2004/1 No.314

2004年 司教年頭書簡
『 日常からミサを生きる 』
 
京都司教 パウロ大塚喜直
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司教紋章の説明
Living the Mass in Everyday LifeL
 

Kyot.Prot.N.1/2004

2004年 年頭書簡                   

『 日常からミサを生きる 』

 

京都司教 パウロ大塚喜直

 

1.                  「信仰共同体を体験しよう」

新年明けましておめでとうございます。今年も皆さんと共に、京都教区の共同宣教司牧を力強く推進したいと思います。昨年は、福音宣教する仲間である「信仰共同体」について考え、体験する努力をしました。その中で特に「子供の信仰教育」をテーマに、「共同体」として信仰を次世代に伝える使命を再確認しました。この呼びかけに多くの信徒の皆さんが応えて下さっていることを実感しています。今年からまた新たに教区全体で、子供たちへの信仰伝達の具体的な取り組みを始めましょう。

 

2.                  「教会にいのちを与える聖体」

昨年、教皇ヨハネ・パウロ2世は教皇在位25年を迎えられ、ペトロの後継者としての使命にいのちを掛けて歩んでおられます。教皇様は、回勅『教会にいのちを与える聖体』を発布し(2003年4月17日)、教会を生かし育む聖体(エウカリスチア)の神秘と尊さについてのメッセージを下さいました。聖体にまつわる自らの信仰生活と信仰体験も分かち合いながら、第三千年紀の福音宣教に「漕ぎ出す」キリスト者が聖体の神秘をたえず新たに味わい、この神秘への驚きを深めて、ミサの意味にふさわしく与り、またミサを大切に生きるように呼びかけておられます。

21世紀の新しい教会の姿を模索する中、共同宣教司牧を推進して「福音宣教する共同体」に成長するためには長い道のりが必要ですが、ミサこそキリストを囲む、生きた共同体を育てる最高の場です。ミサこそ教会と私たちの信仰生活の命であり、ミサが現実的に教会共同体を生かす活力源となっていなければなりません。もし、自分のミサの与り方や各小教区での具体的なミサの祝い方に問題があって、その結果個人も共同体もミサから日々の生活の力を汲み取ることができずにいたり、霊的飢えを満たしてくれる場をミサ以外のところに求める必要があったりするならば、ミサや典礼についての考えや関わりについて真摯に反省する必要があります。今年京都教区は、『日常からミサを生きる』というテーマで、私たちが行う小教区の主日のミサが、真実「信仰共同体の体験」となるよう努力したいと思います。

 

3.                  『日常からミサを生きる』

キリストは、『日常』という現実に生きる私たちに2つのことを求めておられます。それは、「私に従いなさい」(マルコ8.34)と「私はあなたたちを遣わす」(ヨハネ20.21)ということです。ミサは、キリストの死と復活の秘跡的再現であると同時に、キリストと出会う場であり、そしてキリストの救いの業を把握可能な形となって世界へ伝達する根源の場なのです。ミサの中で記念されるキリストの徹底的な愛と奉献の生き方は、弟子である私たちの模範です。私たちはミサで「みことば」を通して、まず一人ひとりがキリストに従うように招かれます。そして、聖体によってキリストに結ばれた私たちは信仰共同体として、社会を神の心に適ったものにするためにキリストによって励まされて、再び『日常』に向けて派遣されます。

キリストは「助け主」「慰め主」である聖霊を送り、私たちの『日常』の中で働いておられます。こうして三位の神は、どのような時代や場所に生きる人々にも、すべての被造物に対する救済意思を示しておられます。従って私たちの『日常』も神との出会い場であると言えます。『日常からミサを生きる』とは、ミサによってキリストの生き方を学び、霊の導きに従ってそれを『日常』生活において生きることです。洗礼によって、また特に堅信によって、救いの源である父なる神にキリストの協力者として召された私たちは、ミサの霊的賜物から力を汲み、キリストと共に『日常』に遣わされます。だからこそ、ミサが私たちの生活に繋がったものとなるために、キリストの心をもって真剣にミサに与るようにしなければなりません。

 

4.                  イエスの最後の晩餐に由来する救いの確信としてのミサ

 神は旧約の民に「奴隷状態」からの「解放のしるし」として安息日を定められました。しかしイエスの時代、神の「解放のしるし」であった安息日に対して、ユダヤ教社会の指導者たちは安息日を守る人々だけが神の救いに与ると規定された社会を構成し、安息日を守りたくとも守れない貧しい人々や病人たち、そして罪人と定められた人々や異邦人たちは神の救いと社会の枠組みから除外されていました。イエスは神の国の福音の宣教活動を通して、そのような宗教的・社会的に除外されていた人々と寝食を共にして、神がどのようなかたであるかを人々に身を持って示されました。そして、そのような御自身の生き方の意味と目的を、ご受難と十字架上での死の前に、最後の晩餐において、より一層深く示されました。イエスは、食卓で弟子たちにパンを裂いて渡され、ぶどう酒を分け与えて、それらを神と人々に対する徹底的な愛と奉献のしるしとなるご自分の「御体と御血」となさいました。弟子たちは神に対するイエスのゆるぎない救いへの確信を受け継ぎ、イエスなき後、最後の晩餐を継承する「感謝の祭儀」を「主の日」毎に行うことによって、全ての人々が神によって救われるという教会の確信をより一層深め、かつ更新し、キリストによる救いの賜物によって常に新たにされました。

 

5.                  教会の歩みとしてのミサ

このようにキリストが制定され、教会が世の終わりまで行うミサは、その受難と復活によって罪と悪から勝ち取られた「最高の自由のしるし」です。ところが私たちはこのミサを、義務とか儀式という理解で束縛してはいないでしょうか。それどころかミサに慣れ、ミサをおろそかにしてしまい、ひいては信仰そのものがどこか生活でのアクセサリー的存在になっていないでしょうか。私たちがこのような状態から脱皮するために、個々人の信仰生活の反省とは別に、2000年にわたる教会とミサの歴史を知ることも大きな助けになります。

初代教会において自らの共同体の運命を左右する程に大切にされた主の食卓の記念であるミサは、キリスト教が国家(ローマ帝国)の宗教となっていくに従って、ミサについての理解や捧げ方が大きく変わっていきました。迫害時代から一転して全てキリスト者になるという時代になると、洗礼や堅信や結婚などの秘跡は教会の秘跡であると同時に社会制度に組み込まれた「しるし」となりました。また大規模な教会が多く建設され、また聖堂内に数多くの祭壇が設置されると、共同体としてミサを行うという側面は薄れ、個人の意向を行うミサが増えました。またせっかくの聖体に対する礼拝は、生活の視座から離れた個人の信心的側面が強く打ち出されるようになりました。このような現象は、ミサの本質は変わってはいないにせよ、イエスが命じた最後の晩餐を共同体として継承するという信仰表現から徐々にはずれた状態になっていくことを意味していました。そしてこのような状態の中で一部の兄弟たちがカトリック教会を離れ、別のグループを作ったことは歴史の事実として包み隠さず認識する必要があると思います。また近代以降、世界は新たな局面を迎え、神が全ての根本原理であった時代から人間の理性によって全てを判断する時代になってきました。人間は自律した理性によって世界内の全ての事象を把握出来ると考え、神はもはや「宗教という分野」の中だけで存在するという考え方が一般的になってきました。

 

6.                   挑戦としての宣教的生活を支えるミサ

私たち現代人の生活は、合理主義と個人主義の狭間にあって、再びどこか旧約の民の奴隷状態に似てきたのではないでしょうか。神をないがしろにするこの世的な諸事の虜になり、人間性を失っていく毎日。そして私たち現代のキリスト者は、経済的に豊かな生活を手に入れた後でか、またはその上にか、あるいは何かの困難な時だけに、「神の力」とか「恵み」を願う信仰に傾いていないでしょうか。本当の意味で主日のミサに参加するならば、おのずと自らの『日常』での生き方が問われてきます。それは、私たちは自分のためにミサに行くのか、あるいはキリストの望む社会の実現を願ってミサに参加するのかという、ミサの目的意識をも問い直すことに繋がります。もし、ミサによって私たちの生活が変わっていないとすれば、私たちの側にも問題があります。ミサはごく一般的な義務でも、儀式でも、単に友人に会いに行く場でもありません。ミサに与るとき、「今日をどう生きるか」、「今週をどう生きるか」が問われるのです。

今のカトリック教会の私たちが、自分の信仰生活から力が汲み取れないのは、そして、そのような信者の集まる共同体が生き生きとした形で若い世代の人々に訴える力を持っていないのは、どこかで信仰を割り切った形で捉え、生活と区別しているからではないでしょうか。しかし、生活に追われる現代人に人生で神の愛こそ命の支えであり、『日常』を生きる勇気と力を得る光であると証しする使命を与えられているのは私たちキリスト者です。もちろんその私たちも生活に追われる現代人です。ですから、私たちの宣教的生活には、当然大きな勇気と犠牲が伴います。

神の子・救い主イエスのいけにえの記念であるミサは、何よりもまず私たちが神の望みに完全に応えていない罪人であるとの自覚を教えてくれます。キリストのあがないを必要とする罪人であるという自覚なしに、神ご自身と、また神を信じる兄弟姉妹としてお互いに出会うことはできません。ミサの神秘に入るために、まず自己中心的な信仰観から解放されていなければなりません。

 

7.                  『日常』に受肉していく信仰を育てるミサ

従って私たちがキリストの救いの活動に参加することは、まずミサに参加することです。ミサにイエスの宣教活動と十字架の犠牲を今の時代に再現する意味があるのは、ただ一人ひとりの回心をめざしているからだけではありません。イエスが犠牲となられたのは、人間社会を根本から新しいものにし、すべての人があらゆる面で神の心にかなった価値観に基づいて生活できるようにするためです。私たちキリスト者は『日常』の中で、このための霊的成長を遂げていきます。こうしてミサは『日常』に受肉します。それは信徒が、「すべての仕事、祈り、使徒的努力、結婚および家庭生活、日々の労苦、心身の休養を、霊において行い、なお生活のわずらわしさを忍耐強く耐え忍ぶならば、これらすべては、イエス・キリストを通して神に喜ばれる霊的供え物となり、聖体祭儀において、主のからだの奉献とともに、父に敬虔に捧げられる」(「教会憲章」34)からなのです。

ミサによってキリスト者の『日常』は、信仰と生活を統合する場となります。さらにミサはキリスト者に、この世に対決させる力を与えます。ミサで祝う「神の愛」を最優先する価値観には、非福音的な社会構造と文化を変える力があります。ミサには私たち自身と私たちの社会を変える大きな原動力が宿されています。だからミサは、福音宣教の原動力なのです。

 

8.                  福音宣教への「根本決断」を更新するミサ

しかし、ミサが真のその力を発揮するためには、まず私たち自身の「社会的回心」が必要です。この回心のプロセスの始まりは、自分の生活の中にも教会共同体の中にも存在する、非福音的な社会構造から来る圧迫と不正に気付くことです。そして同時に自分も共同体も、この社会の構造悪に対して無力であることを認め、受け入れることです。こうして自分が社会構造の被害者であると自覚しながら、同時に、その構造自体は自分の利己主義や教会共同体の無秩序な愛着の結果でもあるという加害者的側面にも目覚めるのです。そうすれば私たちはミサの中で、非福音的な人間社会にチャレンジするイエスにいっそうはっきりと出会うことができます。

キリストの根本決断は、例外なくすべての人の生活から、あらゆる不自由と圧迫と差別を取り除くことでした。キリスト者はこのキリストの根本決断を自分の根本決断として選んでいます。ミサの聖書朗読において、この主のみことばを今日の自分の生き方と社会生活にぶつけて聞き、生きた神の声、神の望みを聴きとることができたなら、ミサはキリストの戦いにあずかる決意を新たにする場となります。すなわち福音宣教をしようとする私たちの根本決断を、ミサを通して常に更新するのです。したがって、『日常からミサを生きる』という目標を目指すことは、人間の尊さを踏みにじられるところでは必ず立ち向かって戦っていくという、一人ひとりの根本決断が生活全体にどのくらい染み透っているかにかかっているのです。

 

9.                  社会に奉仕する教会になるためのミサ

『日常からミサを生きる』ということは、「最も小さな者」との連帯をめざして質素な生き方を具体的に選ぶことです。質素な生き方は、分かち合いの生き方です。苦しんでいる人、抑圧されている人々との連帯をめざすものです。これはキリストの心であり、ミサそのものといえます。

キリストは今日も、ミサの中で、すべての人々、殊に世界中で苦しんでいる人々を、ご自分の神秘体として御父に捧げて、私たちに分かち合って下さるのです。私たちが21世紀のミサで、社会の構造悪からの解放の叫びと、社会の分裂のいやしをますます強く打ち出していくことによって、教会はいっそう社会に奉仕するものになっていくことができます。ミサそのものが、福音宣教と正義の促進の場となり、信徒が聖体に養われて生きた「秘跡」となればなるほど、教会は世界に奉仕する姿へとますます変えられていきます。

 

10.             深い交わりを体現するミサ

 ミサに初めて参加した人は、今の私たちのミサをどう思うでしょうか。ミサを一定の規律に従う「型にはまった」儀式という印象を受けるか、それとも、朗読の仕方、共同祈願、平和のあいさつの仕方、ミサ前後の関わり方などから、お互いを大切にした生き生きとした交わりの場だという印象を受けるでしょうか。もし、私たちのミサの中にふつう見られない人間同士の深い心の交わりを見て感嘆するなら、ミサは、私たちが解放され、救われ、その命と喜びを分かち合う場であることを信じてくれるでしょう。ミサは本来、深い心の交わりを起こすことのできる場なのです。

それでは、小教区のミサに参加する人々の層は、例外なくすべての人を包含しているでしょうか。貧しい人、障害者、滞日外国人、子供、青年、病人、高齢者、さまざまな事情でミサにあまり来られない人、はじめて教会に来る人などが抵抗なく参加できるように配慮がなされているでしょうか。

さらに、私たちが幸いにも主日のミサに参加して、心の飢えと貧しさを満たす霊的な食物である聖体を頂くことができたならば、それは必ずその聖体からの力によって、飢えと貧しさに苦しんでいる兄弟姉妹のもとに新たに遣わされているのです。こうして私たちがミサで体現される深い交わりの輪を、『日常』に生きる貧しい人、差別されている人、病人、価値観の異なる人々の間に広げてこそ、キリスト御自身をすべての人々の間で迎え入れる喜びを共に生きることができるのです。

 

11.             マリアと共にミサの恵みを祈り求める

マリアはその全生涯を通じて「聖体に生かされた女性」でした。マリアはイエスに「よって」、イエスの「うちに」、イエスと「ともに」神を讃えています。だから教会はこのマリアを模範とします。教会は、聖体において完全な仕方でキリストとそのいけにえに結びつけられ、またマリアの心を自分の心とします。今年『日常からミサを生きる』ことを決意する私たちは、まずはマリアと共に、自分の生活を見直し、ミサと生活を統合したいという望みと恵みを真剣に祈り求めましょう。

それぞれの小教区での日曜日のミサは、何よりもその信仰共同体の一致のための場であり、また小教区という信仰共同体は、この「一致の秘跡」を祝うために設けられています(使徒的書簡『主の日−日曜日の重要性』N.36)。教会が感謝の祭儀を行うとき、いつもマリアはそこにいてくださいます。マリアとともに捧げるミサで、私たちのうちに一致の恵みを祈りましょう。

最後に、今年もミサの中で「世界の平和」のための祈りを続けましょう。中東和平やイラクの復興が進み、世界のあらゆる紛争が解決に向けて動きだすことができますように。世界中の人びとが、「平和の君」であるキリストに結ばれ、『みながひとつになって』、例外なくすべての人と連帯して生きることができるように。神が私たちの『日常』において、「すべてにおいてすべてとなる」まで。

 

2004年1月1日 神の母聖マリアの祝日

 

 

参考文献:教皇ヨハネ・パウロ2世 回勅『教会にいのちを与える聖体』、中央協議会、2003年

使徒的書簡『主の日−日曜日の重要性』、同上、1999年




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