1995/4 No.209

京都教区時報4月号

・阪神淡路大震災からの《新生》

・原発予定地南島町の苦悩(2)

・あんてな


共同宣教司牧の基礎工事

 日本の教会が10年前に『日本の教会の基本方針』に掲げ、NICE1と2とで目指してきた方向を、阪神淡路大震災という悲劇の体験の中で確認した思いです。教会が宣べる「救い」とはこのような状況の中で何なのか、この「救い」がだれにとってのものなのか、だれが救われていないのか、根本的問題を突きつけられています。

 今ここで教会が変わっていくのでなければ、被災した人たちに教会をどう説明するのか。すべてを失い、小教区すら廃止される信徒たちにどんな希望を与えられるのか。大阪教区の中で、被災小教区は「谷間」です。みんなそこを目指します。しかし、これらの小教区のまわりの「谷間」を目指します。それは、与えるだけでなく、受けるもの、学ぶものがたくさんあります。この交わりを通して、いつか「キリストの光」がくまなく充満するでしょう。


(安田大司教が教区全員に宛てた「新生」計画に関する文書から抜粋しました。)


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原発予定地南島町の苦悩(2)

Y・T(伊勢教会)

 以前、芦浜原発の漁師さんの話を書きました。今回はその後の海洋調査受け入れまでの動きをお伝えします。
 なぜ海洋調査の受け入れが重要なのかというと、調査は事実上原発建設の第一歩であって、これまで調査が行われて原発の建たなかった所はないのです。南島町の七つの漁協は三十余年原発に反対してきましたが、芦浜に漁業権をもつ古和浦漁協は近年推進派が多数を占め、「原発反対」の看板を下ろしました。これは漁業不振につけこんだ中電のお金による切り崩しの結果です。もう受け入れ準備は整っている。いつ中電が申し入れをするか、みんな気が気ではなかったのです。

*抜き打ちの海洋調査申し入れ

 去年の11月24日、多数の住民の強い要請をうけて南島町長は「原発反対宣言」をしました。南島町ははっきり、原発建設どころか調査だけでも反対だと表明したのです。ところが中電はそれを無視して三十日の朝、突然海洋調査の申し入れを強行したので、南島町内は騒然となりました。無線連絡を受けた漁船は「まるで陸(オカ)で火事がおきたみたいに」一斉に沖から港へ戻り始めました。
 人々は役場にかけつけ町長をとり囲んで対応を迫り、その日のうちに「南島町芦浜原発阻止闘争本部」が結成されました。

*津で2800人のデモ

 しかし、田川知事はこうした動きを無視するばかりか「原発に反対する者は井の中の蛙」と発言したのです。そこで闘争本部は南島町の意志と団結を世に示し、知事と中電への抗議をこめてデモ行進をすることを決定しました。
 12月7日、県庁のある津市の大通りに鮮やかな大漁旗や原発反対の旗が翻り、プラカードが踊りました。約2800百人、全町民の三分の一近くが仕事を休んで参加しました。代表団が県庁を訪れ、総会中止を指導するよう申し入れましたが、副知事は「行政は中立」とはねつけました。

*みんな座り込んだ

 12月15日、調査受け入れのための古和浦漁協総会の日がやってきました。「総会を開かせたら終りや」住民有志の漁協前での座り込みは前日の夕方から始まりました。午前7時にはその人数は1000人を越えました。30余年にわたって「子孫のいのちのために」「海と漁業を守るために」民主的手続きを積み重ねて原発反対を表明してきた人々、ただ静かに暮したいという普通の願いも、人としての権利も、企業と行政によって踏みにじられた人々はただ座り込むしかなかったのです。漁協玄関前に座り込んだ人々は叫びました。 「私らには子供を守る責任があるのっ」。「今まで騙され続けとった。もう騙されへん」。「総会は絶対開かさん」。人々の目には涙がありました。警官隊が来ても推進派が来ても一人も動こうとはしませんでした。漁協周辺の人数は2000人にふくれあがっていました。ついに推進派組合長は断念して流会を決めました。

*苦悩の選択

 しかし再び古和浦漁協は12月28日に総会を行うと発表しました。今度座り込みをしたら警官隊が実力で排除し、血を流すことになるかも知れないと危惧した闘争本部は県の仲介で中電と話し合いのテーブルにつくことになりました。その結果、「中電は総会で調査が受け入れられても、町長と各漁協の同意が得られるまで調査を実施しない」「中電は一年間、工作員の活動を休止する」という約束を得たかわりに、「町長は総会が開けるよう最善の努力をする」ことになりました。総会を開けば受け入れが決まるのです。これは苦悩の選択でした。
 こうして暮の28日の出直し総会は平穏に行われ、賛成112、反対966、白票3で海洋調査の受け入れが決まりました。そしてすでに調査受け入れを決めていた錦漁協(紀勢町)の分とあわせて15億円にのぼるお金が、補償金、協力金としてその日のうちに支払われたのです。
 この文を書くのに柴原洋一氏の「芦浜れぽーと」を参考にしました。同氏に感謝いたします。

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社会に出ること
 
 この春から社会人として出発するために、昨年4月より就職活動を始めました。

 不況、不況とは言うものの、何とかなるだろうと考えていましたが、どっこい甘いものではありませんでした。リクルートスーツが、こんなに肩が凝り、気持ちが重くなるものであるとは思いませんでした。何者受験したことでしょうか。採用人員は少なく、もう少しの所で不採用になったりで、今迄経験したことのない数ヵ月であり、落ち込んだ数ヵ月であり先が全くわからない真っ暗な場所に閉じ込められたようで、自信喪失にもなり、私にとって苦しい日々でした。本音のところどうでもいいやと思うこともありました。なぜなら、内定通知を頂いている友達もぼつぼつと増えてきて、私なりの焦りも頂点に達していましたから。

 おかげさまでやっと10月に採用決定となりました。やはり、採用人数1名の枠内に入り込むという難関でした。先が見えなかった暗闇の中に光が差し込んできたようで、この時ばかりは、うれしさの余り、涙が溢れてしまいました。

 今思い返すと、早く決定しなくて良かったと思います。就職活動の苦しさから、社会の厳しさを少しでも感じることが出来、社会勉強一部になったと思います。しかし、まだ今は、社会に入ったわけではありません。社会に飛び込もうとするだけで、こんなに苦労があった訳ですから、今迄以上の苦しみ、悲しみがある筈だと思います。この先、いろいろな道があるでしょう。砂利道か、曲がりくねった道か、でこぼこ道か、あるいは迷路かもわかりません。どんな道があるのか見当もつきませんが、一つ一つが本当に貴重な経験として将来、私の道の一部として必ず役立つと思います。

 神様は決して無駄なことはなさいませんからどんな些細なことでも大切に、大切にして、私らしい生き方をしていきたいと願っています。(H・Y)

 

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