不登校を子どもと共に生きて

 不安と期待が入り交じった私どもの長男M夫のN高校の生活がスタートしたのは三年前のことでした。M夫に将来があるのだろうと、出口にみえないトンネルに入ったような不安感に真剣に悩んだ私たちには、M夫が高校生になれるなんて不登校の時には想像もできなかったことが現実になった瞬間でした。それでも授業についていけるだろうか、団体行動がとれるだろうかと心配の種はつきませんでした。

 不安は的中しました。案の定、入学してすぐに行われた宮津にあるマリンピアでの合宿をまだ無理と言い、欠席をしてしまいました。その後行われた体力測定も私たちの目からは体調が悪そうには見えなかったのですが、体調を悪いことを理由に、行くことができないと言い出したのです。
 「逃げたらいかん!」という主人の言葉もむなしく、決心がつかないM夫は欠席することに・・・。「自分で学校に欠席の連絡をしなさい。」という私の言葉に、自分で欠席の連絡ができたことがせめてもの救いのように思えました。
 このまま、また不登校になってしまうのではないか、主人と私は落ち込みました。どうしようもない不安感や焦りを少しでも癒せるならと近くにある匂崎公園に行き、主人と二人でただただ海を見つめた時もありました。

 それでも、聖母の小さな学校の梅澤先生ご夫妻は、M夫のために心をくだいて接していただきました。M夫が安心して学校へ行くことができるようにと、多忙な時間を割いて秀明先生はM夫のためにN高校の講師を引き受けていただきました。また、M夫は不安から学校へ行く前には必ず梅澤先生に電話をし、帰りには聖母の小さな学校に立ち寄るという日々が続きました。心配をかけ、疲れられたであろうに、梅澤先生ご夫妻はそれでも根気よくM夫に接していただき、心の拠り所になっていただきました。ともすれば心が立ち止まったり、後退してしまう私たち夫婦にとっても、梅澤先生の身命を惜しまぬ援助がどれだけ心の支えになり、励みになったかわかりません。

 そんな状況が続いていたとき、「休み時間はトイレに行く以外はずっと机に座っていて、人に話しかけたりしないんです。」と、私たちの心に追い打ちをかけるようなことを担任の先生から聞かされたのです。自分からクラスの人に積極的にかかわろうとしないM夫に、親は何も出来ないだけに胸が締めつけられる思いでした。クラスで話せる人が一人でもできますようにと、祈るような毎日でした。それでも「学校が嫌になった。」「学校がつまらない。」と私に訴えてきました。そのたびに担任のS先生に電話をし、家庭訪問をしてもらったり、聖母の小さな学校の梅澤先生に面談をしていただき、一緒に考えていただきました。
 そんな試行錯誤の毎日が続きましたが、高校に入り、一人で床屋に行ける、自分で洋服を買うことができる、歯医者など病院に行くことができるようになるなどなど・・・、当たり前のことと思われるかもしれませんが不登校の時にはできなかったことができるようになっていきました。こんな小さなことですが、大きな喜びと思えることにしあわせを感じます。

 梅澤先生ご夫妻をはじめ、高校の先生方や周囲の方々の支援で、二年生にM夫は進級することができました。そのときM夫が出会ったのが発足したばかりの卓球クラブでした。コーチのT先生の指導のもと、少しずつ上達していきました。やがて夏休みが始まり、ほとんど毎日のように練習に没頭していきました。卓球がM夫の生きがいになっていたのでした。汗びっしょりになった体操シャツを洗えることに、私はこのうえない喜びを感じました。少々太り気味だった身体も20kg近くもやせ、精悍な顔つきになったM夫の成長が夢のようでした。

 三年生になった時、宮津で行われた卓球の試合に私は初めて応援に行きました。卓球クラブの仲間の中にとけこんでいるM夫の姿を見て、試合には惜しくも敗れはしましたが、私には感動でした。クラブの仲間と、映画にも行けるようになりました。初めてのことでした。
 親として残念だったことがひとつありました。風邪のため体調不良もあったのですが、韓国への修学旅行に行くことができなかったことでした。高校生活の思い出がないんじゃないかと思えたからでした。
 でもそれは私の取り越し苦労でした。体育祭、文化祭の合唱コンクール、卓球のインターハイ予選参加や合宿など、M夫にはたくさんの思い出があったのでした。特に文化祭では、自分から心を開くことがあれだけ苦手だったM夫が、にこにこしながら友だちとポン菓子を食べている姿をみた時、私は喜びで心が震えました。

 小学六年の二学期から不登校になったM夫にとっても、わたしたち家族にとってもつらく長い道のりでしたが、今は通らなければならなかった道だったと思います。M夫が不登校になり親子や夫婦のあり方が見つめられ、分かり合えることがたくさんあったからです。
 わがままで、短気な性格だったM夫は、聖母の小さな学校で梅澤先生ご夫妻や生徒とふれあう中で指摘され、徐々にそのことを自覚できるようになっていきました。以前は雨に濡れて帰ってくるだけで不機嫌になったM夫が、今では不機嫌になることも少なくなり、表情もおだやかになりました。
 この子には感情があるんだろうかと心配したこともありましたが、平成12年、13年と続けて他界した姑や母の葬儀では涙を流し、別れを惜しんでいるM夫の姿がそこにありました。人としての心をちゃんと持っていることが悲しみの中でほっとした気持ちにしてくれました。
 私たち家族も変わりました。以前なら不機嫌になったM夫にみんなで気を使っていたところがありましたが、今はどんな態度に出ようと、思っていることをはっきり言えるようになりました。

 三年生になり、進路を決めることになりました。進学をしたいと決めたのですが、将来何になりたいのかがわからず、ぎりぎりまでM夫は進学先のことで悩みました。何をするにも決断することが苦手で、時間のかかるM夫に、つい口をだしてしまいそうになる気持ちをぐっと抑え、じっと我慢して待ちました。梅澤先生や担任の林先生に助言をしていただいた結果、指定校推薦でK大学を受験することになりました。聖母の小さな学校で、梅澤先生からまじめにすることや人の話をよく聞くことを教えていただいたことが、高校生活で役立ちました。授業をまじめに受けたり、ノートをよくとったりと、まじめに取り組んだ結果が指定校推薦をしていただける結果につながったと思います。

 受験日当日はみぞれ混じりの雨が叩きつける悪天候の中、「一人で行く」と言い、出かけていきました。内心心配でしたが、祈るような気持ちで見送りました。M夫が受験を終え無事帰宅した時は正直、ほっと安堵しました。「どうだった?」と言う私の問いかけに、開口一番「親と一緒に来ている人がいた。過保護に見えた。」というM夫に私はすかさず「M夫がいままでそうだったんじゃない。」と返すと家族みんなで大笑い。当たり前の会話が交わせ、笑い合えることがこんなにもうれしいものなのかと思いました。
 合格通知が届いたのは11月16日のことでした。すぐに梅澤先生や高校の担任の先生に連絡させていただきました。「おめでとうございます。」と心から喜んでいただき、私は一層喜びがこみ上げました。また、M夫が不登校になって以来、心配をかけたり、応援してもらった二人のおばあちゃんが生きていればどんなにかよろこんでくれたかわかりません。大学生になったM夫の姿をみてもらいたかったです。
 「アルバイトをしようかな。」と言っても、なかなか行動に移せなかったM夫が自分で申込みや面接を受け、年末年始に郵便配達のアルバイトをすることになりました。雪道を配達中のM夫の姿を見かけた時、思わず“がんばれ!”と心の中で叫んでいました。

 2月25日、長くもあり短くも感じた高校生活を締めくくる卒業式を迎えることになりました。名前を呼ばれ、R校長先生より卒業証書を受け取るM夫の姿を見た時、主人も私も不登校の時のことが走馬燈のように思い出され、喜びの涙で胸が一杯になりました。
 四月からいよいよM夫の大学生活が始まります。大学入学までと、聖母の小さな学校の卒業生で今はR大学一回生のI君に誘われ、特急電車の車内販売のアルバイトを始めました。「ひとりでも生きていける。コンビニがあるから。」と家に閉じこもっていたM夫が人と接しなければならないアルバイトに挑戦しています。

 親としてもこれからもまじめに、そして楽しく、有意義な大学生活を送ってほしいと願わないではいられません。卒業式で市長が「現在の私があるのは、努力、神仏の加護、周りの人の支援があって今の自分があるんだ」というお話をされましたが、梅澤先生をはじめ、多くの方々の支えがあってまさにいまのM夫があります。自分のつらかった経験を生かし、今度は他人の役に立てる人になってほしいと願うばかりです。


(2002.3.23聖母の小さな学校 文集 「自分をみつめて」から)