。親ですから学校やクラスに馴染めるかなと心配しないわけはありません。それでも子供たちはなんとか新しい学校に慣れ、友達ができていることを家内から聞き、ほっと胸をなでおろしたものでした。大阪から舞鶴に転勤になった時も、きっと新しい学校にすぐ馴染んでくれるだろうと私は心のどこかで高をくくっていたのかもしれません。

 もう少しで夏休みに入ろうとしていたある日、息子の担任の先生から、「実はM君、クラスの中に溶け込めないんです」という話を聞かされました。手首に赤く染まった包帯を巻いた息子が担任の先生の車で送られてきたのは、それからしばらくしてのことでした。クラスの窓ガラスを素手で割り、怪我をしたのでした。あとでわかったのですが、本当は自分をいじめている同級生を殴りたかったのですが、優しいところのある息子にはそれができず、そのうっぷんを窓ガラスにぶつけたのでした。私はその時黙って息子を家に迎え入れてやりました。
 その晩のことでした。「お父さん、けんかしていいか」と突然息子が聞いてきました。「人の道にはずれたことをされたのなら、けんかしたっていいとお父さんは思う」。息子は私の言葉を黙って聞いていました。

 やがて夏休みに入り、私は少しでも息子の心を和ませてやりたいと舞鶴から宮津の実家までの自転車での小旅行を提案しました。往復6時間の道のりは息子には大変だったと思いますが、なんとかやり遂げました。
 夏休みはあっという間に終わり、始業式の日を迎えました。私たちの心配を余所に、息子は学校に出かけていきました。ほっとしたのも束の間、ランドセルを持って行かなかった息子はそのことでもまたもクラスでいじめに遭いました。

 その日を境に学校に行けなくなった息子は、学校の勧めで校長室への登校を始めました。雪の降りしきる中、自転車に乗り、やっとたどり着いても児童の姿が見えるとそこから先へ入っていくことができず、そのまま、また来た道を帰るのでした。
 親の気持ちにさらなる追い討ちの言葉や視線がありました。「この小学校で不登校になったのはM君が初めてです」と言われ、校長室登校のため学校へ息子を送る私たち親の姿を「不登校になる子どもを持つ親はどこかに問題があるのではないか」と言わんばかりにじっと見つめる先生方の目、目、目…。そうでなくても息子が不登校になったのは自分たちの子育てに問題があったからだろうかとあえぎ、苦しんでいる心が二重にも三重にも傷つきました。「お前たちはだめな人間なんだ」と言われているようで居たたまれなくなりました。

 そのうち、校長室に通うこともままならなくなり、息子は自分の部屋で一日中過ごす日々が多くなっていきました。そんな状態が続いているある日、小学校の教頭先生が我が家を訪ねてきてくれました。その時に教頭先生が息子にかけられた言葉は今でも忘れることができません。「M君はいつも休みで良いわね。先生は忙しくて代わってもらいたいわ」と言われたのです。息子は何も怠けて学校に行かない訳じゃない。いじめに遭い、行きたくてもいけず苦しんでいる。このことを学校はどう考えているんだろう、この程度の認識しかもっていないのかと大変ショックを受け、学校に対する不信感でいっぱいになりました。そして、教頭先生が放り投げるようにして置いていかれたのが、『聖母の小さな学校』のみかん狩のチラシでした。

 私たち夫婦は誘われるままに初めてみかん狩りに参加しました。そこには同じように不登校に悩む生徒や父母の方々が参加していました。みかん狩りの後、会場を移して話し合いがあり、立ち直りつつある父母の話を聞いても本当に息子もなれるのだろうかと半信半疑の気持ちでした。

 月日は経ち、小学校を卒業し、中学校に入学した息子は一歩も外に出れなくなっていました。そして夜と昼が逆転する生活になっていきました。出口の見えないトンネルの中にいるような辛い辛い日々でした。夫婦でいくら考えても良い解決策が浮かぶ訳ではありません。
 堂々巡りの日々を送っていた私たちに一筋の光明となったのが梅澤先生ご夫妻との出会いでした。梅澤先生ご夫妻は自分たちに考えを押し付けるでもなく批判するでもなく、ただひたすら私たちの辛い気持ちに寄り添うように耳を傾けていただきました。学校や世の中から見放されたように思い、辛い日々を送っていた私たちにそのことがどれだけ心の支えになったかわかりません。

 中学校の入学式にはじまり、授業参観や文化祭、そして聖母の小さな学校の行事の化石取りや魚釣りなど、梅澤先生からすすめられたことはできる限り参加しました。息子がいない場所に参加することに正直抵抗がありました。息子本人がいないところに私たち夫婦が参加してなんの意味があるのだろう。辛いだけではないかと思えたのです。しかしその辛さを味わうことでもっと辛い思いをしている息子の心を知ることができました。
 また、中学校や聖母の小さな学校で見てきたことや聞いたことを息子が聞いてくれようがくれまいが話していきました。はじめのうちはすぐに自分の部屋に入ってしまっていた息子でしたが、梅澤先生ご夫妻の指導を受けながら根気よく続けていくうちに少しずつその場に留まり、耳を傾けてくれるようになっていきました。最初は担任の先生が来てくれても部屋から出てこれなかった息子が担任の先生とも少しずつ会え、そして話ができるようになっていきました。

 それでも「コンビニがあるから僕は1人で生きていける」と言い、少しも動こうとしない息子。梅澤秀明先生から「M君にとっては今の生活が一番いいのかもしれません」と聞いたとき、『この子はこのまま一生を過ごすのだろうか』とその時は奈落の底に落とされたような絶望的な気持ちになりました。でもその梅澤先生の言葉が私たち夫婦に『今のままではだめだ、もっと真剣に生きろ』と叱咤激励してもらえたのだと思います。
 毎晩のように夫婦で息子のことを話しました。出口の見えないもどかしさから、夫婦で酒を飲み、憂さを晴らしたこともありました。匂ヶ崎の桜の花になぐさめられたこともありました。そのうちに話題が息子のことからいつしか私たち夫婦のことに変わっていきました。お互いに本音で語ることがなかった自分たちに気づけました。以来、徐々に本音で言えるようになり、夫婦の絆も深まっていきました。『やっと本当の夫婦になれた』と思えました。

 そんな繰り返しの日々を送るうちに聖母の小さな学校にも車に乗り、玄関先までは行けるのですが、なかなか車から降りることができなかった息子が、車から降り、聖母の小さな学校に居られる時間も5分、10分と延びていきました。やがて同級生のI君に迎えに来てもらい一緒に自転車で、聖母の小さな学校に行けるようになっていきました。

 そして中学を卒業し、将来の進路を選択する時期がやってきました。でも私たち夫婦から見ても、まだ高校生活を送れる力が息子にはないように思え、もう1年聖母の小さな高校で過ごすことを決断しました。
 1年はあっという間に過ぎ、ふたたび進路を決める時期がやってきました。N高校を受験した息子は見事合格。奈落の底に落ちるような思いを味わった私たちに息子が高校生になれるなんて夢にも思えなかったことだけに本当に嬉しく、その晩は妻の手作りの赤飯で家族みんなでお祝いをしました。

 合格の喜びも束の間、『本当に高校に通えるのだろうか』と心配でした。そんな私たちの心配を察していただいたように「1人でも知っている人がいればM君も心強いでしょうから」と梅澤秀明先生が講師としてN高校に入っていただけたのでした。それでも「しんどい、もう休みたい」と帰ってくるたびに息子は私たちに訴えてきました。息子は毎日のようにN高校から帰りに聖母の小さな学校に立ち寄り、梅澤先生ご夫妻に支えられてもらいました。そのうちに「休みたい」とだんだん言ってこなくなりました。
 
 2年生に進級した息子はその年に発足した卓球部に自分から入部しました。続けることが出来るんだろうかと思いましたが、普段の日はもちろん、夏休みも1日も欠かさず卓球の練習に打ち込む息子の姿は実に頼もしく映りました。妻は息子が高校に入ったとき、息子のために初めて弁当が作れ、うれし涙を流し、汗でぐしょぐしょになった練習着を洗いながら、また心から幸せを噛み締めることができました。
 3年間の息子の高校生活は私たちにとって目を見張るほど充実したものでした。そして大学受験。あられ混じりの風雨の中、受験に向かうため電車に乗り込む息子の後ろ姿に『がんばれよ』と心の中で声援を送りました。

 その息子もこの春、大学4年になります。勉強にアルバイトにそして就職活動にと忙しい毎日を送っています。「学校に行けたから終わりじゃないんです。これからも人として成長していくことが大事なんです」と梅澤良子先生に言われ、ハッと我に返らされました。『息子とともに人として少しでも成長していきたい』。これからもその気持ちを持ち続けて生きたいと思うのです。

(この文は、平成16年、舞鶴市PTA連絡協議会、同母親委員会主催「舞P子育て研修会」で体験を発表されたものです)