2002/1 No.290

二〇〇二年 司教年頭書簡
「沖に漕ぎ出しなさい」
  Duc in altum
京都司教 パウロ大塚喜直
大塚司教の紋章説明
司教紋章の説明

"Put out into the Deep "

1.新しい活力(ダイナミズム)

 新年明けましておめでとうございます。
 キリスト降誕二千年の大聖年を越えて、人類にとっても教会にとっても第三番目の千年期が始まり、その二年目の年が始まります。二〇〇一年は、五十七の小教区すべてが共同宣教司牧チームになり、京都教区にとって「共同宣教司牧元年」とも言える節目の年でした。今年は、さらに共同宣教司牧を推進する大切な一年です。

 二〇〇一年の年頭書簡で私は、共同宣教司牧のための動機づけとその目的、精神と霊性といったことを説明しました。それを受けて、さまざまに共同宣教司牧の取り組みを続けながら、「福音宣教する共同体になる」という目的を理解し、具体的に行動するとき、あらためて信徒一人ひとりが、「福音とは何か」「宣教とは何か」「教会とは何か」という問いかけに、
一人ひとりが考えて答え、そして共同体としてそれらの共通の認識をもつために分かち合うことが必要となり、この話し合いが教区協議会でも昨年から続いています。

 さて、昨年教皇ヨハネ・パウロ二世は二〇〇〇年の大聖年を終えて、使徒的書簡『新千年期の初めに』を出し、希望をもってこの新しい時代に踏み出すように呼びかけられました(以下*で引用)。特にイエスの「沖に漕ぎ出しなさい」というみことば(ルカ5・4)を用いて(*1)、教会が新しい活力(ダイナミズム)をもって、効果的な宣教、司牧計画に着手するように促されました(*15)。

 そこで私はこの教皇様の呼びかけを受けて、あらためて「沖に漕ぎ出しなさい」というみことばの中に、目下、共同宣教司牧に取り組んでいる私たち京都教区民への力強いキリストの励ましを見出したいと思います。


2.沖へ ― 挑戦

 イエスはシモン・ペトロの舟に乗り、群集に話した後、シモンに仰せになりました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。シモンと仲間たちは、沖で網を降ろすと、おびただしい魚がかかりました(ルカ5・4〜6)。
 イエスがペトロに出した指示の「沖へ」ということばに注目してみましょう。この副詞句は、ラテン語では「深いところ」(in altum)となっています。湖や海では「沖」ということになります。同じ句がギリシャ語聖書原典では、単に水の深さをあらわすだけでなく、物事の深みや核心への奥深さを暗示し、「沖へ」という表現に、人が未踏・未知の世界、つまり神秘の世界が醸し出す奥深さに向かって歩み行くというニュアンスも込められる豊かな表現となります。つまり、イエスはペトロに「舟をもっと岸から離して遠く沖へ出しなさい」と命じながら、単に場所の移動を命じたのではなく、人間の既得の体験と憶測をはるかに越えた神の支配する領域、神秘の世界、救いの出来事の世界へと向かっていくことを命じられたのです。
 私は、このイエス様の命令のなかに、私たちが福音宣教へと派遣されるときの、神が指し示す深い神秘の中へと勇気をもって飛び込んでいくようにという招き、いやむしろ挑戦にも似た強い促しを感じます。共同宣教司牧には、モデルがありません。そこには試行錯誤の試練が待っています。しかし、神は確かに、私たちが恐れずに立ち向かう勇気を奮い起こす信仰の従順を求めておられます。


3.沖へ ―  無条件の信頼

 徹夜で漁をしても漁獲がなく、むなしく漁網を洗っていた漁師の中で、シモンがイエスの頼みを聞きいれます。ペトロには漁師としての長年の経験から、イエスのことばを断る理由があります。しかしペトロは「おことばですから、網を降ろしてみましょう」と答え、心からの無条件の態度で従います。
みことばを聞いていた群衆や漁師の全員がイエスに従ったわけではありません。どうして、全面的にペトロはイエスに従うことができたのでしょうか。それは理屈ではありません。ペトロは、イエスに「選ばれた」のです。ペトロはわざわざ自分の舟を選んでくださったイエスに心を開き、理屈を越えた無条件の信頼で、この選びに応えたのです。
 広く共同宣教司牧という教会の世界的な新しい動きは、カトリック教会の長い歴史の中で、今の時代の教会に神から託された課題です。なぜか少数派の日本の教会が、選ばれたのです。私たちが将来の教会に対する責任を果たすこの挑戦は、摂理であり、恵みであり、父なる神の救いの業への参与なのです。


4.沖へ ― 未来の展望と飛躍

 教皇様は、大聖年を「第二バチカン公会議から三十五年を経た教会が、新たな飛躍のうちに福音宣教の使命遂行のための刷新を自らに問い掛けるようにと招かれる摂理的な時」とされました(*2)。そして、その上で、未来に展望を持つことはキリスト者の務めであり、大聖年で受けた恵みを「新しい決意や具体的な今後の活動方針に活かす」ことが必要であると言われます(*3)。

 共同宣教司牧の取り組みに対して、「なぜ、しなければならないのか?」「共同宣教司牧には反対である」という意見や声があります。確かに共同宣教司牧は、信徒にも司祭にも、今までと違うことが始まります。今までと違う負担が起こります。しかし、そのようなマイナスの面を避けようとして、今のままの教会で何も始めなければ、今のような教会は早晩私たちの世代で終わるでしょう。


 でも教皇は言われます。「み国のために、後ろを振り返ったり怠惰に流れる暇はありません。多くのことがわたしたちを待ち受けています」(*15)。
 京都教区の皆さん、私たちの教会の停滞と宣教の行き詰まりという現実を素直に見つめ、そこに新たな方法で福音宣教に携わるべき「時のしるし」を積極的に見出して、共同宣教司牧という試みの沖に乗り出していきましょう。


5.沖へ ― 現代福音宣教の新しいニーズ

 キリストは唯一の創造主である神を信じる私たちを、希望の福音を必要としている現代世界の現実という「沖」に立ち向かわせます。科学と技術の著しい進歩と経済発展を遂げた20世紀を終えた人類は、またそれを享受する人々と犠牲になる人々の格差をそのままにしたまま、その歩みを第三番目のミレニアムに踏み出しました。グローバル化していく人類が果たしてしあわせな地球になっていくかといえば、残念ながらそう楽観できません。

 日本ではバブル崩壊後の沈滞閉塞状況の中で、多くの人々が脅かされる生計の努力と不安のなかで自分を失い、疲れ、人間らしさを失いかけています。若者たちは自分自身のプライドと自らの生きる目標を持てずにいらだっています。私たちを取り巻く現代社会の諸問題を見渡すとき、世界のすべての人々が「平和に人間らしく生きる」ということが、いまほど切実に求められる時代もありません。しかし、一方で聖霊の照らしを受けた識別によって、身近なところに福音的な小さな芽生えを見つけることもできます。

 そんな中で、カトリック教会は「貧しい人に福音を宣べ伝える」(ルカ4・18)よう、父である神からキリストを通して呼びかけられています。教区ビジョン(一九八一年)は、信仰を生活の中での探求し、そして社会の「弱い立場」の人々との関わる中で、「社会のそれぞれの場で働いておられるキリストを見出していこう」と宣言しています。私たちが共同宣教司牧を推進するとき、教会内部の意識や組織改革が、教区ビジョンのとおり、教会から私たちが社会に出かけてゆき、教会が「社会と共に歩む教会」になっていくために行われなければなりません。


6.沖へ―観想と祈りへ

 共同宣教司牧は、神の助けによって進める試みです。ですから観想と祈りに深く根を下ろすことは、基本的なことで最も大切です。現代は、ひたすら「行動のための行動」に走る危険をはらみ、時にはいら立たしくなるほど目まぐるしく変動する時代です。このような誘惑には抵抗しなければなりません。「おこなう」以前に「ある」、つまり行動に先立ち存在の意味を探るべきです(*15)。

 共同宣教司牧の推進は、単に古いことを止めて新しいことを始める表面的な変革ではありません。信徒一人ひとりが、そして共同体全体が、いつも自分たちの信仰がキリストにしっかりとつながっているように、謙虚に行う回心のプロセスの上に行われます。したがって、沖へ漕ぎ出す前にキリストのことばに耳を傾けていた人々と同様、イエスのみ顔を常に聖書のみことばを通して観想する必要があります(*16〜28)。「沈黙と祈りの体験だけが、イエスのみ顔を観想するための真の知識、正確な知識、一貫した知識を深め、成長させるためにふさわしい視野を開いてくれるのです」(*20)


7.むすび 「共に網を降ろし、漁をしなさい」

 イエスは、ペトロに「魚をとるために、あなたがたが網を降ろしなさい」といわれます(ルカ5・4)。網を降ろすように命じられるのはペトロだけではありません。また、網をおろして魚が網一杯になり、網が裂けそうになったとき、ペトロは他の舟の「仲間たち」に合図して助けてもらいます。この「仲間」ということばが非常に大事です。キリストとの出会いは個人的な面がありながら同時に必ず共同体的な面があります。

 共同宣教司牧の根本精神は「交わり」です。神は福音宣教を行うために、教会という群れに一人ひとりを呼び寄せながら、少数であっても常に複数で遣わされます。共同宣教司牧の共同性は、福音宣教の本質的な特徴なのです。

 京都教区における具体的な福音宣教の実践は、教区民の一人ひとりの参加と協力なしには、十分に行うことができません。教会内のさまざまなレベルの対話の促進、開かれた共同体作りへの努力、典礼の工夫、祈りと秘跡の信仰生活は、すべての信徒間の交わりを基盤にして行われます。
 今年三月に、私は「共同宣教司牧推進チーム」を結成します。どうか、教区民全員で、この教会の歩みに心を開き、そのために共に祈ってください。そして神の母であるマリアさまを通して、この一年の教区の努力を神様にお捧げしましょう。

 では、勇気をもって恐れずに、失敗も痛みも分かち合いながら、しかし、喜んでキリストに従う信仰の従順をもって、共に教区の舟を「沖へ漕ぎ出して」いきましょう!
みながひとつになるように
二〇〇二年元旦


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