1996/3 No.220

京都教区時報3月号

・保護者たちの熱意に支えられて

・ネパールミッション

・日本二十六聖人殉教四百年祭in京都』開催趣意書

・子どもたちに平和な未来を

・京都キリシタン遺跡めぐり

・京都キリシタン史ゆかりの地

・あんてな



保護者たちの熱意に支えられて

 マリスト国際学校(神戸市須磨区)

 ほぼ垂直で危険だった擁壁は撤去され、あとは緑化植生マットで仕上げられました。(写真は今年一月六日撮影されたもので、大阪教区より提供)




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ネパールミッション

  ノートルダム教育修道女会
シスター・イヴァンジェラ

 1983年、ノートルダム教育修道女会の四人のシスター達がネパールに派遣されました。ヒンズー教が国教であり、ヒンズー教から他宗教へ改宗することが許されていない所へ、その存在を通して神の愛を人々に伝えたいという希望をもって、シスター達は出発しました。はじめ、首都カトマンズでネパール語を学び、そこのミッションスクールで教えました。


●バンディプール村


  (カトマンズからバスで六時間、さらに徒歩で三時間先。)
 1985年、バンディプール村の人々の要望に応えて、そこで教育活動をすることにしました。バンディプール村は、カトマンズから西へ約140キロメートルのところにありますが、バスで約6時間、バス道から歩いて3時間ぐらいの山の上にあります。およそ200年前、ネパールとインド間の道のの宿場町として栄えましたが、道が商業用道として使われなくなり、更に最近になって、山の下をバスが通るようになって、村は過疎化しました。村人達は、村の過疎を何とかくい止めたい、村の子ども達によい教育を与えたいとの希望から、学校を誘致しようとしたのです。
 私たちが住み始めたころは、空家がたくさんありました。当時、村には電気が無く、水は、遠い所から引いてきた水を、朝夕各30分ぐらい放出し、人々は水がめを持って水道の前に並ぶという状態です。一年前は幼稚園だけで、五十人ぐらいの生徒で始めました。学校用の家が小さいので、家の前の道で入学式をしました。

●子どもたちによい教育を


  (丸一日働いて100円に足りないお金を生活費に。)
 生徒達の中のある子ども達はたいへん貧しいです。特に、夫を亡くした女性や、夫から捨てられた女性に育てられている子ども達の貧しさはひどいものです。村で女性の得られる仕事といえば、他人の畑で働いたり、村のただ一つの産業であるスレート鉱山から掘り出された石を背中にかついで運ぶというものぐらいです。丸一日働いて100円にも足りないお金を生活費にあてるのです。主食としているお米を、家族のため十分に買うこともできません。
 そういう家庭の子どもも、いや貧しいからこそよけい授業に夢をもって、親も子どももよい教育を受けることを望んでいます。その子どもたちによい教育が与えられるのは、世界の皆様、特に日本の皆様の援助によるものと、感謝しています。京都教区からは前に、ウォーカソンで得たお金を寄付して頂きました。おかげさまで私達は、貧しい子ども達のために、授業料、教科書、学用品、制服、くつなど学習に必要なものを支給しています。子どもたちはいろんな形で感謝をあらわします。ある子どもは自分が食べるおやつが無いのに、バナナ五本ぐらいをお礼に持って来ます。学校の庭をきれいにするため、手伝いに来る子もいます。
 本、オモチャ、テレビが無いためか、登校し勉強することが嬉しく、勉強に熱を入れる子どもが多いです。絵本を紙芝居のように使って話しをすると、目をミラキラさせて集中している子どもたちを見ると、話しをするのが楽しくなります。

●ネパールの「ゆっくり」精神


 開校後、10年経ち、村は変わりました。空家がなくなりました。電気がきました。村に電話が一本つき、必要な時には、丘の上の電話小屋に走って行きます。
 学校では新しい校舎が建ち、生徒数も430人になりました。11月24日、始めての卒業式を迎えました。卒業した子ども達が産業の無いネパールでどのように生きていくのかということが今後の問題です。
 ネパールの国も前と変わりました。宗教に対する法律は前と変わりませんが、人々は宗教に対して自由な気持ちをもっています。改宗したからといって捕らえられることは、もうありません。
 私達は、ネパールの人から「ゆっくり」の精神を教えてもらいました。これからも神様に信頼しつつ、ゆったりした心で、村の人々の必要を探り、努力していきたいと思います。続けてのお祈り、援助をよろしくお願いします。

郵便振替口座番号 01030の3の59123
加入者名 ノートルダム教育修道女会ネパールサポート事務局
電話 075(701)8343


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日本二十六聖人殉教四百年祭in京都』開催趣意書

京都教区司教 ライムンド田中健一

 ヨハネ・バウロ二世教皇様は一昨年、使徒的書簡『紀元二千年の到来』を発表され、全人類が救い主キリストと出会って二千年目の節目を「大安息年」として盛大に祝うようにと全世界の教会に呼びかけられました。日本の教会においてはその前年1999年に、聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本人がキリストの教えと出会って四百五十年目を迎えます.また、来年1997年には日本の教会の初穂となった日本二十六聖人の殉教四百年を迎えます.

 ご承知のようにこの二十六聖人は、殉教の前年(1596年12月の暮れ)に京都で捕らえられ、長埼への千キロメートルの死の巡礼を強いられ、西坂の丘で処刑されました。この長椅への巡礼は、あたかもゲッセマニの園で捕らえられ、カイフアの館、ヴィアドロロザ(十字架の道行き)を経てカルワリオの丘で釘つけられた主イエス・キリストの御受難の道のようです。

 日本二十六聖人殉教が、京都から始まって長崎に至る切ることの出来ない一連のものであり、また日本キリシタンの信仰の初穂として光栄を受けた彼らの中に、近畿地方の出身者が数多くおられることに私たち京都教区民は誇りを持ちつつ、殉教者の信仰を思いその取次ぎを祈り求めて、現代私たちの福音宜教の熱意をかり立てなければなりません。

 すでに長崎大司教区では来年1997年の日本二十六聖人殉教四百年の記念日に向けて種々の準備が始められていますが、京都教区では殉教者巡礼の出発点として、『日本二十六聖人殉教四百年祭in京都』と称する祭典を今年11月23日(土)に、京都ノートルダム女子大学「ユニソン会館」において開催することに致しました。

 私はこの行事を、二十一世紀の京都教区の宜教を見据えた大安息年までの今後五年の準備期間を踏み出す大切な第一歩とし、私たちの信仰の高揚と精神の刷新、引いては教区全体の活性化に資したいと思います。京都教区民全員がこれについて関心をお持ち頂き、協力して下さることを切望いたします。

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子どもたちに平和な未来を

 1月20日の京都教区平和への歩み実行委員会において、今年の平和への歩みの教区テーマが決定しました。表題にもありますように「子どもたちに平和な未来を」です。
 教区全体の行事としては、8月11日に教区一斉平和祈願ミサを各小教区で行います。他に、各地区での取り組みがあります。

 平和への歩みの教区テーマは1月1日に出される教皇のメッセージからとられます。今年のテーマは「子どもたちに平和な未来を贈りましょう」です。紙面の都合から、一部のみ紹介します。

 小さな子どもたちは、すぐに生活することを学びます。彼らは大人の行動を観察し、真似します。子どもたちは他者を愛し尊敬することを素早く学びますが、暴力と憎しみの毒にもすぐに染まります。家庭での体験は、子どもたちが大人として身につけるべき態度に強く影響します。子どもたちが最初に出会う世界が家庭であるならば、家庭は子どもたちにとって最初に平和を学習する場であるはずです。

 両親は、自分の息子や娘たちが、相互の愛をあかしするという偉大な宝に気づくのを助ける特別な機会を持っています。子どもを授かった最初の瞬間から、両親が、家族の真の遺産を形づくる積極的な価値が浸透した平和な雰囲気のうちに子どもを育てることができるのは、互いに愛し合うことによってです。家族の真の遺産とは、互いに尊敬し合うこと、受け入れ合うこと、耳を傾けること、分かち合うこと、寛大であること、ゆるすことです。一緒に働く感性によって育てられるこれらの価値のおかげで、両親は、平和のための真の教育を行い、子どもを幼少の時から積極的に平和を築く者とすることができるのです。

 子どもたちは、生活や希望の体験を両親や兄弟姉妹と分かち合います。子どもたちは、どのように謙遜と勇気をもって人生の避けがたい試練に立ち向かっていくかを見ています。そして子どもたちは、他者を重んじ、自分とは異なった意見を尊重する雰囲気の中で成長するのです。

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京都キリシタン遺跡めぐり

 昨年10月21日、京都YMCA主催で「京都キリシタン遺跡めぐり」が行われました。京都キリスト教協議会の後援、カトリック京都キリシタン研究会の協力のもと、定員を越える三十一名が京都市内に残されているキリシタン遺跡をめぐり、これらの歴史に思いを馳せました。

 カトリック河原町教会にて、村上透磨神父とキリシタン研究会の方々から説明があり、都の聖母像のレプリカも見せて頂きました。
 まず最初に、聖職者が一人もいない、信徒だけの大殉教として知られる元和の大殉教跡、そのすぐ近くにある耳塚、方広寺へ行き、当時の歴史を複眼的に見つめることができました。

 フランシスコの家では村上神父より展示されている資料を使っての説明があり、「歴史を政治的視点からだけで見ているといけない」との言葉に、一同考えさせられました。

 一条戻り橋、上京教会跡を経て、長崎への道第一番札所のカトリック西陣教会では、浅田神父より説教を頂戴し、「宗門改帳」を拝見しました。

 浅田神父の話しをもっとお聞きしたいと後ろ髪を引かれながら、大徳寺内の高桐院、端峰院へ行き、細川ガラシア夫人の墓石や、キリシタン大名大友宗麟の信仰を反映している十字架(クロス)型に石組みされた庭園を拝観しました。

 参加者のアンケートでも、個人ではなかなか行く機会が持ちにくい場所だけに、このような企画に賛同くださる声が多くありました。
 たった一日のご縁とはいえ、参加者同士、親交を深め楽しい有意義な時を共有することができました。遺跡めぐりでの発見、気付きもさることながら、この出会いもまた素晴らしい産物となりうることを願っております。

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京都キリシタン史ゆかりの地

(京都キリシタン研究会発行「京のキリスト教昔と今」、及び資料より転載しました)

*都の聖母像

 1854年フランスのサン・クロード教区のロバン神父は日本の改宗のために祈祷の会を作りました。そして1864年から5年にかけて「都の聖母」と名付けた六体の聖母像を鋳造し、教皇ピオ九世よリ1865年12月31日祝別を受けました。1866年6月14日ビリオン神父はそのうちの一体をパリから日本にもって来ました。それは、ロバン神父が「京都を見下す高い丘の上へ埋めて下さい。聖母のとりなしにより京都に宣教師が入れる日が1日もはやくきますように。」という手紙をそえてパリ宣教会本部に三体の像を送っていたからです。ビリオン神父は日本で、京都の博覧会に列席をゆるされたビグルー神父に像を託しました。ルイス原田という日本人の青年の助けを得て聖母像は東山の将軍塚の六本の松の木のそばにひそかに埋められました。1879年9月28日京都にやって来たビリオン神父は翌日早速将軍塚に登り聖母像を掘り出しました。現在カトリック河原町教会にある聖母像がこの像であると思われます。

*六条河原・元和キリシタン殉教の碑(川端通り正面橋歩道)

 1619年将軍徳川秀忠は、六十三名のキリシタンを捕えました。八名は牢で死にましたが、1619年10月17日五十二名は牢から出され、方広寺大仏殿の見える六条河原に立てられた二十七本の十字架で火あぶりに処せられました。結梗屋ジュアンの妻テクラは、五人の子供とともに焼かれました。子供の一人のカタリーナはつなが火で切れても十字架から逃げることなく、母のもとに走りよって来ました。「お母様目が見えません」というカタリーナの声に母は「イエズスさまとマリアさまに祈りましょう」と答えました。こどもの涙をふいている母テクラの姿が炎の間から垣間みられました。
1994年「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられました。

*南蛮寺跡(蛸薬師通り室町西入ル)

 都の最初の教会(イエズス会)。1576年8月15日、フロイス・オルガンチーノ司祭のもと。数百人の信者の協力、所司代村井貞勝の援助で被昇天のマリアに捧げられた三階建の南蛮寺を建てた。サソタマリア御上人寺と呼ばれ、京都におけるキリスト教、南蛮文化の中心となった。1587年秀吉はキリスト教弾圧により南蛮寺は破壊された。その優美な姿は狩元秀の扇面に残っている。

*フランシスコ会聖堂、修道院、病院跡(岩上通り四条下ル、現在のフランシスコの家付近一帯)
*日本二十六聖人発祥之地、記念碑 岩上通り綾小路角
*日本二十六聖人発祥之地、願彰版 堀川四条下ル、四条病院前

 1594年〜1597年。フランシスコ会が秀吉から与えられた土地に聖母に捧げられた教会、修道院、京都最初の西洋式病院が建てられました。日本二十六聖人のうち十七名がこの二番目の教会で捕らえられました。

*一条戻り橋

 日本二十六聖人は辻々をひきまわされました。おそらく一条戻り橋付近で耳をそがれたと思われます。

*イエズス会上京教会跡(油小路通り元誓願寺下ル)

 1600年〜1612年。聖堂と墓地があり、少なくとも一人の司祭とイルマンが常駐したいた。

*カトリック西陣教会

 「長崎への道」第一番札所。1756年摂州八辺郡大手村、現兵庫県須磨区円満坊より提出された「宗門改帳」が残っている。1982年西陣の旧家から発見された。

*大徳寺高桐院

 戦国大名、細川忠興(三斎)の菩提所であり、1628年三斎が建てた茶室松宝軒がある。又、忠興とガラシア夫人の墓所があり、その墓石は利休から贈られた灯籠を転用したものである。

*大徳寺端峰院

 豊後のキリシタン大名大友宗麟の菩提所で、閑眠庭とよばれる庭園は宗麟の信仰を反映したものか、十字型(クロス)の構成を備えている事で知られている。

*だいうす町(江戸時代の地図に示されている大臼町)


 1 上、油小路元誓願寺下ル
 2 下、岩上四条下ル
 3 下、若宮通松原上ル

◆京都ゆかりの殉教者


 ◇日本二十六聖人 1597年長崎にて殉教。1862年列聖
 ◇都のラザロ 1637年長崎十六殉教者の一人。1987年列聖
 ◇元和の大殉教(52名) 1619年鴨川の六条河原にて殉教

京の初期のキリスト教の歴史

 1551年1月聖フラソシスコ・ザヴィエルは京都を訪れましたが、後奈良天皇に謁見はできませんでした。1559年から1560年にかけてイエズス会のガスパール・ヴィレラ神父が京都で宣教しました。イエズス会のオルガンテーノ神父の時に最初の教会がたてられました。1576年8月15日に献堂式を祝い「南蛮寺」として有名になった三層建ての「サンタ・マリアの御上人寺」です。式には高山右近、父飛騨守をはじめとして多くのキリシタン大名が参列しました。しかし、1587年には豊臣秀書の命によりこわされてしまいました。現在妙心寺春光院に残されている鐘には、イエズス会の紋章と「JHS」「1577」と三本の釘が刻まれています。
 バードレ・パウロ・バウチスターを長とするフランシスコ会は秀吉より妙満寺跡の広大な土地が与えられ1595年までには、教会、修道院、病院等が建てられました。しかし、1596年には同じ秀吉より宣教師追放令が出され迫害が始まりました。日本二十六聖人のうち17名がこの時教会で捕らえられました。
 度々の禁止令や迫害にもかかわらず1622年ごろには京には三万人もの切支丹がいたとされています。しかし1614年の禁止令以後迫害の厳しさは徹底し、宣教師達は追放されました。ペアトス会の15人の修道女たちや、ダイウス町の信者が捕らえられ俵責めにあったのもこの頃です。1614年には、高山右近(高槻城主)、内膝如庵(亀岡八木城主)、ジュリア内藤(ベアトス会創始者。如庵の妹)らがマニラに国外追放されました。元和の鴨川堤での大殉教をはじめとして、多くの信者が救い主イエズス・キリストのために、生命をささげました。

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こんにちは青年センターです

 みなさん、こんにちは。3年間勤めてくださったAさんに変わり、青年センターの専従者の仕事を引き継ぐことになりました。
 みなさんは、青年センターのことをご存じですか?西院カトリック会館の2階に事務局がありますが、本当は青年のみなさんのネットワークを広げ、情報を提供し、活性化のお手伝いをしていくところです。そのために2ヵ月に一度、各地区から青年が集まって運営委員会を開き、機関誌「ジョバニ」を発行しています。

 また、中学生会・高校生会や広島体験学習、アジア体験学習など、青少年委員会の企画の事務を行っています。

 このたび専従者の仕事を引き継ぐにあたり、事務局の仕事のほかに、全国での青年の集まりがあれば青年センターのアピールやネットワークを広げるために、全国各地ヘ出かけていきたいと思っていますし、今年の9月に埼玉で開かれるジャパン・ユース・デイの仕事も、てがけていきたいです。このようなセンターをもっともっと利用してほしいし、何かをしたいと思っている若者のパワーを引き出す事務局にしていきたいです。
 たとえば私は昨年の夏カトリックアジア体験学習でフィリピンへ行きました。日本が豊かすぎること、貧しくても神様とともに生きていてとても幸せに暮らしている人たちがいることなどを知ることができてたいへん勉強になりました。しかし、参加者が4人と少なく残念でした。だから、この体験学習のような青年のためのいろいろな企画をアピールするとともにカトリックでない青年も一緒に参加できるよう呼びかけにも力を入れたいです。
 みなさんもセンターの利用を通してネットワークを広げ、多くの人達と喜びを分かち合ってみませんか!!

京都カトリック青年センター
TEL075ー822ー6246
FAX075ー812ー6685

 

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