1997/11 No.240
1月16日から23日までは聖書週間です。普段聖書に親しむことはもちろんですが、特にこの機会に聖書と親しむことが勧められます。
『公会議は、すべてのキリスト信者にしばしば聖書をひもといて、「イエス・キリストの崇高なる知識」を学ぶよう、特別にまた強く勧める。「実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」。それで、喜んで聖書に親しまなければならない。それは、神のことばに満ちた典礼により、あるいは、信心をもって朗読することにより、あるいは、そのためにふさわしい講座、その他教会の司牧者の承認と指導の下に今日いたるところで行なわれて好評を受けているいろいろの方法によることができる。しかし、聖書を読むにあたっては、神と人間との会話ができるよう、それに祈りを加えることを忘れてはならない。実際、「われわれは祈る場合は、神に話しかけ、神のことばを読む場合は、神の話を聞く」のである。』(啓示憲章25)
今年も、聖書週間行事としての「みことばをかこう書道・絵画展」が、11月14日〜25日まで、西院カトリック会館ホールで開催されます。又、昨年同様三重県カトリック研宗館でも開催予定しています。
昨年は、今までと異なり出品料なしで募集しましたところ、様々な学校からの児童(高校生を含む)の作品が寄せられ、よい傾向と喜びました。
例えば、賢明女子高校、百合学院高校、小林聖心女子高校などが、毎年の出品校(聖家族女子高校、ノートルダム学院小学校)に加わりました。沖縄の海星小学校の力作が、沖縄祭のために出品されず残念でした。
出品数は、絵画が25点、書道は成人が107点、児童が227点でした。カテキスタの上本白水先生の特別出品も会場を豊かにして下さいました。ドミニコ幼稚園児の絵画の合作数点も心に残りました。
児童の作品は年々上達し、入選作品が83点にのぼりました。「入選」が一生懸命、みことばをかいた児童生徒の励みになればと願っています。
Sr.石崎の講演
聖書講座シリーズ「イエスとは誰?」の講演要旨です。
マリアとイエスとヨゼフという三人の生活は、一言で言えば「しがない暮らしの家族」だったと言えると思うのです。明日の生活に困るとかではないが、いわゆるつつましい生活を送る「庶民」だったのです。現在、私たちの身分とか地位は職業であらわされることが多いのですが、当時のイスラエルでは職業を持っているということは、お金持ちでも身分が高いことでもないという証拠だった。だから、私たちが地位とか職業で判断するなら、三人は軽く見られやすい仕事をしていたそういう家族だったと言えると思います。それは、ごく平凡な私たちの日常性とかわらない生活を送る家族が「カリラヤのナザレ」にいたということです。
●マリアとヨゼフ
私はこの二人は過去のある男、過去のある女と思うんです。つまりなにかというと、結婚するまでに、聖書をみていても分かるように二人には歴史がある。過去があるということはすでに生きた時間があり、空間があるということで、それは重要な意味をもって結婚生活に入り込んでくるという意味です。
一つは、マリアがお告げをうけるところから始まります。それは、マリアが身ごもったことが分かった時にヨゼフも悩まなければならなかったこと。この出来事は、ヨゼフにとって単なる大きな事件ではなく、神との関わりの中で起こっただけに確信がなくとも信じるしかなかった。そのくらい神との関わりの中での出来事は最後は信頼しかないということではないでしょうか。それは、私たちもふりかかる出来事に信頼を賭けるか、賭けないか問われてくることだと思います。
マリアもそうです。ガブリエルのお告げを受けるところをみてください。彼女は、話を聞きとまどい、思いめぐらし、深め、受け入れます。このように、二人は結婚前に多きな課題を半分信頼によって解決し、残りの半分はこれからの課題として背負っていくことになるのです。
さらに、二人には赤ちゃんが生まれる。命が与えられる。しかもそれが神の命だとしたら二人には大変大きな体験だったと思います。
●夫婦の共通体験 ルカ2・1〜
まず、出産の出来事、この話は夫婦の共通体験の話です。それからその後の羊飼いと天使の話はちょっと違います。何が違うかと言いますと、この話は体験ではなく、体験を分かち合って聞いた話なのです。このように夫婦の共通体験には実際に二人が体験した話と、他の人が体験したことを分かち合い、他の人を巻き込んで二人が聞き、さらに思いめぐらすことによって深められた話と二種類あります。だから、イエスにまつわる話は人々が関わってきている話と純粋に夫婦が関わった話があることになると思います。
●夫婦の生活
これは私の想像ですが、神様が二人の上に働いていることは周知のことですが、二人が神の摂理を委託されていることと同時に、神に向かって働きかけるという二つのことをマリアとヨゼフは二人の共通の価値観として大事に持っていたのではないかと思います。それから、二人はお互いの違い、男女の違いとか、そういう違いをそれぞれから学んでいたのではないかと思います。だからこそ、二人は協力しなければならないし、共に歩むという姿勢をとることになるのではないでしょうか。そこには、信頼があり、愛情があり、さらには、神に結ばれた人たちなのです。この絆を二人は強く持っていたと思います。
それから、いたわりや、コミュニケーションということも大切にされていたのではないでしょうか。特にマリアは家族に対して、心を配っていたと思います。私たちもマリアのようにきめの細かい配慮を心がけたほうがいいと思います。
●親子関係
ルカ2・39〜をみてください。ここの箇所から分かることは、二人が子離れしなければならない時が来たということです。また、マリアの役目として見守るということと、子どもの個性を見抜いて育てていたのではないでしょうか。
このような、マリアとヨゼフの生活を学びたいなら、まず、親しくなり、甘えるような気持ちで祈ればどうでしょう。私は想像します。イエスは二人の子どもで良かったと思われているのではないでしょうか。
●アジア体験学習とは?
1981年から毎年8月に、フィリピンのインファンタという小さな町の教会で宿泊し、その間約五日間の村でのホームステイをしてきました。現地ではインファンタ教区のフランシス・ルカス神父様と教会のスタッフの人たちが迎えてくれます。この体験学習は、観光旅行でも援助活動でもありません。
目的は、一言では言えませんが、とりあえず、いってみて、現地の人々と生活を共にして、人とのふれあいを通して、視野を広げる場所であったり、自分のもっている価値観を見直すための場所であったりします。結果として、メンバーそれぞれがいろいろな感じ方をして、その体験を生かし、アジアのなかの日本人となっていきます。
●ICDAIについて
アジア体験学習と切り離すことができないものが、このICDAI(インファンタ共同体開発運営団体)です。一九六七年、インファンタ教区のラバイエン司教の協力の下、イエズス会のエルキスト・モンドネド神父によって始められました。現在はフランシス・ルカス神父とブラザー、現地の人々によって運営されています。
その目的はインファンタ教区を中心とした地域の自立です。キリスト教精神を基礎に、農民の組織づくり、共同組合づくり、栄養改善と保険計画など具体的な活動が行われています。
わたしたちは、実際にICDAI実験農場で農作業を体験したり、農業技術開発のための取り組みを見学したりしました。
●体験を通して
さまざな体験をしてきました。その中には、日本人にとってきついことであったり、違和感を感じることもありました。しかし、そのことを通して、私たちはフィリピンをより一層、理解を深めることができました。
例えば、
・ホームステイ
僕たちのホームステイでは、待遇が特別というわけではありませんでした。こちらから話しかけない限り、独りぼっちでした。しかし、ホストファミリーの行動や待遇は家族の一員として、自然に接してくれて、僕たちも真のホームステイができた所から、フィリピン人の視線に近づくことができました。
・時間にルーズ
フィリピンは時間にルーズでした。空港の時計でさえも、場所によって10分ほど異なっており、日本人の私たちは、かなり不快でした。また、朝食の時など、前日に6時30分にレストランに行って食事をするように聞いていたのに、実際朝になってみるとその時間には、まだ、そこが開いてなかったことなどはよくありました。しかし、フィリピンでは、日本ほど時間に追われず、時がゆっくり流れています。交通渋滞や情報通信の整備が遅れていることなどの原因があることにきづいたとき、その社会や文化を表面で判断することは理解につながらないことを学びました。
ホームステイそれ以外でもとても楽しい時間を過した。いろいろなことをメンバーそれぞれが、真剣に考える機会もたくさんありました。そういったことを通して、メンバーも人と人とのふれあいの大切さを学びました。
みなさんへ
◎人とのコミュニケーションとは何か?
◎楽しい時間を過すのにお金は必要なんだろうか?
考えてみて下さい。
●アジア意識
しかし、この体験で痛感したことは、日本人のアジア意識というものでした。日本人の意識の中には、どちらかと言えば、アジアだけどアジアではないという曖昧な意識があります。
例えば、日本人とフィリピン人との間の認識の違いを上げるならば、
・日本人 フィリピンと聞けば、買春と思いがちで、また、日本がフィリピンを占領していたことを知らない人もいます。ましてや、当時、現地の人々に対して残虐な行為をしていたことは知っている人はほとんどいません。
・フィリピン人
戦争中、日本人はフィリピン人を百十万人殺害しました。歴史の教科書を通して日本との関係を学んでいます。また、近年では、日本の森林伐採によって洪水が起こり、たくさんの人々が命をおとしました。フィリピン人にとって日本という国は、過去、現在、未来において特別なアジア人と思っています。
9月25日に新司祭評議会が招集されました。司祭評議会の司教を助ける諮問機関としての役割は、予定されている教区カトリック協議会設立後も変わりありません。
尚、議長及び常任委員の選出は、評議員の三分の二以上の出席がないためできませんでした。大塚司教より、仮議長として村上(真)師が任命されました。
◆評議員の紹介
・司教総代理 村上(真)師
・京都南部地区東ブロック代表 ボアベール師
・京都南部地区北ブロック代表 浅田師
・京都南部地区西ブロック代表 マルコ師
・京都南部地区南ブロック代表 東門師
・京都北部地区代表 谷口師、大松師
・滋賀地区代表 ジャクソン師、滝野師
・奈良地区代表 松本師、オヘール師
・三重地区代表 イラオラ師、ネリグ師
・福音センター代表 柳本師
西経一神父の講演
聖書委員会主催で9月7日に行われた聖書講演会の要旨です。
ルカ4章にしたがって、福音を説くイエスについて述べてみたい。
●4章の構造
荒れ野の試み(1〜13)
ガリラヤでの宣教活動(14〜15)
ナザレの説教(16〜30)
二つの奇跡(31〜41)
宣教開始(42〜44)
●救いの歴史のパターン
荒れ野の試みについては省略し、ナザレの説教を見てみよう。
16節〜18節にイザヤ61・1の引用がある。これはバビロンの補囚にあるイスラエルに向けて書かれた慰めと励ましを述べる箇所である。
それは強いバビロンの捕囚から解放されエルサレム帰還の希望をうながすものである。
ここに一つのイスラエルの救いの歴史を流れる基本的なパターンがある。(苦難ー解放ー約束の実現)
イスラエルの民の基本的な体験はエジプトの奴隷状態ー解放(出エジプト)ー約束の地への過越にある。
この体験はくり返され、バビロン補囚ー解放ーエルサレム帰還となって現われる。
これは創造物語の中にある「暗闇ー光あれ(との言葉)ー光」、そして、人間の創造における「泥(アダマ)ー息(ルアー)ー人(アダム)」の中にも現われ、そこには共通して中心的な働きをするものとして、神の言葉、力、愛がある。
闇から光へ、泥から命へ、苦難から解放へ、死から命へと導かれるのは神である。
この基本的なパターンは歴史を通じてくり返されていく。
●死から命への過越
さて、イエスはこの「死、泥、暗闇」に御自分の十字架を重ねられた。主の十字架と復活は、死から命への過越であり、新しい創造であり、これこそ私達人間の「生きる」こと(「生かされること」)の根源にあるものなのです。これを知ることは、大きな慰めと解放の出発点となる。この神とイエスとの関わりに、自分を自分の心のどこかにどんと置けばよい。そこに心の慰めが得られ、そこに謙虚な才能が生れ、そこに奉仕が生れる。
●自己を破る
私達が神への信仰により、死から命へ、復活へと変えられるのだという信仰を持って、私達は旅をしている。今の自分から、自分を「破って」出て行く。そして、この集団が旅する教会でもある。
ここで「破る」というテーマが出て来る。「破る」、「自分を破る」という事は「血が出る」。この事は古い人を脱ぎすて新しい人となることでもある。
血を流さなければ愛は生れない。愛とは出会う人のため、身を引き裂き、時を裂き、心を裂くこと。
これは私達の神である主の愛の表わし方であり、私達はその同じ運命をになうものとして、それを引き受けなければならない。
その様な愛にとらわれている時、神の愛にとらわれ、一切の解放を得ている。この様な愛に一致させるなら、まるごと神のものとなるだろう。ちなみに、聖体のパンは、この引き裂かれた愛のしるし、ぶどう酒もつぶされ、閉められ、くさらされるのも、その愛のしるしなのです。
●イエスの言葉と行い
身内に受け入れられるのはなかなかむずかしい。ところで、読まれたのはイザヤの書。それに続く二つの説教がある。二つとも奇跡物語の典型的な形が見られるが、その中で中心になるのは、「イエスの言葉と行い」である。
そこに、いやしと解放と救いがある。
自分にとって何が目的か、自分で力んで求めすぎると無意味になる。無意味と思う所に命を捧げると、そこに愛がある。
御父はお返しを待たずに御子を世に投げ込まれた。そこに愛がある。
私達はイエスの言葉と行いにより変えられる。そして、自分をどう思っているかによっても変わってくる。
●宣教
イエスの言行により私が生かされた。そのあとに出て来るものがある。それが宣教。4章は宣教でしめくくられる。
預言、イエスの言葉、イエスの行いにより変容され、生かされた私が宣教に遣わされていく。