2004/8 No.321a

2004年 司教書簡
「子供たちに生きた信仰教育を行う
『教会文化』を創造しよう」

2003年ブロック司教訪問を振り返って

2004年6月29日聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日 京都司教 パウロ大塚喜直
       大塚司教の紋章説明 
司教紋章の説明
 



はじめに

 私たちのカトリック信仰を次世代へ伝達するための子供および青少年への信仰教育は非常に大切です。京都教区では昨年二〇〇三年『信仰共同体を体験しよう』という努力目標の具体的な実践として、「子供たちの信仰教育」について考えました。

 ブロック司教訪問では各教会での子どもの信仰教育に関して、その現状を省み、共同宣教司牧ブロックにおいて「共同宣教司牧の観点」から信仰教育の協力のあり方も考えました。司教との懇談会では、小学生の子どもを持つ保護者の悩みや不安、多くの意見や要望などを直接聞き、教会の責任を痛感しました。新たな意識と姿勢でもって、教会共同体が子どもの信仰教育を共同体全体の問題として捉え、問題の解決と教育の充実のために一層の力を注ぐことによって、『共同宣教司牧』の歩みを確かなものとしなければなりません。

 この書簡では、信仰教育委員会の「教会学校部門」が昨年の司教訪問の内容とアンケートを素にまとめてくださったものを引用しています。ここで協力者の方々に感謝を表します。 

 どうか皆さん、この書簡を今後の信仰教育について、各小教区やブロックでみんなが互いに協力し合える接点を見出すための参考にしてください。


1.人生を選び取っていく人間像

 子どもの信仰教育に取り組んでいくとき、そこではカトリックの信仰を子どもたちに、どのような内容で、どのような方法で伝えていくべきかをも検討する必要がありますが、私は何よりも現代に生きる子どもたちに「どんなキリスト者になってほしいのか」というビジョンを持つことが必要だと痛感しています。その中で、「神の前で、自分の人生を選び取っていく自由な人間」というビジョンが不可欠だと思っています。それは、信仰とは人が神からの愛の呼びかけに応えることだからです。信仰教育を宗教的しつけのように捉え、祈りのことばの暗記や態度、ミサに与ること、要理習得や道徳的おきての遵守などを教えていくことにばかり気を配り、それをバロメーターにしていると、最も大切な神とのこころの交わりを体験しない「形式の信仰」を子どもたちに教える危険があります。そこには、人間がもつ真の自由が活かされず、生きる力と励ましの素となる喜びも湧いてきません。

 信仰教育とは、信仰の恵みをうけた一人ひとりが、神からの聖霊の力によって、自分で信仰を選ぶこと、自分の意志で神の前で愛の生き方を選び取る手助けをすることです。信仰教育はある意味で、人間教育です。今の私たちは、氾濫する情報と多様な価値観に囲まれています。何も選ぼうとせず、また何も捨てようとしないならば、決して自由な人間とはなれません。人生は選択の連続です。人が神から受けた愛の招きに対して、おしきせではなく自発的に応えるために、普遍的な価値観を土台にして人生を選び取っていく姿勢こそ、今のこどもたちに必要な生きる力の教育ともなるのです。


2.ブロック訪問での分かち合いから見えてきたこと

 二〇〇三年のブロック司教訪問の分かち合いの内容から見えてきたことを紹介します。まず、「子どもの教会離れ」ということをどのように受け止めているかと聞くと答えは以下のように分類できます。
 ○楽観型…「なぜ教会に行くのか」を子どもに説明できないが、成りゆきにまかせてもよい。
 ○葛藤型…子どもを教会に行かせたいが、色々なうまくいかない事情があり困っている。
 ○責任型…親としての自分の信仰が、子どもの信仰に与える影響の大きさを痛感している。
 ○不安型…ここまでの子どもの信仰教育はうまくいったが、これからのことを心配している。
 ○回心型…「教会離れ」を教会として真剣に受けとめ、共同体として取り組まなければならない。

 ここでまず大人自身の中で、「自分の信仰を守ること」と「教会に通うこと」の関係が曖昧になっている点に気づきます。その中で「子どもに信仰を伝える」ことが困難な状況から葛藤や責任を感じている若い保護者がいることがわかります。その複雑な思いは、次の意見に表れています。
 ○疎外型…子どもをつれて教会に行ったとき、教会共同体が一緒に受け入れてくれるかが親の心配である。
 ○不安型…子どもは教会に行っているが、共同体のなかでどのように扱われるのか気がかりである。
 ○不満型…子ども、とくに中学生の信仰教育が教会でなされていないので、「教会離れ」を止められない。
 ○回心型…まず大人が、もっと、キリストのことばに沿うような信仰生活を送らなければならない。

 そして実際の親たちの信仰教育に対する反省は、以下のようなタイプがありました。
 ○責任型…まず親として、自分の「子どもの信仰」を支える責任を感じているが、教会の助けを必要としている。
 ○反省型…親である自分自身に信仰が身についていなかったので、「信仰のよろこび」を伝えられなかった。
 ○葛藤型…家族間で、同じ信仰を分かち合うことがむつかしい環境にあっても、子どもに信仰を伝えたい。
 ○楽観型…子どもには、自然に神さまに導かれる感性のようなものが宿っているので、心配しない。


3.教会学校の現場の実情

 次に教会学校の現場ではどのような変化が起こっているのか、教会学校リーダーは何を感じ、何を望んで頑張っているのかを紹介しましょう。
 ○環境変化…子どもの絶対数が減少しており、また、子ども自身をとりまく社会状況が急速に変化している。
           対応が遅れているのではないだろうか? 
 ○リーダー事情…保護者リーダーが主流になりつつある。
          孤立化をふせぐために、共同宣教司牧ブロックでの協力体制やリーダー間のつながりが必要である。
           しかし、集中できない環境からの制約が続く。
 ○充実体験…子どもとともにみことばを学ぶことができる。
           子どもの輝きからたくさんの力をもらっていることが充実感の源泉となっている。
 ○研修事情…教会学校の現状は絶えず「行きあたりばったり」におちいる危険にさらされている。
          「リーダー研修会」は自分の信仰を見つめる機会となり、癒され励まされた。
 ○将来への不安と課題…司祭・修道者の減少、保護者の意識の低下、技術の未熟さなど尽きない。

 このような現状で子どもたちにかかわる教師・リーダーや親たちが希望していることは次のことです。
 ○[居場所型]の教会が必要である。同世代の仲間との交わりを通して、信仰に基づく価値観を身につけて欲しい。
 ○[信仰体験型]の教会を大切にしたい。司祭・修道者・信徒との霊的な交わりをとおして、どのように生きるかを見いだして欲しい。
 ○[ミサ参加型]の信徒育成から、ミサを生きる信徒育成へ。「教会に通う」ことと「ミサ」の関係を見直す必要がある。


4.信仰教育の二つの要素…学びと実践

 主キリストから福音を宣教し、かつ洗礼を授ける使命を与えられた教会は、最初の時代から成人ばかりではなく幼児にも洗礼を授けてきました。幼児洗礼でいう「幼児」とは、「まだ分別がつかず、信仰を自分のものとして表明することのできない者」をいいます。子どもが受けた洗礼そのものがキリスト教教育の「基礎」なので、キリスト教教育は次の二つの要素が不可欠です。つまり、子どもの成長段階に応じて、キリストのうちに示された神の計画を徐々に教え、次に、本人自身が教会の信仰を承認できるように導くことです。これが、信仰教育の目標です。子どもに神様のことを教え神の愛を感じ取らせ、彼らが自分でその神の愛に応えることができる力を身に付けさせるのです。これは信仰の原則と呼応します。つまり、人間は神からの呼びかけを知れば知るほど、それに応えて生きる道を歩むことができるという原則です。これを成人信徒の生涯養成にもあてはめると、要するに、「信仰の学び」と「生きた実践」と言えます。人はこの二つの要素を相互循環して進みます。信仰の学びとは、教理の知識の習得を直接意味するのではなく、聖書に親しむ日々の祈りの生活の中で神からの声に耳を傾ける人格的体験を指します。この体験は、おのずと人間からの自由意志による応答を要求し、またそれによって完成されます。聴くだけの人に終わらず、実行する人になるのです。(ヤコブ一・二十三、二・十四)


5.信仰を生きて伝える教会文化の創造

 私たちが今行っている信仰を次世代に伝える大切な使命の再確認は、私たちに「信仰を生きて伝えていく、新しい『教会文化』を創造する」という課題を与えてくれます。子どもの信仰教育、また成人信徒の生涯養成についても根っこは同じで、キリスト者は信仰を伝えるために生きるのではなく、信仰を生き生きと生きること自体が信仰の伝承につながるのです。

 幼児の洗礼式で「主の祈り」の招きに司祭はこう言います。「この子どもは、神の子になりました。やがて堅信を受け、この祭壇で主の晩餐にあずかり、神の民のつどいの中で、神を父と呼ぶ日がきます。きょうは、この子にかわって私たちが、主の教えてくださった主の祈りを唱えましょう」。子どもは、両親・代父母・参加者一同が宣言する教会の信仰の中で洗礼を受けます。子どもは教会の信仰の中で受洗したので、この秘跡の意味が実現されるために、その信仰の中で育てられなければなりません。この信仰とは、生きた共同体の営みそのものです。そこには、司祭や教師や親たちだけが子どもの信仰教育の責任を担うという意味はありません。今私たちが問われているのは、こどもの信仰教育に対する教会の取り組みの意識の低さ、または他人任せの教会の体質です。したがって『共同宣教司牧』の目標である「福音宣教する共同体になる」という歩みがまさに信仰教育の土台と言えます。これからの子どもたちは将来、信仰を聖職者や教師だけに教えてもらったというのではなく、教会の大人全員に育てられたという思い出を持ってほしいのです。親も含めて先輩の信徒が生活の中で行う「信仰の学び」と「生きた実践」を見て育つのです。私たちはこれを日本の教会での「新たな教会文化の創造」と名づけてもよいと思います。


6.すべての子どもは教会共同体の子ども

 自分の家庭にもはや信仰教育を施すべき子どもがいなくても、教会に来る子どもたち全部を自分たちの教会の子どもとして、その親たちと連帯して信仰教育を行う責任を教会全体で再確認した上で、「新たな教会文化を創造する」ために、私は特に異宗婚の家庭と滞日外国人家庭の親と子どもに対して共同体の特別の理解と援助が必要だということを強調したいと思います。

 ブロックでの分かち合いの中で改めて指摘されたのは、日本教会信徒の特有の状況として異宗婚の家庭での信仰生活の問題があります。親のどちらかがカトリックでない場合、ミサに行くことも含めた教会との関係や子どもの洗礼の是非、家庭での信仰教育に関して孤立している信徒が多くの困難を抱えておられます。かれらの困難さを子どもの信仰教育も含めて教会全体で受け止める必要があります。

 また、日本教会は大きなチャレンジとして多国籍の教会共同体を築く努力を続けていますが、滞日外国人信徒の多くはカトリック国からの人が多く、かれらはカトリック国でない日本社会で子どもの信仰教育を自国のようにできない戸惑いと困難を抱えています。さらにその中で、外国人カトリック信徒が非受洗者の日本人と結婚した場合、日本語の問題もあいまって、先に述べた異宗婚の家庭での困難さが加わって一層心細い思いをしておられます。私たちが小教区で、かれらと信徒同士の交流を深めながら、信仰生活の問題を共に分かち合い、共感と理解を深めて具体的な対応をしていかなければならないと思います。

7.『子どもと共に捧げるミサ』の工夫
典礼そのものは、成人にとっても、また子どもにとってはなおさら、教育的効果をもたらすものです。ミサに「子どものミサ」というのはありません。いつも「子どもと共に捧げるミサ」です。ですから子どもが多数のミサ以外の通常の小教区の主日のミサでも、子どもたちがミサの中で自分たちが無視されていると感じることのないように注意しなければなりません。たとえ典礼式文や聖書のメッセージが難解であっても、子どもは典礼の要素、たとえばあいさつ、沈黙、共同の賛美、とくに一緒に歌うなど容易に受け入れます。ミサのある部分で司式者が子どもにやさしく話しかけるとか、子どもが聖歌で楽器を使う、朗読する、奉納をするなど、自分たちも参加しているという意識が持てるようにいろいろと工夫してみてください。そうすれば、子どもは体験的にキリスト教共同体の中で、だれもが果たす役割があることを学ぶでしょう。


8.カトリック信徒であることの喜びと誇り

 日本のようなカトリック信徒が少数派の国で、また信仰そのものが疑われるいわゆる世俗化していく現代社会の中で、子どもが成長してゆくにつれて、自分がキリスト者であることを負担や恥じとしてではなく喜びと誇りとして感じるように導くことが、私たち大人の究極の責任です。キリストの教えは、人に不快な義務や重荷を課すのではありません。まことの「快いくびき」(マタイ十一・三〇)であり、喜ばしいおとずれ「福音」です(マルコ一・十五)。もし、子どもの信仰教育が、特に恐れと抑圧を感じさせるようなものであれば、子どもが反抗期に達したとき、反発を覚えるかもしれません。しかし、もし親たちがキリスト者であることを、自分たちの最大の宝とみなしているということがわかり、そして、親にとって、信仰が喜びと平和の源、ゆるし合い、いたわりの心、親切心、子どもに対する愛情などの源となっているということを、子どもが日々の生活において肌で感じ取ることができるならば、親が自分たちの最高の宝を洗礼とその後の信仰教育によって子どもに早くから与えようとしたことを、感謝をもってうけとることができるでしょう。


9.感謝のことば

 昨年ブロック訪問を行い、実に多くの信徒や修道者の皆さんと司祭が熱心に信仰教育に携わり、忍耐強く教会学校で奉仕してくださっているのを実感しました。子どもを相手にする苦労や失敗での葛藤、教会共同体からの無理解、また一方で子どもの成長や共同体の協力での喜びを味わいながら、愛する教会の子どもたちのために取り組んで頂いている姿に感動しました。あらためて感謝を申し上げます。皆さんの奉仕に応えるためにも、今後も教区として、信仰教育委員会の活動を充実させて現場の皆さんのお役にたてるように努力いたします。

 洗礼を通して子ども心に神の愛の真理が芽生えても、大人の世界はこれに反して動いています。物質的な豊かさのみを求め、愛なしで生きることに麻痺させられている現代社会の中に送りこまれる子どもたちに真の信仰教育を行うことは、教会のためではなく、子どもたち自身のためです。保護者・教師・共同宣教司牧ブロックの共同体と共に知恵と力を結集し協力して、明日の社会を担う子どもたちを真剣に教育していきましょう。


Back to Home