2012/12 /12 再掲載)

京都教区ビジョン & 宣言文

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京都教区ビジョン


 京都教区がビジョン作りに取り組んで早二年半が過ぎた。最初は、かなりの反発、拒否もあったが、信徒の一人一人の理解と忍耐の結果、教区全体の多くの協力で、最終的な文章作成をするまでに至った。ここに掲載したものは、その最終案であるが、この案は、田中司教に提出され、司教の意図に従って修正・加筆の後、1981年1123日、京都教区創立記念日“教区一致の集い”の中で発表されたものである。なお、創立記念日当日、田中司教によって読み上げられたビジョン宣言文は、この文章の要点をまとめたもので、非常に具体的なものである。今後、各共同体での、ビジョンの具体化が、課題となるであろう。



社会とともに歩む教会   ―― キリストは社会の中に働いておられる

 教会は、御父によって定められ(教会憲章二)、キリストによって建てられ(同三)、聖霊によって生かされ、導かれています。この御父、御子、聖霊の三位一体の神によって一つに集められた、神の民としての教会(同四)は、実際にこの京都教区においても、また同じ信仰、同じみことば、同じパンによって結ばれている私たちのそれぞれの小さな集いの中にも働いています(同三)。そして私たちは、教会という集いとしても、また一人の信徒としても、人々の中に神の国を建設する使命を、キリスト御自身からいただいています(マルコ1615)。

 神の国を告げ知らせ(マタイ10・7)、建設することは(同633)キリスト者であれば誰もが目指さなければならないキリストから授かった目的です。しかし、それを実現する道や方法はいろいろあります。そして、その表現の仕方もいろいろあるでしょう。

 そこで私たち京都教区民は、真剣に祈り、聖霊の導きを熱心に求めながら、意見交換を重ねた結果、教区民として、共通のビジョン(方針・展望)を持つことによって、神の国をよりよく、また、よりふさわしく実現するように努力する決意をいたしました。

 それは、「社会とともに歩む教会」ということであります。

 私たちはこの社会の中にあって、神とすべてのものの前に謙虚にひざをかがめ、愛と正義、信仰と希望に基づき、一人一人を大切にし、またすべてのものを尊重しながら、ともに歩んでいかなければならないと考えます。そして、このような大目標を取ることになったのは、教区内のそれぞれのグループの代表を通して出された「私たちのビジョン」を集め、それを分析、整理、検討した結果、生まれたものなのです。つまり、私たち一人一人が、日頃教会を思うにつけ考えてきた、教会のあるべき姿をまとめたものであると言えましょう。

 それらをまとめてみると、次のような六つの間題が浮かび上がってきました。

(1) 青少年の育成

(2) 教会の魅力と一致

(3) 生活の中での祈りと典礼の正しい位置づけ

(4) 教会の自己刷新

(5) 社会と教会の関わり

(6) 教会組織の近代化

 そしてその底に「社会とともに歩む教会」という一貫した流れが、私たちみんなの心の中に願いとしてあったのです。

 したがってこれらの問題が、教会の指導的な立場にある人々から出されたものではなく、信徒一人一人の自覚と反省から、教会は社会にあって、教会の本来の姿を保ちながら、またそれを活き活きと保っていくためにこそ、社会とともに歩むものでなくてはならないという結論を、みんなで導き出したのでした。

 このように、このビジョンがみんなで選び出したものであるという確認に加えて、これが第二バチカン公会議の精神に基づいたものであることをも確認しておきたいと思います。公会議は聖霊の導きのもとに、教会、世界、個人に向かって、すばらしい呼びかけをしてくれました。しかし十五年たった今、私たちはその精神を十分に理解して、その呼びかけに正しく応えているだろうかと反省し、さらにその精神を現代世界に合ったものとして実現させようとし、またこれを見直してみようとしたのです。このことは、以後私たちが、このビジョンに従って、より具体的なことに取り組む時、つねに私たちの考えを導いてくれるものとなりま

しょう。つまり、この私たちのビジョンの中に、いつも福音と公会議の精神が潜んでおり、ビジョンを具体的にする時、その土台に建てられたこの精神に、照らして考えてみることを忘れてはならないということなのです。

三つの共通理解

 さて、先にあげられた六つのテーマについて、もう少し詳しく述べる前に、いくつかの共通理解(同意)を得ておきたいことがあります。

一、社会

  私たちがここで社会という時、「聖」即ち教会、「俗」即ち社会というように、いとも単純、簡単に対立させて区別することは、注意深く避けるべきだということです。それは教会も聖と俗、 社会も俗と聖をともに兼ね備えているからです。社会とは、私たちが現に生きている、俗と聖とを兼ね備えた世界(家庭、地域社会、学校、職場、国、 世界、いろいろの集いなど)なのです。

  教会は、まさにその人々のただ中にあります。その中にあってこそ、世の光、地の塩(マタイ5・1314)としての使命を、教会は果たすことができるのです。そしてこの社会の中に「キリストの名によって集まる時」、その集まりの中に教会があるのです(マタ 1820、世界の中の教会)。


二、社会とともに歩むという時

  社会を、神と無関係なものとか、全く神と相反する世界と考えてはいません。むしろ私たちは、社会の中に「住み」(マタイ1.23)、「働いておられる神」(使行1728)を見出していこうとしているのです。したがって福音宣教とは、単に神を全く知らないか、キリスト に対立する教えを信じる人々に福音を述べ伝えていくということではありません。むしろ、創造の働きと、人となられたキリストが復活を通して送られる聖霊のすばらしい働きによって、三位一体の神が、社会の中ですでに生きおられ、働いておられることに、まず気づかせることであります。そして、 彼らに、キリストとともに働き、聖霊とともに生きる喜びと幸せを、私たちの言葉と行ない(証し)を通じて感じさせることなのです。

三、社会とともに歩むためには

(1) 私たちが生きている社会がどういうものであるか、そのよいところも、悪いところも、できるだけ正確にとらえる努力が必要です。

(2) 社会が自らの進歩と発展のために、何を必要としているのか(ニード)、何を私たちみんなに語りかけているのか、どう動いているのか(時のしるし)、を繊細に感じとる敏感な感覚が必要です。

(3) 教会の本質、本来の姿をしっかりと見極めたうえで、社会が進歩と発展のために必要としていることに、福音の精神をもって、正しく応えていけるように考えなければなりません。

自己刷新と社会との関わり   ―― 中心課題

 社会とともに歩むという大目標を示した今、六つのテーマから、特に中心となると思われる二つのテーマを質問の形でここに提出します。

(1) 私たちは、個人として、教会として、社会の中にあって自己刷新しようとしていますか。

(2) 社会に対して、教会はどのような関わりを持とうとしていますか。また、社会が自らを福音的なものとするために、教会が持つ役割は何でしょうか。そして、そのような社会の福音化のために、教会はどのように貢献できるでしょうか。また反対に、教会が社会から学びとることがあるのではないでしょうか。

一、教会の自己刷新

 教会の自己刷新の問題については、次のような質問をしてみたいと思います。

(1) 教会自身が自己刷新していますか。

(2) 信徒一人一人が自己刷新していますか。

 さらにそれぞれについて、次のような問いかけをしてみたいと思います。

一)社会の中での教会の自己刷新

(1) 教会行事が、単なる仲良しグループの域を出ていないのではないでしょうか。

(2) 教会の内部だけに留まらず、社会のいろいろな問題や出来事、社会の動きに敏感に対応しようとしていますか。

(3) 社会の中に働いておられるキリストを見出そうとしていますか。

(4) 教会という集い(教会共同体)が、自らの「本質的なこと」すなわち神の福音を、ともに探しながら、それに応じて自分を変えていく勇気や謙虚さを持っていますか。かえってその本質を見る目を失い、互いに多くの行き違いを生み、刷新と成長を妨げてはいませんか。

二)信徒自身の自己刷新

(1) キリストを本当に信じるものとして、自分を成長させる努力をしていますか。すなわち、神と人に対し、社会といろいろな出来事に対し、素直であるように努力していますか。そして物事を正しく判断し、相手を理解しようとする心、何事にも真剣に福音の精神によって取り組む姿勢をもって、正しく反応できるように努力していますか。

(2) いろいろな形の黙想、研修、修養、また自分にできる奉仕、宣教活動などを通して、自分を霊的、精神的に成長させるよう努めていますか。

(3) 家庭生活の中で、いつも祈りが大切にされ、それを養うよう努めていますか。そして家庭の中に働いておられる主を 見出そうと努めていますか。

(4) 自分のいろいろな働きの場が、神の光栄をあげる場であることを知っていますか。また、そのような日常生活を福音の精神に従って正しく生きぬくことにより、自分の信仰を磨き、徳をつんでいこうと励んでいますか。そして、その中での一人一人の人との出会いを大切にしていますか。つまり、あらゆる時、場所、人、出来事などの中に生き、働いておられる神を見つめようと努力していますか。

(5) キリスト信者として、活動が神の愛と正義に適っているかを見直し、さらに活動のための祈りが何よりも大切であること、また、祈りも重要な活動であることを認め、祈りに時間を取ろうとしていますか。



二、社会との関わり

 ここでは次のようなことが問題にされます。

(1) 社会というものを、どのような目で見るのでしょうか。

(2) 教会全体として、また信徒一人一人として、社会に対して正しい関わりを持つために、どのように自らの態度を改めようとしているのでしょうか。

(3) 教会として、一人の信者として、社会のどの点に特に目を向けるのでしょうか。

 (1) (2) の質問に対しては、序文と自己刷新の項でかなり述べてきました。したがって、ここでは主に、私たちの社会に対する目の向けかた、心の向きについて述べたいと思います。しかしその前に、先に述べた社会を見る目は、余りにも楽観的すぎたきらいがあることをことわっておかなければなりません。

 現実の私たちが住む世界は、もっとどろどろした醜い社会です。利害関係、ねたみ、憎しみ、悪意、利己主義など、およそ福音の精神に反する要素があり、私たちを、不信仰や不道徳に落とし入れる「反キリスト」「偽預言者」(マタイ24・9〜)と恩われるものが存在していることも事実です。信徒も教会も、この泥沼のような社会に生きていかなければなりません。その中に生きぬくことは、「自分をいけにえ」としてささげることかもしれないのです。ですから私たちには、「この世に同化させてはならない」面があるのです。(ローマ12・1〜2)

 またこのことは「蛇のようにさとく」ならなければならないということでしょう。しかし、だからこそ「鳩のように素直で純粋でなければならない」(マタイ1016)のではないでしょうか。その純粋さや清さが、また、社会の刷新を正していく力となるのです。とにかく私たちは、醜いからといってこの社会から逃げ出すわけにはいきません。そこに遣わされているのですから。(ヨハネ1718

 そこで私たちは「自分を新しく作り変え」、この社会にありながら社会に流されず、神と信徒である兄弟たちとの一致を保ちながら「何が神のみ旨か、すなわち何が善であり、何か神に喜ばれ、まだ、何がより完全なことであるかをわきまえる」ようにならなければならないのです。(ヨハネ17619 ローマ12・2)

 しかし、こういった反面、社会の中に実にすばらしく美しい面が、醜い面よりももっと多く、深く潜んでいることを信じていきたいものです。ただ多くの場合、それが見えにくいだけだということも忘れたくありません。醜い面を改めていく賢明さと勇気は必要です。しかし、美しい面を発見し、伸ばしていく、貧欲なまでの希望と喜びを持つことは、なお大切です。何故ならそこに、人間となり復活されたキリストが働いておられるからです。世の中に悲しみや苦しみはあります。醜い面、汚い面もあります。だからこそ、そこにキリストが働いていただかなければならないのです。だからこそ、キリストのその働きに、私たちも参加しなければならないのです。

 このようなことを心に留めると、社会の一員であるとともに、教会の一員である信徒一人一人の社会に対する見方は、次のような心構えから生まれてきます。<私たちは、それぞれの場、人の中に住み、働いておられるキリストを見出していこう。>

 この原理から、次のようなことにも注意しましよう。

(1) 私たちは、家庭、職場、学校など、毎日生きている日常生活の場に召されています。信仰の場は、ただ日曜日の教会だけではなく、むしろ月曜日から土曜日までの、社会の中の日常生活の中にあるのです。(これか現代世界憲章などで言われる世界の中の教会という意味でもあります。)

(2) キリストは、すべての人々の中に生き(ようとし)ておられます。しかし特に、小さい人(マタイ2531)、貧しい人(ルカ418)、いろいろな意味で人間の目からすれば恵まれない人々の中に生きておられます。そして、そのような人にしたことは私にしたのだ (マタイ25・31〜)と言われるキリストのことばを、私たちは聞きのがすことができないのです。

(3) このような人々が、社会にあっても、教会にあっても、かけがえのない兄弟のー人としてみなされねばならず、また「完全な参加と平等」が得られるよう努力しなければならないのです。

(4) 私たちの社会に対する目は、小教区、教区、日本だけに留まらず、広くアジア、アフリカ、さらに世界にまで目を向けるべきです。なかでも特にアジア、アフリカの人々の苦しみを見落とさず、そのような苦しみと痛みを分かち合うようにしなければなりません。

(5) さらに重要なことは、ただ与えることだけではなく、受けることも大切だということです。物質的、身体的、精神的な支えを必要とする人々から、実に多くの霊的、精神的な恩恵と教訓を受け取ることができるということも忘れてはなりません。

 以上のようなことが、社会に対して個人が向けるべき主な心の姿勢です。

 次に、社会に対する教会の態度について述べなければなりませんが、今までに述べてきた信徒一人一人の取るべき態度を、教会全体としても取るべきでしょう。しかし次にあげる四つのテーマは、特に教会として取るべき態度として受けとめることもできます。(ただし、これら四つのテーマを、個人の立場からみなくてもよいという意味ではありません。)

 最後に、教会にしても、個人にしても、社会を見る目はいつも「福音の精神に照らされて」ということを忘れてはいけません。それは、キリストの目をもって見、キリストの心をもって行なうということなのです。そうしなければ、社会の中に働いておられるキリストを見出すこともできなくなるでしょう。


中心課題の具体化を   ―― 具体的課題

 教会が社会の中にあって自己刷新をしながら活き活きとしたものとして人々の目をひき、心を捉え、人々を引き寄せるため、また教会が躍動して生き続けるためには、次の四つの点に注目すべきでしょう。

(1) 教会の魅力と一致

(2) 生活の中での祈りと典礼の正しい位置づけ

(3) 教会組織の近代化

(4) 青少年の育成

一、教会の魅力と一致

 教会が社会の中で福音の精神に従って本当に自己刷新していく時、自然に教会は魅力あるものとして映るでしょう。そしてその一致は単なる表面的な一致(画一化)ではなく、一つの信仰によって結ばれるものです(エフェゾ4・1〜16)。それは教会の目的でもあり(ヨハネ17)、愛と聖霊のすばらしい実でもあります(ガラテヤ522)。そして、その一致を好意の眼差しで見守ってくださる人々には、大きな魅力となるでしょう(使行222〜、432)

 さて、教会に魅力を感じさせることは、次のようなことであります。

(1) 教会の中に、単なる話し合いではなく、まず相手の考えや望みを汲み取ろうとする心から生まれる、本当の対話の精神が見出されること。

(2) 一人一人が大切にされ、本当に人間らしい扱いを受けていることが示され、また、今の世に真の生きがいを伝えてくれるものを教会か持っていることを感じさせること。

(3) 社会の要請(ニード)、社会の動き(時のしるし)に対して、正確に応えようとする姿勢、また、その問題に真剣に取り組もうとしている姿勢を示すこと。

(4) 教会が、利害関係を越えた、愛と正義に結ばれた共同体であることが感じられること。

(5) しくみやしきたりにこだわらず、新しく、現代に合ったものとして変えていく勇気と努力を持つこと。(組織の近代化。)

(6) 年齢、職業、身分、学歴、性格など、いろいろ違った立場にある人々が、一つの信仰によつて深い兄弟愛に結ばれていることが証されること。

(7) 障害者、病者などの弱い立場の人々を、ただ大切に守るだけでなく、その人々にも働きの場を教会の中でも与えられており、その人々の力がどうしても必要な仕事を探し、作り出す努力がなされていること。

 以上のようなことが実際に具体化されていく時、教会は、より魅力を持つことができるでしょう。


二、祈りと典礼

 教会の一致の原動力は祈りと典礼です。祈りと典礼は、個人の霊的な改善と成長のために是非必要ですが、また同時に、共同体作りの基礎であることも確認しておきたいと思います。しかも、この祈りと典礼に基づいた共同体作りや、現代の人々に合った祈り・信心業への試みは、すでにいろいろな形で始まっているのです。

 そこで、その試みを理解し、正当なものには合わせていく、次のような努力が望まれます。

(1) 新しい典礼運動の正しい理解と体験を、さらに深めるよう努力しましょう。

(2) さらに深い関わり合いを持てるような、小さな共同体作り(例えば基礎共同体)を試みてみるのもよいでしょう。

(3) 一般信者が、もっと積極的に祈りと典礼(特にミサ)に参加するように努めましょう。

(4) 祈り、信心業、霊的生活、ミサを中心とした典礼など、信仰の表現の方法はいろいろあります。その中で、古きよきもの、新しきよきものをともに大切にする心の広さをお互いに持ちましょう。

(5) 祈りも典礼も、日常生活を生かす原動力だけでなく、生活の中の神体験と言っても言い過ぎではありません。したがって、祈りや典礼にあずかる時を充分持つよう努力しながら、祈りと生活を一致させる努力を怠ってはいけません。

(6) 教会の中で、特に祈りと犠牲、典礼への奉仕などによって、教会建設に努力している人々の価値を認めましょう。

(7) 信仰が本当に生きたものになるためには、私たちが生きている文化の中で生かされる必要かあります。特に典礼や祈りが、生きた信仰表現であるならば、文化との正しい融合を図るよう努力すべきです。(これは最近、土着化、受肉という言葉でよく言われていることです。)

三、教会組織の近代化

 教会組織の近代化について、次のようなことを述べたいと思います。

 教会の神からの恵みと、みことばを伝えるという「上からの流れ」や、教会がキリストによって建てられたということを考えますと、教会の組織は、変えられない部分や、神から(上から)という性格を持つものです。しかし、不必要なところで形式化した時代遅れのしくみが、教会の魅力を失わせていることは事実です。教皇を頂点とした、いろいろな役職制を持つ位階性というものの重要性や価値を、教会の組織が十分に認めても、正当な意味での民主的要素は充分取り入れるべきでしょう。(教会憲章第二、三章、信徒使徒職教令。)

 教会の近代化ということは、いろいろな点で考えなければなりませんが、ここでは信徒と聖職者の本来の役割をはっきりさせ、分担させることが、問題を解く鍵となります。そこで「本来信徒に委ねられることは信徒に」という方針を、できるだけ徹底させることが大切です。そこで、次のような課題を掲げてみました。(1) それぞれの責任の分野をはっきりさせましょう。さらに信徒リーダーの養成に努めましょう。

(2) 司牧評議会なとの設置。全員参加が可能となる組織を作りましょう。そしてそのためのそれぞれの権限をはっきりさせましょう。

四、青少年の育成

 教会と人類の未来は、青少年の双肩にかかっていると言っても過言ではありません。また、青少年の考え方や行動の中に、現代の姿が反映され、現代社会が必要としているものが隠されていることを数多く発見することがあります。青少年はある意味で、時のしるしであると言えます。このような青少年が正しく育ってくれることは、人類にとってすばらしい未来を築きあげる保証になります。同じことが、教会の若い信徒の間にも言えるでしょう。

 さてこのテーマでは、二つの立場から論じられるべきでしょう。一方は青少年の立場から、他方では成人信徒の立場からです。しかし出てきたいろいろの案は、多分に大人の立場に立って青少年のことを考えるということがほとんどでした。何故そうなったかは両方の立場から謙虚に反省することにして、その多分に大人の立場から、言わば成人信徒の謙虚な自己反省として表明したいと思います。願わくは青少年のみなさんが、その誠意を汲み取り、今度は、みなさんがこの問題に対し、どう訴えられるかを聞かせていただきたいと思います。ただその時、成人信徒や教会に対する、単なる不平不満要求を突きつけることにならず、むしろ福音の精神にのっとった建設的な意見を出していただけることを信じます。

 そこでまず、青少年の育成について考える時、大人の理想や望み、エゴイズムや先入観で鋳型にはめこんだような成長を押しつけていたなら、それを反省し、青少年の自発性と自由を尊重した成長を助け、青少年の持っている可能性の豊かな発展を支えるべく、いろいろな努力をすべきであると考えます。別の言い方をすれば、青少年一人一人が、神から与えられた精神的な自由、感情に流されてしまわない心の自由をもって、できるだけ、自分自身のことは自分で考え、祈りながらよく考え、祈りながら自分で決めていける自立した人間の成長へと導くべきでしょう。また信仰においても、親から強制されて守るのではなく、自分自身が神の恵みに支えられて、自分の信仰をすばらしい財産のように大切にし、自分の意志で自分の信仰を証し、自分の信仰の責任を果たすことができるように、成人信徒も教会も助け励ますべきであると考えます。

 さて、このように青少年育成の問題の大筋の方向を、大人の立場から示そうとする時、私たちは非常に大きな危険をおかしつつあることに注意しなければなりません。

 その一つは、成育の問題を幼児から少年・青年と、一まとめに論ずることの危険です。例えば信仰の自発性の問題は、幼少年期と青年期にある人とでは全く違います。あえて強制と自発性を両極におきますと、強制の度合いは年齢が下がるに従って強く、逆に自発性は年齢が上がるに従って高くなるはずです。言い換えますと、親の干渉の度合いは、年齢が下がるほど強くあるべきだということは当然のことです。したがって、例えば信仰の自発性ということは、「その方向に向かって、小さい時から心がけるべきだ」ということにほかなりません。そして青年たちが自発性に満ちた、豊かな信仰に生きるためには、幼児期、否むしろ母の胎内にいる時から、母親をはじめ、父親や家族の深い信仰に満ちた、密着した信仰における生活体験(生命体験)が是非必要であることを忘れないようにという、自発性とはおよそ相対するかにみえる事実も心に留めておかなければなりません。したがって育成の問題は、まず、幼児、少年、青年と分けて考え、次にそれらを統一して考えるという二段構えの取り組みが必要でしょう。

 もうーつの危険は、育成という言葉を聞く時、大人の育成、特に、信仰における育成は終わり、ただ育成する側の立場のみを占め、育成される側に立つことはもうないという印象を受けるということです。実に、私たちの人格の育成も、信仰を深めることも、徳を修めることも、生涯死ぬまで続けられるものであり、また大人たちは、実に多くのことを予供から教わるのだということを決して見のがしてはいけません。

 さらにもうーつ。育成という時、当然次のような言葉が、大人の人々の口から出てくるでしょう。「青少年たちが教会の成員として積極的に参加できるよう、私たちはあらゆる努力をしましょう。」逆に青少年たちは次のように言うでしょう。「教会はおもしろくない。私たちを暖かく迎えてくれる雰囲気がない。私たちの働きの場がない。」等々。一見これは、大人の側からすれば、謙虚な反省と思いやりに満ちた行ないに見えますが、ここでとても大きな間違いをしていることにはなっていないでしょうか。余りにも過保護になってはいないでしょうか。不完全さ、居心地の悪さ、いろいろの障害と戦い、克服することこそ大切なのです。青少年も少年も年齢相応に、教会を愛し、人々を愛し、教会と人々に自発的に尽くす態度こそが必要なのです。(少し極論すれば、育成というテーマを通して私たちが目指すことは、結局、教会を青少年の手に委ねる勇気があるかという問いかけに答えることであるかもしれません。)

 以上のようなことを考慮したうえで、次のようなことから、より具体的に取り組まなければならないと思われます。

家庭に対して

 家庭は、人間性の豊かな成長のためにも、信仰の育成のためにも、最も基礎になります。特に両親の持つ魅力ある、より円熟した人間性、信仰熊度が、予供の人間性と信仰に最も影響することを自覚しましょう。

学校に対して

  学校教育は、幼児教育を含め、家庭教育とともに最も重要なものです。特にカトリック学校、幼稚園において、本当の信仰教育をますます充実させるよう努力しましょう。受験地獄、学歴一辺倒の知的教育ばかりを重んじる社会にあって、心の教育、健全な体の教育が省みられるようにすることは、私たち神を信じるものの使命です。

教会に対して

 教会は、青少年をただ集めることで満足するよりも、本当の信仰が育ち、青少年自身がキリストに出会うように努め、励ますべきです。キリストの福音、愛と信仰の尊さを教え、ミサなどを本当に理解し、社会に、教会に、自発的な奉仕の働きをするように導くことなとが大切です。子供の信仰を育てる教会学校に、信徒を挙げて協力し、特に親はその予供に、いろいろな習いごとをさせる以上に、信仰の習いごとをさせ、信仰教育、宗教教育をすべてに優先させるよう心がけるべきではないでしょうか。

国、地万自治体に対して

 社会の現状は、どうみても青少年の健全な教育にふさわしいものとはいえません。それは、経済、文化、生活環境など、あらゆる分野にわたって、反道徳的、反宗教的、一言で言えば反人格的要素が社会をむしばんでいます。 ただそれを憂う人は多いのですが、それを理解しようとする方法は必ずしも当を得たものとは言えません。例えば道徳教育の復活ということが叫ばれますが、それはかつての偏った道徳教育への復古の傾きを、敏感にかぎわけずにはいられないからです。人々が本当に求めているものは、人間の真の幸福と円満な人格形成を保障し、愛と正義、信頼と平和に満ちた人間共同体を生み出す力であり、それを与えうるものを探しているのです。キリスト者は、自分たちのもつ福音が、その人々の期待に応える最もすぐれたものであることを信じ、それを伝えるべきです。

 青少年か成長していく過程において、家庭にあっても、学校にあっても、社会にあっても、次のようなことが体験されることが是非必要なのではないでしょうか。

(1) 青少年が育っていく中で、自分も含め、人間が大切にされていること(愛され、価値あるものとされていること、また自分がかけがえのない存在であることなど)を体験していくことが必要です。

(2) 自分が愛され、大切にされていること、また他人、特に病気や身体の不自由な人、貧しい人、いろいろな事情で圧迫され、苦しめられている人が大切にされていることが示され、体験されること。

(3) 自分たちとの真剣な関わり、まごころを持った話し合い、時には叱ることをもおそれない態度を求めているのではないでしょうか。

(4) 大人の人々が信仰者として、一人の人間として、自分の弱さと戦いながら精一杯生きようとする姿を見ること、すばらしい人間、すばらしい信仰の生きざまを示されること、たとえ間違っていてもよい、自分の信仰に従って情熱を傾けて取り組める何ものかを求めているのではないでしょうか。

 こういった一般的なことに加えて、忘れてはならない二、三のことを述べておきたいと思います。

(1) 親たちの悲しい事情に同情したとしても、堕胎、嬰児殺し、幼児虐待(精神的なものも含め)、幼児遺棄などの人間尊重とはほど遠い、このいろいろな現実にどう応えるのでしょうか。社会が悪い、親が悪いと他人の責任を問う前に、人の生命、人権に対する、自分自身の考え方を正してみる必要があるのではないでしょうか。

(2) 親元を離れて、勉学、就職に出かけていく青少年を、どのように受け入れているのでしょうか。

(3) 神のために特別に働く司祭、修道女の召命に対する、真剣な取り組みが必要となります。(参考までに昭和五六年度現在、邦人司祭の平均年齢は約五二歳で、教区内で働く邦人司祭は二〇名です。)そこで自分たちの切実な問題として、働き人を送ってくださるよう刈り入れ主である神に祈るとともに、家庭や教会は、そのためのいろいろな機会を作ってその問題を考え、召命の恵みを愛ける予女が育つよう、ともに協力しなければなりません。しかし、召命の第一のセミナリオ(直訳は苗床、神学校)は各家庭にあり、自分たちの子女を奉献する両親の強い願いが、その基礎となることを思わなければなりません。

 以上はおそらく、大人の立場から青少年の育成に関して望むことでしょう。青少年たちは福音の精神に従って、自分たちは教会に何を望むか、何ができるかということに自分たちで答えてみることが必要なのではないでしょうか。

ビジョンの実現に向けて   ―― 聖霊の導きのもとに

 教会が自己刷新しながら、社会とともに歩んでいくためには、以上のほかにもまだまだ考えなければならない間題があります。

自己刷新への努力

 その中で特に、信徒、司祭、修道士、修道女、カテキスタなとを間わず、一人一人が自己刷新し、養成していく必要があります。もちろん、改心と刷新、修徳や自己成聖の努力は、いろいろなすぐれた方法を使って、ずっと以前から実践されてきたものではあります。しかしそれは、ある特定の選ばれた人の特権としてではなく、すべての人への呼びかけとして、心を開かなければならないでしょう。(教会憲章第五章)

 この養成は、司祭が信徒を養成するとか、信徒が司祭を養成するとかいった類のものより、むしろ、信徒、司祭、修道士、修道女などが、神御自身によって自らが作り変えられるということであり、また各自が、その神の働きに応えて、自分を変えていくという面を強調すべきです。もちろん、霊的なよき教師としての聖職者や、人生のよき先達としてのある信徒の指導や忠告を軽んじるというものではありません。

 しかし養成には、自らの自発的成長への努力と、神の恵みあふれる導きに対する従順が、まず求められるということなのです。そのために、すでに教会の遺産のようにして残された、いろいろすぐれた黙想や修徳法、信心業、そしてとりわけミサ、さらには最近新しく発見されている、さまざまな霊的養成の試みなどにも心を開き、学ぶことも必要でしょう。

具体化への取り組み

 しかし最も大切なことは、以上のビジョンは、これから、より具体化され、実行に移す熱意と賢明な方法や手段を考えることが残された課題だということです。つまり、これからこれらをどう具体化し、実行に移すかという問題に取り組まなければなりません。

寛容の精神をもつて

 その際、また次のこともよく考えておかなければなりません。それは、みんな同じ線路の上を、同じスピードで突っ走らなければならないと思い込み、自分と歩調の合わない人に対し、非常に狭い、不寛容な態度を取る危険に注意しなければならないということです。互いに、相手の生き方、取り組み方に対して、寛容な態度を取らなければならないということです。

 言い換えると、共通の目標を目指しながら、その取る道は、互いに違いうるということであり、また速く歩ける人もいれば、ゆっくりとしか歩けない人もいることを十分考慮しなければなりません。できるだけ互いに理解し合い、協力し合うとともに、他人の取り組み方を尊重する精神を、互いに持ち合わせるべきだということです。そこには、いわゆる対話の精神が生きていなければなりません。(対話は、相手に心を開く、すなわち、相手に譲る、聞く、受け入れることから始まります。)

最終目標を目指して

 そこで私たちの目は常に、最終目標、中心課題に向けられている必要があります。あたかもみんな山頂をながめるかのように、見上げたそこには「神と神の国とその義」が私たちを招いています。(マタイ633)その目標に達するため、みんな共通に求められていることは、「改心(自己刷新)せよ」、そして「福音を受け入れ」(マルコ1・15)、「福音を伝えなさい」(マルコ1615)ということです。それは、あなたがたが世の中にあって社会とともに生き、「世の光」「地の塩」(マタイ51314)になることによって果たされるのです。このようなことが、ともに理解され、方向づけられていれば、たとえ登る道は異なっても、到達するところは同じように、ビジョンを実践する道(テーマ)や方法の違いによる分裂の危険はなくなるでしょう。あるいは、頭や心を中心にして一つに結ばれる神秘体的一致を、これらの諸テーマの間に認めておくことでも、ここで心配される分裂を避けることができましょう。


神のお望みのままに

  私たちには、忘れてはならない希望があります。それは、すべての恵みと啓示の源である神、そのいつくしみの心を余すところなく伝え、人として人間社会に生きぬかれた主イエズス・キリストの福音、さらに、すべての人々を誤りなく導き、助け励まし給う聖霊の導きであります。私たちがこの神の前に平伏し、世界に謙虚にひざをかがめるならば、そこにすばらしい光が私たちの行く手を指し示してくれるでしょう。

 この世界を創り、御子をそこに住まわせ、御子によって聖化し、聖霊によって完成させようとなさる神により、私たちはみんな、それぞれの仕方でこの世界に遣わされています。神のお望みのままに、お望みの通りに、お望みに従って、世界を刷新し、聖化する大きな務めが私たちに与えられているのです。社会の中にすでに生き、働いておられる主に従って、社会に平和と幸福を伝えていく使命が与えられているのです。

 願わくは、主イエズス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが私たちを祝福し、私たちの行く手を明るいものとしてくださいますように。

                 






京都教区ビジョン宣言文

主題 社会とともに歩む教会
                             カトリック京都司教区  

 御父、御子、聖霊によって、一つに集められた神の民としての教会は、実際に、この京都教区にも、またそれに属する信仰共同体の中にも働いております。そして、私たちは、教会という一つの集いとしても、また一人の信徒としても、人々の中に神の国の福音を告げ、それを建設する使命をキリスト御自身からいただいております。

 この偉大な使命を、私たちが生きるこの現代に、少しでも、神の期待にそって実現するには、私たちはどうしたらよいのてしょうか。

 一方、この神からいただいた招きを十分に果たすために、十分な努力をしてきたでありましょうか。 聖霊の照らしに導かれて開かれた第二バチカン公会議は、私たちに、実にすばらしい呼びかけをしてくれましたが、私たちはそれを十分に理解し、その精神にそって刷新を行ない、今日化にどれだけ取り組んできたでありましょうか。

 そういった反省が、今日までにしてきたこと、しなかったこと、今からすべきことを謙虚に見直すように、私たちを促したのでした。

 こうして、私たち京都教区民は、真剣に祈り、聖霊の導きを熱心に乞い求めながら意見交換を重ね、教区民として共通のビジョンを持つことによって、神の国がよりよく、よりふさわしく実現され得ると考え、そのために努力することを決意しました。そして、私たちはこの社会の中にあって、神とすべてのものの前に謙虚にひざをかがめ、愛と正義、信仰と希望に基づき、一人一人を大切にし、また、すべてのものを尊重しながら、ともに歩んでいかねばならないと考え、「教会は常に社会とともに歩むものてある」という結論に達したのであります。

 ところで、このような大目標を掲げるに至ったのは、一人の指導的な立場にある人から出されたものではなく、私たちー人一人が、平素より教会を思うにつけ考えてきた、教会のあるべき姿をまとめたものであります。


 九つのグループを通して提出された「私たちのビジョン」を集め、分析、整理しますと、六つの問題が浮かび上がってきたことは、すてに御存知の通りであります。すなわち、

1、青少年の育成

2、教会の魅力と一致

3、生活の中での祈りと典礼の正しい位置づけ

4、教会の自己刷新

5、社会と教会の関わり

6、教会組織の近代化

であります。

 これらのくわしいことは、「ビジョン本文」を御覧ください。なお、このビジョンは、長期的なものではなく二、三年にわたる短期的なものとし、その時点で、再び見直していきたいと思っております。

 さて、これらを十分考慮した上で、私は教区の第一の奉仕者として、次の訴えを申し上げたいと思います。

大テーマ

「社会とともに歩む教会

 教会は「社会とともに歩むもの」と、私たちは考えます。

 かって、教会は、世俗社会とは全く対立するものと考えられたことがありました。しかし、人々の生きている場こそ、この社会であり、教会はこの社会のただ中にあります。

 私たちは、この社会のあり方に迎合するのではなく、社会の中、人々の中にある福音的なものを、キリストのメッセージ、みことばの種として受け人れ、それに協力すること、その反面、社会の中にある非人間的なもの、福音の精神に反するものに対しては、はっきり声をあげ、賢明にこれを正すことが必要であると言えるでしょう。そして、社会の必要としていることに耳を傾け、福音の精神をもって、これに応えていきましょう。

 以上のことを踏まえた上で、以下の観点から訴えを試みたいと思います。

一、社会に対して、教会はどのような関わりを持とうとしているのか

 答えは、次の言葉に要約されると思います。

「社会のそれぞれの場で働いておられるキリストを見出していこう」

 そこで、

(1) 私たちの信仰を、自分の召されている場(職場、学校、家庭、地域、病床など)で、毎日の思い、言葉、行ないの積み重ねを通して、探求し、表わしましょう。

(2) 社会において、「弱い立場」に置かれている人のことを、私たちは余りにも知らなすぎるのではないでしょうか。貧しい人、苦しむ人(障害者、病人、被差別部落の人、在日アジア諸国の人々など)の実情、彼らが置かれている環境、願いを知り、さらに、継続した真剣な関わりを求め、同じ仲間として学び、支えていきましょう。


二、教会は、自己刷新なしには、十分にその使命を果たすことはできない

(1) その刷新の第一は、対話における自己刷新であります。

 他の人々の言葉に耳を傾け、白分を変える勇気を持ち、愛と正義に基づいた真の対話を進めていきましょう。

 そこで、信仰の根本である、神との対話(祈り)を深めましょう。

 教会の中で、お互いに尊敬と信頼に満ちた対話の実行に努力しましょう。

 肩書きにこだわらず、また、利害関係をこえた対話を進めましょう。

 さらに、教会の外部との対話を忘れないようにしましょう。

(2) その第二は、開かれた共同体作りへの努力であります。すなわち、だれもが受け入れられ、そこで本当の対話ができ、さらに、それが社会とともに歩むものとなるように努めましょう。

 そのために、今の教会の中で、福音的でないものを改める勇気を持ち、福音的なものを育む努力をしましょう。

 したがって、教会が単なる仲よしグループに留まらないように、今ある教会の色々な行事を見直し、もっと社会に開かれたものとしていくように工夫をこらしてみましょう。

 教会の中の人間関係を見直し、信徒同志、司祭同志、また信徒と司祭間などで、主において互いに成長させていただき、福音の実現に向かって励まし合うような関係を、一層築いていきましょう。

 信徒、青少年、修道者、司祭らの主体性を尊重し、その役割分担をはっきりさせるように努め、その責任と使命の自覚を深めましょう。

 一人一人が生きている場を大切にし、よりよい人、すばらしい共同体を、信仰に基づいて作るようにいたしましょう。

(3) 刷新の第三点は、典礼についてであります。

 私たちは、個人的な祈りを大切にしながらも、第二バチカン公会議を通して示された典礼の共同体的性格を、新しい流れとして育てていきましょう。

 そのため、ミサを中心とした典礼を、自分のものとできるような工夫と教育を常に考えましょう。

 また、典礼におけるそれぞれの役割を話し合い、共同体意識を高めましょう。

(4) さらに、共同体のー致の基礎であり、原動力となる祈りと諸秘跡を大切にしましょう。


三、信徒自身の自己刷新こそ並行して深める急務

 教会自身の自己刷新は、信徒個人の自己刷新によって補わねばなりません。そして、その努力の中で目指すところは「信徒各自が、一層真のキリスト者になるよう」励むべきだということであります。そのため、

(1) 各自は、自らの福音化を目指し、聖書を読み、黙想・研修などを通して自己啓発に努めましょう。

 また、福音の精神にのっとった、社会との真剣な関わりを持つよう励みましょう。

 さらに、生活に根ざした祈りと秘跡を重ねて大切にしましょう。

(2) 青少年については次のように考えます。

 成人信徒は、青少年の自由な、可能性に富んだ、主体的な成長を助けるべきだと思います。

 家庭にあっては、より真剣にお互いを大切にしましょう。

 教会においては、ただ青少年を集めることだけにこだわるよりも、ともにキリストに出会う努力が肝心であります。

 青少年のみなさんにお願いします。あなたがたは、自分自身が福音の精神をもって、教会と社会に積極的に関わるよう努力してください。また、まわりで真剣に福音的に生きている人々から学び、主体的に、キリストにおける自己刷新を深めてください。

(3) 司祭、修道者への召命の恵みは、このような福音の実現の努力の上に、神ご自身が必ず準備してくださるものと確信いたします。

 特に青少年が、自分を喜んで主に捧げた生き方をしている司祭、修道者に出会って、目覚める体験は、貴重な召命への動機となり得るでしょう。さらに、召命の芽を育てる積極的な助言や、教区司祭、各修道会について知る機会を持つことは、重要かつ有益なことであります。

 自己刷新に励みながら、社会とともに歩んでいくためには、教会としても、個人としても、まだまだ考えねばならぬことが、ほかにも数多くあるてしょう。しかし、とにかく、短期的なビジョンとして、ここ二、三年、その具体的な取り組みを始めたいと思います。

 先に述べましたことは、まさにその方向性と取り組み方を示したにすきません。これからが、とても大切だと思います。それは、このビジョンに従って、いかに具体化させるかという問題が残されているからであります。 そして、各小教区、各グループとして、また教区全体として、その具体化をはかるという願いを持っているからであります。

 まず、教区としては、福音の心をもって「弱い立場」に置かれている人々のことを、もっと正しく知り、関わりを深めるために、各方面からの協力を得なから、教区内の現状を調査し、その実態を把握したいと思います。

 各小教区、各グループにおいても、これら具体化のための努力を期待いたします。各方面の、いろいろな具体化の試みは、その都度、教区の交流の手段である教区時報を通じて紹介し、それを参考にしてお互いの調和を保っていただくようにお願いしたいと思います。

 そこで、この調和を保つために、まず、このビジョンに従って、各グループの年間行事の見直しをはかっていただきたいのであります。しかし、これは何も、画一化したり、各グループの自発的な活動を束縛するものでは決してありません。

 次に、実践にあたって特に注意しなければならないことは、同じ線路の上をみな同じスピードで走らねばならない、その速度や方向に合わない人はみな間違っている、という不寛容な精神に陥らないようにすることであります。共通の目標を目指しながら、その取る道は、互いに違い得るでしょうし、速く歩ける人もいれば、ゆっくりとしか歩けない人もいることを考慮しなければなりません。できるだけ互いに理解し合い、協力し合うとともに、他人の取り組み方を尊重する精神を持ち合わさねばなりません。そこには、言わゆる真の対話の精神が要求されるわけであります。

 そこで、私たちの目は常に、最終目標、中心課題に向けられていなければなりません。その見る方向がしっかりしており、神秘体的な一致の精神が深く私たちの心に根づいているならば、そういった分裂のおそれはなくなるでしょう。

 私は、みなさんから寄せられた、また、みなさんの願いと祈りをこめて作られたこれらのビジョンのまとめを、聖霊に導かれた大きな恵みとして受け取りました。私たちは、あたかも山の頂上を見上げるかのように、三位一体の神、神の国を見上げ、その根本的福音の呼びかけに耳を傾け、それに応えるために、社会とともに歩む教会作りを目指すことを決心いたします。

 この発表を閉じるにあたり、みなさんが示された誠意と熱意を心から感謝するとともに、今後、キリストの霊に動かされて努力されることを期待し、祈り、その努力を祝福するものであります。もし、私たちの努力が、自己流のものではなく、キリストの霊に動かされたものであるならば、そこには希望があり、力があり、聖霊の支えがあります。

 神のお望みのままに、お望みの通りに、お望みに従って世界を刷新し、聖化する大きな務めが、私たちに与えられております。社会の中にすでに生き、働いておられる主に従って、社会に真の平和と、真の幸福を伝えていく使命が、私たちに与えられているのです。

 願わくは、主イエズス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちを祝福し、私たちの行く手を明るく指し示してくださいますように。


1981年11月23日

   京都教区創立44年目にあたって

         京都司教 ライムンド 田中健一