1997/7 No.236

京都教区時報7月号

・キリストを中心とした共同体

・隠れキリシタンの信仰(四)

・四日市教会創立五十周年

・右近こどもまつり『沢城址を巡る』

・CBSカトリックスカウト宗教トレーニングキャンプ



キリストを中心とした共同体

使徒言行録には、初代教会の頃の信者の生活が記されています。「信者たちは毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(2・46、47)。

 この頃はまだユダヤ教の中に留まっていましたので、神殿はユダヤ教の神殿であり、今のようなキリスト教の聖堂がなかった時代です。ですから、信者たちは家ごとに集まっていたのです。

 ミサも今のような典礼形式にはなっていませんでしたので、「パンを裂き」、その後一緒に食事をしていたのです。共同体の中心にキリストがおられることを思い起こすために、「パンを裂く」ことがしばしば行なわれいたようです。

 教会の歴史の過程で、聖堂が建てられ、聖体が安置されるようになると、個人的に聖体訪問する習慣ができてきましたが、共同体の中心にキリストがおられることにかわりありません。


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隠れキリシタンの信仰(四)

 三俣俊二

●殉教者の尊崇


 これまで、生月の隠れキリシタンの最近の動向、伝承されたオラショなどを中心に、色々なことを見てきたわけですが、生月キリシタンの最も顕著な特徴として、そしてそれが彼等の信仰を現在まで継続させた大きな原因となったのだと思いますが、私は躊躇なく、殉教者たちに対する彼等の尊崇の念を挙げることが出来ます。
 一般的に云って、最近殉教者あるいは保護の聖人などについて、彼等に倣うとか、その取り次ぎを願うとかいう習慣が薄れてきたように思います。
 告白の祈りなどにしても、至って簡単に、「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。」となりましたが、以前は「全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人、および霊父に向かいて告白し奉る。」(公教会祈祷文)と唱えていました。この点、生月のキリシタンの祈りは昔のままです。
 「万事叶いたもうデウスを始め奉り、いつもビリゼンなサンタマリア、サンミギリ・アルカンジョウ、サンゼンば移る島(バプティシマ)、たっときアボストンのサンペートロ、サンパウロ、もろもろのベアトロ、またおの(御身)バイテロに、科(とが)現わし奉る。」
 かなり転訛していますが、先の公教会祈祷文と照合すれば判読は容易でしょう。生月のキリシタンの人々は、これらの聖人、殉教者に加えて、もっと多くの身近な殉教者の名前を挙げたかったに違いありません。しかし、文言の固定した祈りに勝手な追加は許されないというところから、新しい工夫をしました。それが、神寄せのオラショです。これは、集会の始めに唱える祈りです。ここでは、片岡弥吉教授が生月島山田の船原定吉氏の口誦から書き取ったものを基本に紹介します。

●神寄せのオラショ


 「御願い奉る。天地御進退なされましたる御ならじ(あるじ)ゼズ・キリスト様、御母サンタ・マリア様、フランセスコ・ザベリヨ様、クロスタン宗あらゆる様、お中江様にはサンジワン様(中江島の殉教者、後出)、平瀬のパブロー様、黒瀬の辻のガスパル様(1609年妻ウルスラ、長男又一と共に殉教、後出)、安満岳には奥の院様、牛頭天王様(薬師如来の化身)、浜田のホウジワン様、千人松の新右衛門様、白浜には小一郎様、メンチョロウ様、ジゴクの弥市兵衛様、マリア様、ジワン様(以上三人生月島南部の断崖下での殉教者=ダンジク様、後出)、根獅子はずれに松三郎様、又三郎様、杉本惣兵衛様、ウシワキ(大石脇)様、獅子の小島のとう丸様、松崎のアントー様、堺目のアントー様(後出)、幸四郎のパブロー様、平戸の追い回しのガスパル様、オコノホージワン様、長崎浦上市五郎様、ヒゴ(守護)のアンジョー(アンジョ=天使)様、長崎のサントー様、天のパライゾ様、長崎立山二十六聖人の皆々様方、長崎出島におきましては天草四郎時貞様を始め三千五百名の殉死の方々様、原城におきましては、三万八千人の殉死の花観音様、黒瀬三郎
秀郷様、紀の国は竹松様、田村惣次郎様、我々の御先祖様、宇宙の神々様、竜宮世界の乙姫様、一二の(?)様に頼み奉る。」

●取り次ぎを頼む


 内容にはかなり混乱を来しており、また至って怪しげなものも登場しますが、要するに彼等の思いつく限りの殉教者を挙げて、取り次ぎを頼むのです。彼等は唱え挙げる殉教者の名前を減らしていくのではなく、逆に、絶えず付け加えてきました。たとえば、「長崎二十六聖人の皆々様」と唱えていますが、この言葉が入った時期は限られています。二十六聖人の列聖は、1862年のことでした。ですからその後です。そして、まもなく聖人の殉教地を特定する動きが日本で始まりましたが、当初は西坂の丘ではなく、立山だと考えられていました。生月のキリシタンの神寄せのオラショに、上記の言葉が入ったのは、この限られた時期だと推定できるのです。
 殉教者に対するこのような尊崇は、また殉教地に対する尊崇として表れてきます。一般旅行者向けの生月のガイドブックに記載された名所旧跡も、ほとんどが殉教地
です。例えば、堺目のアントー様(アントニオ庄平の殉教地)、堺目のパブロー様(パウロ幸四郎の殉教地)、黒瀬の辻のガスパル様(一九八七年列聖されたドミニコ会トマス西神父の父ガスパル西玄可の殉教地)、ダンジク様(弥市兵衛、妻マリア、息子ジョアンの殉教地)、中江の島のサンジャン様(ジュアン坂本太郎左衛門、ダミアン出口、ジュアン次郎右衛門等の殉教地)などがそれです。

●身近な殉教者


 生月キリシタンにとって、これらの殉教地は、まさに聖地です。彼等は、それらの場所には薪を取りにも入りません。参詣のために入るときには、履物を脱いで入ります。あるいは、新しい草鞋に履きかえて入るのです。
 そして、とりわけ自分たちに最も近い殉教者、すなわち自分たちの祖先、親族、自分たちの地区から出た殉教者を大切にします。
 先日、焼山の御堂を訪れてみました。御堂に入って、壁に貼られていた年間行事表、教会暦のようなものを見てみますと、12月のお産待ち(待降節)、御誕生(クリスマス)などはありましたが、
悲しみ節(四旬節)も、上り(復活祭)もありませんでした。にもかかわらず、旧暦の9月5日の項には「アントー様」と書いてあるのを見て感激しました。自分たちの地区、堺目の殉教者アントニオ庄平の殉教記念日を、大切にしているのです。生月小学校の南に隣接する小さな森の中に、ささやかな彼の殉教碑がありますが、それ以上に、年間教会暦の中で、そして日々のオラショの中で、彼は尊崇され、取り次ぎを依頼されているのです。

●むすび


 以上主として生月の隠れキリシタンの実態から、彼等の信仰伝承の秘密に迫ろうとしたのですが、ここで簡単にこれまでの結論をまとめてみましょう。
 まず第一に、彼等の組織の力、それも慈悲の所作という教会外の人々にとっても有益な活動をする強力な信徒使徒職組織、ミゼリコルディアの組(慈悲の組)の存在があり、これが潜伏時代に入ってからの拠り所となって、彼等の信仰共同体を支えてきたと云うことができます。然るべき民主的運営機構があって代表者の意志が決定され、それが組織的な情報伝達機構によって構成員に周知されて、その指示は全員によって遵守されてきたのです。
 一方、霊的な側面から見るならば、オラショが大切に伝承され、その中で霊的な豊かさが養われると同時に基本的な教義が保存されてきたこと、そして何よりも殉教者、それも自分たちに最も近い殉教者を尊崇し、自分たちの信仰生活の身近な模範として大切にし、その取り次ぎを求めて祈り続けてきたことを挙げることが出来るでしょう。
 隠れキリシタンの歴史は、私たちに多くのことを教えてくれるように思われます。  (おわり) 

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四日市教会創立五十周年

四日市教会は去る4月29日(みどりの日)に、創立五十周年を祝いました。当日は好天に恵まれ病身をおしてご出席して頂いた田中司教様を始め、歴代司祭、近隣教会の司祭や修道女、信徒代表など80余名のご来賓と、260余名の信徒が出席して盛大に実施されました。10時からの記念司教ミサの後、式典に移りイラオラ主任司祭の式辞に続いて、田中司教、坂本三重カトリック協議会会長、内田歴代信徒会会長代表とヘルマン・エスコラピオス修道会代表の皆様から祝辞を頂きました。午後からは聖マリア館ホールで祝賀会が開かれ、リベロ歴代司祭からのショートスピーチに続いてモンレアル歴代司祭の乾杯に移り、和やかな雰囲気の内に懐かしい方々との交流の輪がホールー杯に広がりました。宴の半ばにはメリノール女子学院聖歌隊による清らかな歌声が会場を包みました。終宴に際して山本信徒会会長が謝辞を述べ司教祝福を頂いて予定通り13時20分閉会致しました。
 四日市教会ではこの日を記念して創立五十周年記念誌「五十年のあゆみ」を発刊して、参会者の皆様にお配りしました。
沢山の人々の祝福の内にこの日を迎えることが出来たのは大きなお恵みであり、改めてそのみ計らいとそれを全うさせて下さいました皆様に感謝申し上げます。

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右近こどもまつり『沢城址を巡る』


今年も、5月5日のこどもの日に「右近こどもまつり(右近祭)」をむかえました。
 顕彰式の後、昼食をはさんで、子どもたちを中心の運動会に参加するグループと、沢城址を巡るグループに分かれ、午後の時間を過ごしました。今回は沢城址についての報告をいたします。
 参加者は約50名、70才をこえた方から小学生までの老若男女が、ときには見失うような細い山道を山頂をめざします。
 沢城は伊那佐山から南東にのぴる標高525メートルの山頂に造られた山城です。この山城は戦時の時に利用され、普段はふもとにある下城(しもんじよう)と呼ばれる館に住んでいたとのことです。この山はピクニックコースにも入っておらず、利用されるのは地元の方が中心で、材木の伐採などに入る以外にはあまり利用される人がないため、高山右近が過ごした頃とそれほど違わない状況と思われます。

ここかしこに、沢城址までの道しるべが新たに立てられ、山頂の手前には城堀の跡がわずかに残っているものの、沢城があったと思われる場所は笹が生い茂り、右近が過ごした当時の面影を思い起こすことが出来るようなものは残っていません。

 先年亡くなられた郷土史家・大門さんが高山右近について調べられており、沢城については地元の二、三名の方が引き継がれ、今回もその方々の案内で登ることができました。

 殉教者・ユスト高山右近に想いを馳せるには、是非、右近祭の沢城登山に参加されることをお勧めいたします。来年の5月5日に多くの方にお会いできることを楽しみにしております。

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CBSカトリックスカウト宗教トレーニングキャンプ

 4月4日〜6日、大柳生の奈良市野外活動センターで、宗教トレーニングキャンプがあり、四十名のボーイスカウト、ガールスカウトが参加しました。
 一日目は入所式のあと、京都、滋賀、奈良の中高生達がこれからの二泊三日のキャンプに楽しく参加するため、ゲームをしてお互いの緊張感を和らげ、班分け、班旗づくりでスタートしました。
 二日目は「キリストの生涯」について草津十四団の田村さんの講義、そしてCBS指導司祭森田神父様からは「キリスト・弱い者の味方」のお話を聞き、「切手のないおくりもの」の手話を教えて頂きました。
 昼食は野外炊飯場でカレー作り、午後から森田神父様を囲んでフリートーキングや雨中のハイキング。街の中とは七・八度の温度差があるため、山の桜はこの季節でも三分咲き、時折のどしゃぶりに山道は雨水が川の瀬の様な状態でしたが、全員無事帰着。悪条件がかえってお互いの気持ちを結びつけたかも知れません。夜は室内営火、スタンツに再び「切手のないおくりもの」の手話が登場したり、指導者とスカウトがひとつになって時を忘れて楽しみました。
 三日目、ヨハネ福音15章13節から「友情」について講義をうけ、分かち合いをしました。午後から松本神父様司式のミサに参加し、全員神父様の祝福を頂き、一人ひとりが指導者との友情の握手で来年の再会を約し、キャンプが終了しました。
 雨、雨、雨の三日間でしたが、神父様はじめ、指導者、生活担当の人々の奉仕によって、若いスカウト達の心にキャンプで学んださまざまな事が、柔かい土へ雨水がしみ込む様に吸収されることでしょう。そして、大聖年に向けてのスカウト活動へ、友情の輪が広がり、信仰心豊かに展開されてゆきますよう祈っています。

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