2003/1 No.302

二〇〇三年 司教年頭書簡
「信仰共同体」を体験しよう!
 
京都司教 パウロ大塚喜直
        大塚司教の紋章説明      
司教紋章の説明
Let’s Experience a “Community of Faith”!
 

1.「沖に漕ぎ出しなさい」を忘れずに

 新年明けましておめでとうございます。


 京都教区の共同宣教司牧の推進のために、昨年二〇〇二年の年頭書簡「沖に漕ぎ出しなさい」をお送りしました。
そのみことばの中に、次の6つをイメージしました。
 1挑戦、2無条件の信頼、3未来への展望、4現代の新しいニーズ、5祈り、6共同性です。

 「挑戦」というテーマは、書簡の第1の目的でした。教区全体での共同宣教司牧の取り組みを本格的なものにするために「共同宣教司牧推進チーム」を発足させて、また各ブロックの司教訪問を実施しながら、この「挑戦する」という呼びかけに、教区の多くの信徒の皆さんが応えてくださっていることを実感しています。本当に嬉しいことです。

 日本の他教区においても、共同宣教司牧について、その用語に対する考えや理解が多少異なるとしても、これからの教会刷新の上で、特にその小教区を中心とした教区の運営や宣教のあり方に関して、新しい試みが必要であるという共通の認識は急速に浸透してきています。


2. 今年の努力目標は、「信仰共同体」を体験する

 私たちキリスト者は、父である神の愛が主イエス・キリストにおいて現れていることを信じるものとして、お互いを兄弟として愛する生き方を選んでいます。このことを「共同体」として証しするのが教会です。「共同体」こそ、救いの目に見える秘跡である教会にほかなりません(パウロ6世、『福音宣教』23番)。教会が神の国のしるしとその救いの道具となるために、過ぎ越しの神秘を体験しながら、お互いの信仰において成長できる「共同体」とならなければなりません。自分の信仰を成長させるために、「共同体」は不可欠なのです。共同宣教司牧のために制度や組織としての教会の刷新もさることながら、最も大切なのは、私たちが教会を「共同体」として体験しているか、ということです。

そこで、私は共同宣教司牧推進のために今年は、信徒一人ひとりが教会で「共同体」を体験することを努力目標として呼びかけたいと思います。


3.教会が「共同体」である理由

 主イエスは、弟子たちを宣教に派遣するとき、二人一組で働くように定められました。その理由は簡単に推測できます。弟子たちの活動は、成功や喜びだけではなく、困難や失敗の連続でした。一人ではなく仲間があればこそ、互いに支え合うことによって、苦しい体験のなかでも霊的に成長し、福音宣教に励み続けることができたのです。キリストのための働きを分かち合ったおかげで、一人ではできないような祈りや仕事、祭儀を行うことができたのです。したがって、キリストによって集められ、キリストの弟子として派遣される教会が、「共同体」を形成してその使命を遂行していくことは、主イエスご自身のお望みなのです。

 また、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・21)というみことばで明らかなように、イエスが始められた神の国の宣教は、相互のかかわりにおいて実現していくのだと宣言されました。いいかえれば、人々が相互に福音的にかかわることができるという新しい現実が神の国といえます。とすれば、神の国のために、人々とのかかわりの中で奉仕すべき私たちが、相互に真のかかわりを持った「共同体」になっていなければ、福音宣教するにはふさわしくありません。以上の二つの理由で、私たちの教会は、本質的に「共同体」という性格を抜きにしては成り立ちません。


4.「共同体」が福音化される

 教会の「共同体」について考えるとき、何か組織のようにとらえてしまわないことが肝心です。それは信仰の「共同体」です。信仰に基づき、イエスを中心とした祈り、みことば、さらにパンを分かち合う場なのです。信仰を生きることと、人々とのかかわりを分けることはできないのです。

 信徒の皆さん、今の自分と教会とのつながりを一度反省して下さい。そして、教会が何のためにあるのか、教会の本来の使命と役割を常に勉強して下さい。もし教会を、自分の信仰を守るために何か利用する施設のようにしかとらえていなかったり、務めを果たす場、あるいは典礼に参加するための場ぐらいしか考えていないなら、あなたの信仰は福音化される必要があります。

 生活の中でキリストと共に福音を生き、それを伝える活動の中に教会が、真の教会として存在するのです。そのとき必ず仲間が必要です。イエスは「二人また三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と約束してくださいました。小教区の活動は、教会という制度や組織を維持管理することだけでは足りないのです。

 恵みのしるしである秘跡も典礼も、教会という「共同体」の行為です。また典礼は、福音化されていくための「共同体」の営みでもあります。一人ひとりがお互いに関係なく別個にというのではなく、あくまでも具体的なかかわりの中で生きるのが福音なのです。福音を外に向けて宣べ伝えるために、まず自分たちの教会が、「共同体」として真に福音を生きていなければなりません。


5.信仰生活での「共同体」体験の意味

 私たちが信仰生活や教会活動において「共同体」体験をもっと深める理由は、信仰をおきてや教義を中心としたとらえ方から、生きること、しかも喜びをもって生きることを中心とした信仰のとらえ方に転換したいからです。この信仰の育成には、どうしても「共同体」が必要なのです。

 共同宣教司牧の推進によって、日曜日のミサにかろうじて参加することでしかつながっていないような信者同士が、真の共同体的「分かち合い」と「かかわり」ができるような新しいあり方を、教会の中に作り出すのです。これは、一人ではできません。一部の信徒でもできません。すべての信徒が、自覚して、新しい教会づくりに参加することから始まるのです。なによりも実際に体験を重ねることが大切です。自分に難しいとか、関係が無いとか、忙しいなどの言い訳で逃げないで、おかれた場などにふさわしいかたちで、とにかく参加するという意識を持って下さい。もし、積極的な気持ちになれなくても、何か具体的なかかわりや活動を始めてからでも、その実際の行動をとおして、意識が変えられていくということもあるのです。

共同宣教司牧の推進は、新しい教会のあり方を、議論によってだけではなく、体験的に生み出していくことなのです。


6.「共同体」 は 『人間的・信仰的成長の場 』―分かち合いをとおして―

 「共同体」には、2つの機能があります。一つは『人間的・信仰的成長の場』、もう一つは『社会の福音化の拠点』というものです。

 まず、『人間的・信仰的成長の場』としての「共同体」の機能についてはすでに述べてきましたが、ここでは、「共同体」の「分かち合い」について特に触れておきます。近年教会の中で、すでにその重要性が強調され、実践が深められてきた「分かち合い」による信仰の相互養成は、「共同体」の育成に欠くことのできないものです。

 信仰者の福音化は、知的レベルでの変化にとどまらないで、価値観や物の見方、考え方など生き方のすべてに及ぶ変革です。自分が福音の力によって変えられ続けていることを、本人がまず気付くことが大切です。そして、その変化を恵みの体験として、自分のことばで語るのです。それは、決して自分を自慢したり見せびらかすのではなく、むしろ苦しい体験を乗り越えた後の感謝と喜びの中で、イエスのすばらしさをたたえるのです。そのためキリストは特に聖霊を遣わしてくださいます。人は人間的能力によって語るのではなく、聖霊の力によって語り、聞く人々は聖霊の働きによって聞きます。このように信仰は、分かち合いをとおして育てられるので、ことばで自分の信仰体験を表すことに慣れ親しむ必要があります。
ここで特に集会祭儀にふれておきます。集会祭儀において、ミサの司祭の説教に代わるものとして、信徒が「あかし」を行うとき、このときの分かち合いは、「共同体」体験としては非常に大切ですので、よく準備して取り組んでください。


7.「共同体」は『社会の福音化の拠点』

 1987年の第一回ナイス(全国福音宣教推進会議)で言われたように、これまでの教会の信仰教育には社会とのかかわりの視点が欠け、それが、教会と社会の遊離、信仰と生活の遊離をもたらしていました。この反省に立って、信徒の生涯養成のために、「社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち、社会の良心となり、新しい社会の建設に貢献できる人々」を育てる養成プログラムが多く実施されるようになりました。おかげで、みことばを生活の中で味わい、社会の現実を福音の目で洞察し、判断し、決断し、行動に移る、という新しい教会の動きを、信徒の側から生み出していく土壌が広がっています。

 人々の苦しみ、悩み、祈り、現状をよりよいものにしようとする姿の中に、特に福音が生かされているのです。差別や抑圧に苦しむ人々との具体的な交わりが、キリスト者および教会の成熟をもたらすものであるということが、体験的に知られるようになりました。これこそ、福音の息吹に支えられて「共同体」が、社会に福音宣教する共同体に成長できる道なのです。


8.ブロックとして「共同体」の体験

 「共同体」の体験は、一小教区内にとどまらず、共同宣教司牧ブロックのレベルにおいても、実践することができます。成長する「共同体」と「共同体」の交わりは、自然な流れです。

 京都教区において、共同宣教司牧の必要性や目的がより多くの信徒に理解され、司祭信徒が一丸となって「挑戦する」気運が高まる中、次の段階は、「ブロック」としての動きがより鮮明になることです。ブロック内の各小教区には、それぞれが同じブロックに属する小教区共同体であるという意識が着実に生まれつつあります。そこには、自分たちの小教区という狭い帰属意識から解放されて、相互に交わり協力する仲間であるという「開かれた関係」が芽生えています。この新たな関係が、共同宣教司牧ブロックとしての「一つの動き」として定着することが、これからの共同宣教司牧推進の課題の一つといえます。ここで一番難しいのは、それぞれの小教区共同体が、自立した共同体としての努力を続けながら、一つの「ブロック」として、いかに有機的に活動できるかという点です。


9.マリアのロザリオの祈りとともに

 教皇ヨハネ・パウロ2世は、使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』を発表され(2002年10月16日)ロザリオが、平和と家庭のために、そして、キリストのいのちの秘義を観想するための力強い祈りだと指摘されました。また5つの「光の神秘」を導入し、「ロザリオの年」(10月まで)を宣言されました。
 ロザリオの霊的な旅程で、マリアとともに私たち一人ひとりがキリスト化されて、キリストに従うものとして成長していきます。

 今年「共同体」を体験するよう努力する私たちこそ、「喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣きなさい。互いに思いを一つにして、高ぶらず、身分の低い人々の仲間となる」(ローマ12・15〜16)という兄弟的つながりを、マリアを模範として生きるようにしましょう。お互いが相手を大切にしながら、お互いを生かし合うような接し方をしているかどうか反省しながら、『みながひとつになって』キリストのいのちとぬくもりが多くの人々のこころに広がるような「共同体」をめざして行きましょう。          2003年元旦


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