1994/8 No.201

京都教区時報8月号

・天皇制とは

・洞付強制移転が問いかけるもの

・1994年KCCセミナー

・チェルノブイリ報告

・2000年の京都教区

・近隣小教区連絡会だより

・あんてな



天皇制とは

 洞村跡の現地学習から

 前日の雨でぬかるんでいた畝傍山。靴の汚れやズボンのすそを気にしながらの洞村跡の見学となる。

 奈良県樫原市にある畝傍山は、高さ199メートルの丘を少し大きくしただけのような小さな山である。
 今からおよそ70年前、そこにあった洞村という被差別部落が、麓の神武天皇陵を見下ろしているのは、畏れ多いと強制的に移転させられた。

 我々は70年前に思いをはせながら登っていったが、今は、うっ蒼とした雑木林が続くだけ。わずかに共同井戸や庭木のしゅろが残っているだけだった。
 天皇制の強権によって、長年住みなれた村を追われていった当時の被差別部落の人々の思いは、一体どんなものであったのだろう。

 我々日本人の心に深く住みついている 天皇制とは という問いを新たに投げかけてくれた。(奈良 A・S)

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洞付強制移転が問いかけるもの

  A・S

「洞付強制移転」については、ご存じの方も多いと思われますが、簡単に概要を紹介しておきます。
 今からおよそ80年くらい前、大正天皇が即位して、奈良県の橿原にある神武天皇陵を訪れることになりました。神武天皇陵とは日本の初代天皇の墓で皇室が最も大切にしている御陵です。現在の平成天皇も即位のために来ているし、皇太子夫妻も結婚の報告のために訪れました。そのときの「雅子さまフィーバー」は記憶に新しいところです。

 この神武天皇陵を見下ろす位置に、洞という被差別部落があったのです。畝傍山の中腹に208戸の家があり、1000人ぐらいの人々が生活を営んでいました。ところが大正天皇の行幸をさかいにいろいろと世論が湧き起ってきました。神聖な神武天皇陵を、穢れ多き被差別部落が見下ろしているのは、何んと畏れ多いことか。神山である畝傍山に、部落民の死体をそれも土葬で埋めている。恐催(きょうく=おそれおののくこと)に堪えざることである、などと。そして、ついに洞部落は国家権力の強制によって、長年住みなれた地を追われていったのです。これが「洞村強制移転」といわれるできごとです。

 このできごとは、部落差別と天皇制の問題を論じるときに、よく引き合いに出されるものです。しかし、このできごとをただ天皇制の強権力とか暴虐という面だけで捉えていると、天皇制のかかえているもっと恐ろしい部分が見えてこないと思います。
 洞村の子孫の人たちは、現在、大久保町という所に住んでいます。私は家庭訪問やいろいろな機会で、家に上がらせてもらうことが多いのですが、部屋に昭和天皇、皇后の写真が飾ってある家がかなりの数ありました。
 雅子さまが神武陵を訪れたときも、この町から数人の人たちが一目見ようと出かけて行っています。被差別部落の人たちも「雅子さまフィーバー」に一役買っていたのです。
 国民一人ひとりの心に住みついている天皇や皇族に対する意識は、過去にこんな目に合わされた被差別部落の人たちにとっても例外ではないようです。
 戦後になり天皇は、神ではなくて、象徴としての存在になりました。戦前のように天皇の強権や暴虐は見られなくなりましたが、今は、もっと複雑で巧妙にからめとられた天皇制が存在しています。そして、それは日本中の一草一木にいたるまで息づいているといえるでしょう。解放運動家の松本治一郎は『貴あれば賎あり』という有名な言葉を残しております。われわれ人間が天皇制という聖なるものを紡ぎ出している限り、部落差別をも紡ぎ出しているのだといえるでしょう。

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1994年KCCセミナー

 ●「心の世紀」について
 KCC(京都キリスト教協議会)は毎年一度はセミナーを開いている。今年は関西セミナーハウスで「京都における新宗教の諸事情〜何故多くの若者が引きつけられるのか〜」と題して、京都新聞社編集局社会部・吉澤健吉氏(高野教会信徒)による講演があった。 氏は、京都新聞に連載され好評を博している「心の世紀」の編集責任者でもある。
 この企画は、世紀末にあたって心に悩みや不安をかかえる現代人が何をよりどころにしているのかを、京都ならではの企画で探って見ようと、宗教部記者以外の若手の記者を選んで企画編集したものであるという。
 既成宗教では十分に応えてくれないとしたら、既成宗教に代るより所はどこにあるのかを見つめ直してみたいというのが動機であったといわれる。

●「現代のシャーマン」から
 第一部は「現代のシャーマン」と題して25回ほど連載したが、とても大きな反応があった。
 中には高僧と呼ばれる人もあってそこへはどうも政治家や経済人が出入りするらしい。又、一般庶民と思われる教祖的な人が居て、そこに多くの一般市民が訪れる。
 1970年代丁度、石油ショックと高度経済成長時代の終わり頃から、顕著となった第三次宗教ブームと呼ばれる新々宗教の時代の特徴は、Do(ドゥー)の宗教、術の宗教と呼ばれるものが盛んとなる。即ち、ある訓練をつめばそこそこ神様との交わりがとれ、指導者になれるこの新々宗教にひかれる年令層に20代又は20代前後の若者が多い。彼らはオカルトを好み、見える形の魔術的なものがある所や、神がかり的なものに魅かれる。出入りが自由、宗教のはしごもする。確信があって入るのではなく、チュウインガムの様に捨てることも出来る。理屈や説教は大嫌い。プロセス(過程)を大切にするより、短絡的なものを好む。 若者の動きを巧みにとらえたものに、幸福の科学がある。彼らは受験システムを採用した。

●メディアが宗教をつくる
 このシリーズの第二部として、「神々のメディア」と題し編集された。メディアが宗教を作るとでも言えようか。
 広告代理店の電通が、宗教を通して経営を拡大しようとする。そこで目をつけたのが、阿含宗や幸福の科学。例えば、阿含宗の星まつりはその一つ。
 幸福の科学は、メガトンキャンペーンと題して実行し100万人もの信者を増やしたと言われる。
 確かに、いずれも限界もある事は事実で延び悩みはあるにしても、若者の心をとらえている事は事実。
 主に以上の様な事をいろんな例をあげながら興味深く話しを聞いた。こういった新々宗教ブームに対し私達はどう対応し、又、何かを学ぶ事出来るのであろうか。注意深く分析してみる必要があろう。

●世相の反映
 尚、江戸末期から明治にかけておきた第一次宗教ブームで生れた天理、金光、里住、大友などの諸宗教、第二次大戦後起きた、PL、真如苑や、創価学会、霊友会、立正校正会等の法華グループの台頭と、夫々の特徴も、興味ある特徴がある。これらは、それぞれの世相を反映して出来たものである事も興味深かった。
 これらの諸宗教の設立の背後にある、人々の心情を私達はどうとらえていけばよいのであろうか、考えてみたい。諸宗教との対話と言うが、私達はこれらの宗教心情に対し、果して理解し対話する心、あたたかいまなざしと言うものをもってはいけないのだろうか。それともゆるされているのか。ゆるされているとすれば、それは何なのか、そんな事をふっと考えていた。
 この連載シリーズは、一読研究に値する。

〔KCC関係、報告〕
 KCCの動きについては、その都度、くわしく報告すべきかも知れないが、その中で二つ三つ是非報告したい事がある。
 一つは、昨年11月15日KCC主催で、京都キリシタン遺跡めぐりを行い、好評を博した事。それを受けて、今年6月4日、YMCA主催で行う事が出来た事を報告したい。これはキリシタン研究会の方々の案内で行われ、河原町、フランシスコの家、西陣教会の神父様方、信徒の方々の暖かい案内ともてなしを受け感謝された。
 もう一つ是非報告しておきたい事は、二年後、96年頃、京都で聖書展を開催する準備が始められている。どうぞ御期待下さい。
(報告・村上)


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チェルノブイリ報告

 I・M(津教会)

●チェルノブイリ訪問
 5月はじめ、10日ほどチェルノブイリへ行って来ました。あの、世界中を震撼させた事故から丸8年、9年目に入ったその地に何がおこっているか───ぼう大な量の放射能を浴びせられた人々にどんな生活があるのか、という問いと、救援物資をかかえて出かけました。子供たちの肉体の健康状態については、少ないとはいえ出版物やマスコミ報道を通じて日本にも伝わって来ていますが、現地訪問して知った予想外の事実に「家族崩壊の急増」がありました。自然放射能の40倍、100倍という数値を示す汚染地に住むしかない人々。未来への希望を持てずアルコール依存症に逃げこむ男たち、我が子があす発病してあす死ぬかもしれないという極度の緊張と不安、恐怖にとりつかれ、95%の母たちに神経症、精神病がみられるという地域で離婚が多発し家庭崩壊がおこっていました。

●苦悩の地
 危機的状況の中でこそ家族の絆が、家庭の暖かさが……という甘い思いこみをみごとに打ちくだかれた現実でした。聖地巡礼のつもりで出かけたチェルノブイリ。ロシア正教の地、という意味ではなく二十世紀の十字架を担ってイエス様がそこにおられると思いつづけて来たから。予期したとおりゲッセマネの苦悩、ゴルゴダの苦痛がありました。

●与えられた課題
 帰国して数日後、韓国の元「日本軍慰安婦」の女性から電話。「日本へ行く、会いたい、話したい」とせっぱつまった声。旧日本軍によって人生をメチャメチャにされた恨(ハン)を、勇気をふるいおこして証言しはじめて四年。世界中の心ある人の心を打ちはしたけれど、失った青春は返るはずもなく、切願する「正義の回復」は未だ片リンも実現せず、名乗りをあげたことをきっかけに、よい意味でも悪い意味でも拡った人間関係にほんろうされ、心ない視線、くちさがない言葉という別の十字架までが老いた身にかぶさってくるこのごろ。それを心許してぐちる「身内」を持たない彼女たち。重い性的被害のために家庭を築くことを諦めて孤独に生きて来た彼女たちが、安心して思いのたけを吐き出せる姉妹は「仇国」であるはずの日本の少数の女たちなのです。何という皮肉。おまけに迎える私は、夫も子供も、さらに心開ける友人をも数多くもつ「幸せな家庭婦人」(彼女たちがそう言います)です。私の、その幸せな生きる場に、どこまで深くあたたかく彼女たちを迎え入れることが出来るか、苦しく重い課題です。

●聞き合う場で
 週に一度、グループカウンセリングのような場を開いています。───のような、と言いますのは、専門家による有料の場ではなく、「誰かと話したい」という全ての人に無料で開かれたスペースにすぎない場です。積極的傾聴法のトレーニングの場として四年前にはじめたのですが、自然の成り行きといいますか、神様の手に導かれてといいますか、さまざまな生きる悩みを安心して語り、それを心傾けて聞き合う場として成長して来ました。
 内容は「場外秘」の約束ですしこの限られた紙数でさまざまなケースを十分に伝えることは不可能ですが、沢山の方々が、目をみはるような「回復」をみせて下さいました。

●回復と癒し
 忘れられないひとつの例があります。ひどいうつ状態で、これは専門の精神科医の薬物療法が要るのではないかと思った方が、2年間、毎週毎週、訥々(トツトツ)とグチグチと家庭の悩みを訴えつづけられるのをひたすら聴きました。助言したい叱責もしたい思いを押さえて、丸ごと受容していく試み。
 ある期間から急速に回復がはじまり、全て───まさに全て、彼女の肉体の不健康も、子供の不登校も、夫婦関係、近隣関係……全て奇跡的な癒しを見せて下さったのです。そのころ彼女が言われた言葉。帰りがけ教会の樟(クスノキ)をみあげて、「この樹って、2年前もこんなに緑が美しく、空もこんなにきれいだったのに、私には見えなかった、あのころ───」と。心身の健康と笑声のたえない家庭をとり戻した今、彼女は別人のようです。

●あなたの隣人は?
 チェルノブイリのお父さんお母さんも、性的被害を受けた女性たちも、不登校不登園の子供に悩むお母さんたちも、自分に注がれている神様の愛に気づかれれば、全て氷解し癒される───これはまちがいない事実であり、司教団の教書も明言しておられます。(7頁)
 しかし、それを感じとれる感性が病んでいれば、愛の言葉も無力です。空の青さ、樹々の緑を美しいと感じとれる感性をとり戻してもらうために、私たちが「隣人になれるかどうか」が鍵のような気がします。

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2000年の京都教区

司祭評議会では現在、教区全体の司祭の配置も含めて、共同宣教司牧について教区の方針を出したいと考えています。このためには、司祭だけでなく、信徒と修道者とも一緒に考えていく必要があります。
 この課題は以前に「適正配置」という呼び方で、まず司祭評議会で、次に宣教司牧評議会で取り組んできました。しかし、「適正配置」という呼び方では、小教区の統廃合によって、自分たちの小教区がなくなるのではないかという不安を抱かせるので、現在ある共同体は大切にしながら、「よりよき宣教共同体になるために」どうすればよいかを、話し合ってきました。
 「よりよき宣教共同体になるために」という課題については、既に宣教司牧評議会より司教に答申が出されています。
 司祭評議会ではこれを受けて、教区全体の司祭の配置を再検討すべきであるという結論に達しました。しかし、現在の教区で働く司祭の数や、高齢化を考えますと、一小教区一司祭という考えは捨てないといけません。消極的な意味ではなく、積極的な意味で、現在「共同宣教司牧」の必要性がでてきています。
 教会法で言う「共同司牧」は、複数の司祭によって進められます。新しい教会法では517条で、「事情により必要と認められる場合、小教区又は種々の小教区の司牧を連帯的に数名の司祭に委託することができる。ただし、その場合、法律をもって、そのなかの1名が司牧的配慮をすべき責任者(モデラトール)となり、この司祭が連携活動を指導し、かつ、それについて司教の前で責任をとらなければならない。」と規定しています。「共同司牧」という用語は教会法典では使われていません。「共同」とは二人以上の司祭が協力し、同じ資格で働く場合を考えています。
 これに対して、「共同宣教司牧」は、司祭だけでなく、信徒・修道者がチームとして進めることが求められています。又、そのあり方もいろいろあっていいと思います。一人の司祭と、信徒・修道者がチームとして働くことも考えられます。
 現在、教会法で言う「共同司牧」を行っている所は三つあります。
 西院・桂の小教区では、1991年より3名の司祭で、1994年5月より2名の司祭で活動しています。
 伏見・桃山・八幡の小教区では、1992年10月より2名の司祭で活動しています。
 大津・唐崎・安曇川の小教区では、1994年4月より3名の司祭で活動しています。
 又、広い意味での「共同宣教司牧」を試みている所は、亀岡・園部、大和高田・西大和・御所・大和八木・大和郡山、加悦・峰山・網野・大宮・岩滝・宮津、伏見・桃山・田辺・精華・八幡・青谷・宇治、衣笠・西陣・西院・桂・九条の小教区です。
 尚、三重地区については、ジャクソン師より「2000年の三重県」という個人的な提言が出されています。2000年というと遠い将来のように思えますが、あと6年で2000年になります。みんなで「2000年の京都教区」を真剣に考えていく必要性があります。

(文責・滝野)

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近隣小教区連絡会だより

   

私たち、近隣小教区連絡会(京都南部地区・伏見、桃山、宇治、青谷、田辺、精華の7教会)では二ヶ月毎に信徒、修道女、司祭が揃って集まりをもっています。1986年4月からです。このメンバーはそれ以前から近隣小教区運動会をしておりまして、今年第14回を数えました。毎回、主に情報交換ですが、その中から私たちは海外にも目を向けたり、子供の合同キャンプを開いたり、有名な講師を迎え典礼研修会も開くことができました。
 その一つが海外援助です。戦後の貧困状態のとき海外からの援助で教会を建てていただきました。今、豊かになった現在、何かお返しをしなければと援助が提案され、何度か協議の末、恵まれない国の教会施設建設援助をしようと決めました。
 まず身近なところで、桃山教会にいらっしゃったフィリピン出身のジューズ神父様に調査を依頼したところ、フィリピンのボホル島セントメリー・アカデミー校(アウグスティノ女子宣教会運営)が紹介されました。1991年の風水害で校舎が大破し修復ができなければ廃校に追い込まれかけていました。人口は約1万5千人ですが、学校は小学校を除けば、この学校が唯一の中高等学校です。父兄たちは大変心配して自分たちから奉仕をかって出て、応急修理をして留まるように願っていました。また、この学校(私学)は生徒は約350人で、一人の授業料は一ヶ月5百円程ですが、災害や不安定な経済状態のために支払いができなくなって、毎年約10%の子供が中退して行く状態でした。
 1992年3月、各教会の意見は不揃いでしたが無理のないようにと、修復援助資金は各小教区の実情に応じてミサ献金の一部や募金活動をして持ち寄り、就学資金援助は7教会で毎月1万円(20名分)を送ることにして、第1回を5月に持ち寄り、以後連絡会に集めることにしました。
 今年1月修復援助資金目標150万円を3万8千円上回り達成し、就学資金援助だけを継続しております。
 初め意見が多少不揃いでしたが、今ではその抵抗を乗り越えて一つを成し遂げた喜びが次ぎの援助さきのことを自然にみんなが考えていました。そしてニカラグアが紹介されたのです。昨年5月深水正勝神父(東京教区)の中南米ニカラグアのワッスララ小教区の訪問がきっかけになって始まった80の村に小聖堂建設プロジェクト(カトリック新新聞4月24日号、5月1日号参照)が援助を求めているので200万円を目標に3月から送金を始めました。
 私たちは第2回福音宣教推進全国会議をとおして発表された司教団文書を読んでいます。「共感から共有に」とか、国際家族年という意味を、縦の関係じゃなくて、横の関係で、あたかも調子のよいリズムでキャッチボールをしているような歓喜を与えられているようで、受け取ってくださる人々に感謝しています。
ます。

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「ヤング・ワーカーズ・フェスティバル1994」に200人!

 JOC主催の働く青年の祭り「ヤング・ワーカーズ・フェスティバル1994」が5月3日〜5日にかけて横浜の聖光学園を会場に約200人が全国各地から参加して盛大に開催された。
 「ニュー・フェイス 出会い・発見〜広げよう私自身と仲間の輪〜」がテーマ。
 京都JOC、滋賀JOCからは京都が12名、滋賀が8名参加した。
 久しぶりに会う全国の仲間や初めて出会う人達と声をかけ合う中、夜通し車にゆられてきたねむ気もそのときにはふきとんでいた。各地それぞれこのフェスティバルに対する意気込みがずごく伝わってきた。
 その夜は不当解雇され、12年間歌を通して会社と闘い続けている田中哲郎さんのお話コンサートを聞き、交流会へと移っていった。
 4日午前中は分科会形式で各自が何を求めてこのフェスティバルに参加したのかという内容で分かち合いをした。午後からは各グループごとに市内観光を楽しんだ。
 夜はみんなのお楽しみまつり≠ェあり、各地域で仕事が終わってから集まって一生懸命準備した歌や寸劇・踊り・ゲームなど、若者のパワーが爆発!その後の交流会でも夜通し酒を飲みながら交流を楽しんだ。
 最終日は会場の清掃、記念撮影のあと、閉会式で締めくくられた。閉会式では司会者が「閉会は終わりでなく新しい出発。ここで学んだことをそれぞれの場に持ちかえって活かしていこう!私たちはつながっているのだということを確認した。この集まりを新たな出発にしよう。」と励ましていた。
 3日間、たくさんの仲間と歌い、踊り、夜まで話し合う中で「若さでチャレンジしていくこと、人と人とがふれあう楽しさ・競争よりも連帯する大切さ」を体験し、みんなの中で宣言した「未来に向かってチャレンジしよう、若いパワーで社会を変えよう、この仲間の輪を広げよう」を胸に帰路へついた。

 

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