1994/9 No.202

京都教区時報9月号

・だれが…?

・現地学習「京都コース」下見─もうひとつの京都をみよう─

・シリーズ・20xx年の京都教区

・病人訪問の実際(1)

・宣教司牧評議会報告

・特報

・あんてな



だれが…?

 (京都コース現地学習から)

かも川に、沿って、北から南ヘとバスを走らせる。
ぼんやりと、景色は次から次へと流れてゆく

  誰が京のまちをつくったか、
  誰が戦いに勝ち得たか、
  誰が歴史を生かしただろうか、
  と自問しながら。

大工の手、農民の曲がった背中、
武具師の顔が見える。
神社に館に、都の通りをめぐり歩く。
  石屋の家、鍛冶屋の鍛冶場…
  どのようなところで働いていたのだろう、
  皮なめしの職人たちは…
  と自問しながら。

年貢を納められない人の、戦いの血と痛みの、
兵士の、やもめの、母の、子の、
涙を見た。
 そしてもう一度、自問する。
  歴史をつくり
  兵士を食べさせ
  貴族に衣を者せたのは…
  誰か。

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現地学習「京都コース」下見─もうひとつの京都をみよう─

G・I(九条教会)   

●上賀茂神社から
 6月19日、あいにくの雨でしたが20名程の参加者がありました。
 小林丈広さんの知人で京都歴史資料館研究員、在日朝鮮人の人が作っている高麗美術館、研究員でもある古代の日本と朝鮮の関係のことを専門に研究しておられる菅沢庸子さんの説明で、まず賀茂川の上流にある「上賀茂神社」へ行きました。上賀茂神社というのは通称で本当は別雷大神(わけいかづちのおおかみ)といい伊勢神宮に次いで位の高いと考えられている神社だそうです。

境内には百人一首にも詠まれている「楢の小川」の清流が流れており、境内を出ると明神川と名を変え、賀茂川に注いでいます。この小川では「禊」が行われますので潔い流れとされています。したがって、その上流の河原に住んで動物の皮を剥ぐ仕事をしていた人たちがいましたが、川が穢れるということで、平安京時代に、河原に住んではいけないという法令を出し、それらの人々を追い出した。河原という場所は、人が汚いという仕事をしたり、死体を埋葬したりする場所であった。それは古代の思想が、道教や、陰陽道とかの影響を受けていて、道とか河原は誰のものでもなく、開放された空間として、汚れたものが伝染しない場所という思想があったようです。それなのに、「貴」を保つために民衆を追い出すということが権力によって平然と行われていたことを示しています。

●御所
 賀茂川を南に下り、高野川と合流し鴨川と名を変える所にある「下鴨神社」を車中から見学し、「御所」へと向かいました。御所はその昔、神官である天皇が住まいする所であり、天皇が潔いから御所が潔いのではなく、神に仕える者は潔くなくてはならないので、その住まいも潔いものでなければならないと話されました。元々御所は今の場所よりずっと西にあり、千本通りあたりに朱雀大路というメインストリートがあって、そこに今の2倍の広さのもので今の各省庁を含んであったということです。

●水平社宣言
 次に水平社宣言発祥の地である「岡崎公会堂跡」で部落解放同盟七条支部書記長の山内政夫さんの話を聞きました。現在の京都会館別館あたりが水平社創立の地といわれています。1922年3月3日にこの地で全国水平社が創立されたのです。その中心となった奈良、京都、東京の7人(西光万吉、坂本清一郎、米田富、南梅吉、平野小剣、桜田規矩三、駒井喜作)が水平社創立の準備をしました。部落差別を撤廃するという考えは、被差別部落の上流層の人たちが中心になって呼びかけました。水平社創立の評価としては、自分たちが運動の中心になるんだ、自分たち一人ひとりが解放を担っているんだ、という意識が評価されるのではないかと思われます。「部落差別は徹底的に糾弾する」と彼らはいい、この姿勢が部落差別を真剣に考えている人たちの刺激剤となりました。
水平社大会の10日前に大阪の中之島公会堂で、「全日本平等会」という融和団体が創立されました。知事や市長や、中央の政府の人や、被差別部落の上流層の人とかが参加しました。その場所で3月3日のことが宣伝されました。宣伝がうまくいき3月3日には3000人が集まったといわれています。
 大阪で準備集会をしながら、なぜ京都で行われたのかといいますと、京都はその当時、融和運動の中心の地でありました。「エタ」身分の賎民支配に関しては、京都がそうした制度を確立した地だったのです。また東七条という大きな被差別部落を水平社側につけるか、反対側につけるか、創立のときにはかなり綱引きがあったようです。その時代において、水平社創立は大変な勇気がいったことです。西光万吉27歳、坂本清一郎30歳と若い少数の人たちだったのです。

●六条河原
 鴨川をずっと南に下り五条通りを少し越えた所で、京都キリシタン研究会の岡山秋人さんに「六条河原、元和の殉教」(1916年)の説明を受けました。今の鴨川は改修されていて当時の面影はありませんが、河原はずっと東の大和大路(伏見奈良街道)まであったと思われ、その河原に西から東へ一列に27本の十字架が並べられたそうです。その昔、五条大橋は秀吉によって造られた京の七口の一つである伏見口といわれていましたので、京都と伏見や奈良を行き来する旅人の通り道だったのではないかと思われます。その同じ場所に建立された秀吉による朝鮮侵略の勝利をアピールする耳塚を見学しました。
 バスは鴨川をさらに南へ下り七条通りをすぎた所にある「柳原銀行」を見学しました。柳原銀行は1899年(明治32年)に合資会社として設立されました。出資者の大半は柳原町の人々であるといいます。このように地域の人々によって設立された全国でも例のない銀行だったのです。他に銀行はたくさんあったのですが、柳原町民には融資してくれず、町内の経済が悪化していくのにたいして、それなら自らの手で町内の活性化を図ろうとしたのです。このように地区の人たち自らが部落解放への強い意思で設立された銀行を、道路の拡張工事によって取り壊してしまうのではなく、部落問題解決のためのシンボルとして別の場所に移転し後世に残していくことになったと、部落史研究所と崇仁地区の文化遺産を守る会の研究員である前川修さんの話を聞きました。

●「40番地」
続いてさらに鴨川を南に下り、高瀬川が鴨川に注ぎ込むあたり、通称「40番地」を現地学習しました。1920年代、京都で都市計画事業が始まりました。多くの工事のため朝鮮人の働きを必要としました。その後敗戦になり仕事をなくした人たちは京都駅周辺に住んでいましたが、都市整備のため次々と追い出され、この地に集まってきました。すなわち行政の怠慢と不備により、敗戦後の1950〜63年にかけて河川敷に住まいをかまえることを余儀なくされた在日韓国、朝鮮の人たちが多い地区で、現在でもその80%を在日韓国・朝鮮人が占めるといわれています。バラック小屋が並び、行政や周囲の人々は不法占拠といいますが、その歴史をふり返れば、行政の無責任さが浮かび上がってきます。東九条キリスト者地域活動協議会の宇野豊さんの話を聞き、地域の人たちの長年にわたる地道な運動の成果が実りつつあることを知りました。
 各箇所でもっともっと大事な話をしていただきましたが、紙面の都合で「京都コースをひととおり紹介することにとどめました。

●京都・もうひとつの顔
 京都は昔から鴨川を中心に繁栄をしてきた街であり、京都の人は鴨川の水で顔を洗うというぐらいの清流であり、春は両岸一面の桜並木と鴨川おどり、夏は川面の床すずみ、師走は南座の顔見せというように、多くの絵画や小説にも登場してきます。
 今このように鴨川を上流から下流にかけて見てきますと、上流は「貴」なるものの聖域であり、「汚い」といわれるものを下流へ下流へと押し流してゆくという、もう一つの京都の顔が見えてきます。
 顔見せで賑わうころ、年末の各家々は正月を迎える準備できれいに掃除をします。その後始末であるゴミ、古新聞、古雑誌などを満載したトラックはみんな南へ南へと走ります。紅白歌合戦が始まるころ荷を下ろして空になった車が、七条より下の柳原界隈や、あの40番地の河原に続々と帰ってきて、やっと休みに入ります。
 多くの人が知っている観光京都の顔と、もうひとつの顔は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。
[部落問題委員会ニュースレター9月号より転載]


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シリーズ・20xx年の京都教区

1983年度司祭修道士研修会で、小教区制度と共同体についての提言が出されました。今後の話し合いの参考資料になると思いますので、時報87号の記事より抜粋して掲載します。

●小教区制度とは何か

 小教区制度を一言で言えば、分割統治するローマの国家統治制が、教会の組織にも取り入れられた事と、地域社会と大家族制等に密着した農村共同体を理想とする制度が取り入れられた事である。
 しかし、著しい都市化現象を起こしている現代において、これが何か理想(と思っているもの)と現実の間に大きな矛盾を感じさせはじめている。
 尚、都市化現象の主な特徴、農村共同体を理想とする事から来る現実との矛盾(特に小教区において)について、ここに論ずることはしないが、それを考える事はこの問題解決のため、とても大切な事と思われる。

今後の解決への糸口となるための問いかけ

*場所を中心にして考えるのか、人を中心にして考えるのか。
*行政的な区画に従うのか、それとも例えば交通機関等によって所属教会を考えるのか。
*組織や制度を中心にして考えるか、活動や福音宣教を中心に考えるか。
*境内地内(小教区)の司牧を中心に考えるか、境内地外(社会)の福音化を中心にして考えるか。

 私達は決して従来の教会組織、制度、小教区制等が間違っているというつもりは毛頭ない。そこに多くのすばらしい面がある事を認める。しかし又、逆に、それが絶対的なものとして、しがみつくつもりもないし、しがみつくべきでもなかろう。
 とにかく現代にあって、よりよく宣教司牧が可能になるためには、どうすればよいのか考えたい。
 これらの問題は、信徒も司祭も修道者も共に考え話し合っていくべきものである事は言うまでもない。

●基礎共同体とはどういうものか

 研修会に集まった多くの司祭の意見に、基礎共同体的なものを模索してはどうかという意見が強かった。
 基礎共同体とはどういうものなのか。又、それと小教区との関わりはどうなるのかについて、詳しい説明がされねばならない。
 しかし、少なくとも次の様な理解をもっておけばよいのではないか。
 まず、信徒達が、唯一の信仰、唯一のキリスト、唯一の洗礼を基礎として集まる時、そこに最も小さな信仰共同体が集まれる。そこでは共通するものは、この信仰、洗礼、神等、キリスト者としての基本的な事柄だけである。
 この基礎的な共同体において、交わりの中心としてのミサが行われ、兄弟的な交わりが生まれる。
 その中には自ずと中心になる信徒のリーダーが生まれ、そのリーダーを中心にして、社会との交わりを密にしながら、互いの信仰生活を深めていく。
 司祭は小教区教会(基地)を中心に、それらの小さな共同体(基礎共同体)に出かけて行き、ミサを司式し、リーダーに指示を与え(養成し)信徒に直接出会いながら教え導く。

●教会の未来図を描こう

 この考え方によると、建物より先に、人々の信仰における一致の集いが重視される。土地を購入し、建物を造り、教会を作るのは、この人々が必要と考えた時に自発的に生まれて来るだろう。小教区は、これらの基礎共同体の一致の要、基地の様な役割を果たす事になる。そこからおのずと小教区の位置等も変わってくるだろう。
 宣教司牧の他の面からすれば、建物や組織の重要性も叫ばれるだろう。しかし、両者にあるよい面をとらえながら、調和させていく事は出来ないものであろうか。
 この基礎共同体作りが、多くの実を結びつつある事をどうしても見逃す事は出来ない。そこには信徒の使徒職がより明確に、活発にめざめつつある事、召命の芽もそこからより多く生まれて来つつある様である。
 以上の事を頭に入れ、人・場所・活動等の観点から教会の未来図を描き出してみようではないか。

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病人訪問の実際(1)

沼野尚美

 5月27〜29日、売布黙想の家で開かれた信徒使徒職養成・病人司牧コースでの話を2回に分けて紹介します。
 沼野尚美・プロフィール 淀川キリスト教病院、姫路聖マリア病院を経て、現在海星病院チャプレン

●一般的な病人へのケアー

〜誰のために必要か〜
 一つのケースをご紹介します。81才の女性。胃の手術が成功して、順調に回復している方です。この方が訪問時に、次のように話されました。『胃の手術の前日に一人の看護婦がやって来て、一緒に祈りましょうと、祈って頂きました。術後、元気が戻って来た時、神さまに感謝しましょうねと、又祈ってもらいました。始めは有難いと思っていましたが、段々このかかわりが苦痛になって来ました。その人は私が喜んでいると思って、毎日聖書を持って来て読むようになりました』。私は、「何が苦痛になりましたか」とお尋ね致しますと、『看護婦の態度が教えてあげようと言うなまいきなもので、不愉快になりました。クリスチャンは口だけで態度がなっていない。神さんに仕えると言う事は、もっと身を引くものだと思います。伝道する者の欲が入っているように感じ嫌な気持ちになりました』。私は「嫌な思いでいる事を看護婦さんに伝えましたか」とお尋ねしました。『病気で世話になっているので何時もありがとうと嬉しそうに対応し、演じていました。あの人は私の気持ちに気付いていないと思います』。
 このケースで学ぶ事は、患者さんの感性の鋭さと、誰のために必要かです。患者さんは選ぶ事の出来ない狭い空間で、訪問者の語った事を繰返し反復しながら鋭く分析なさいます。私達が、人さまのために何かさせて頂く時、この人のためと思いながら、世話する人の必要が前面に出る事がある。その時患者さんは「ありがた迷惑」を感じるのです。患者さんがどんな場合でも「ノー」と言える空間、逃げ場を作る事が大切です。

●訪問時間と回数

 一回、20分で度々訪問する事はマナーであって、大切な事は訪問の有り方です。一つのケースをご紹介します。Aさんの所にB牧師が、Cさんの所にD牧師の訪問がありました。お二人の面会が終わった後私はAさん、Cさんのお部屋を訪問しました。Aさんは体の状態も悪く面会を心配していましたが、私がお会いした時嬉しそうに顔が輝いていました。そして『B牧師は、私の話をだまって聴いて下さいました。気持ちが楽になり体も軽くなりました』とおっしゃいました。Cさんは疲れた顔で『こんどB牧師がいらしたらどうしてことわろうかと思う。牧師のメッセージも有難い、み言葉も有難い、祈りも感謝します。しかし私の話を聴いてほしかった』とおっしゃいました。この牧師の訪問の有り方の違いは、B牧師は患者さんの状態を良く見て対応なさった。D牧師はご自分が準備なさったメッセージ、み言葉、祈りを全部患者に伝えて帰られた。ここで学ぶ事は、まずこちらの必要はおいて、患者さんの言葉に耳を傾ける、患者さんの状態を良く見きわめて対応する事の大切さです。

●時間の共有

 座って話をするのは目線を合わせる意味の他に貴方と時間を共にするメッセージがあります。
 リハビリの訓練をしている患者さんが、私がリハビリをしているところを見に来て、と言われた事が心に残っていました。リハビリを見に行く事は時間を沢山取られる事なのですが、心に残っている言葉を大切にして見にゆきました。彼女がリハビリを終えるまで見ていて、車椅子に乗せお部屋におつれして帰る時、『今日は沢山の時間を私のために使って下さってありがとう』とおっしゃいました。私達も、何かをしたい、頑張りたいと思っている時、人に側にいてほしいと思う時がある。
 自分の事を一つ話します。私がベルギーに行った時の事です。言葉が通じない、友人以外誰も知った人がいない、あるパーティーに行った時の出来事です。友人も他の人と楽しんでいる。私は一人ぼっち、心の底から淋しさが込み上げて来て涙が止まりません。一人で泣いていました。その時一人の少女がどこからか出て来て私の側に黙って座っていました。その時私にはこの少女がキリストに思えました。何も話せないけど側にいてくれるだけで私の心は安らぎ和みました。この時の孤独の体験は、患者さんに通じるものがあります。

(つづく)

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宣教司牧評議会報

 1994年度第一回定例宣教司牧評議会が去る6月18〜19両日行われた。まず、50周年記念として発足した三委員会の報告があった。

一、資料委員会(目下三名の委員)
 古屋司教の遺品図書の整理をほぼ完了。但し図書目録はまだ出来ていない。しかし次回評議会には間に合わせられるだろう。
 創立50周年記念誌作成の資料の中にも利用価値の高いものがあるので、その資料整理を始める。
 希望として、各小教区・諸活動の資料目録があれば、それをまとめたい。

二、青年センター
 活動については「ジョバニ」を発行しているので参考にしてほしい。発足当時の青年から次の世代に移りつつある。皆さん方にも、青年センターへの呼びかけをお願いしたい。

三、アジア交流委員会(KYOSIA)
 過去4回青年をバングラデシュに派遣した。又、バングラデシュの青年のはり師養成を中国で行った。しかし、現在いろんな点で見直しの時に来ている。第五回目派遣は白紙状態にある。教区の委員会として、今後の方向性について皆さんの意見を聞きたい。

 その後の話合いについて
・補助金申請に関するPR文が間もなく作成される。
・NICE2に関するパンフレットの説明と今後の取り組み。及び、家庭と宣教についての司教団のメッセージンの説明がなされた。
 この課題を教区としてどう取り組んでいくか今後に問われている。しかし、これは教区ビジョン以後の教区の取組みに促したものと考えてよい。
 特に、対話については「パイプのつまり」というテーマの主要課題でもある。今後しばらくは、パイプのつまりについての司教の再諮問に答えるため、これを取上げる事にし、その取組みの流れと意味を、今回の評議会で確認した。
(文責・村上)

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特報

元和キリシタン殉教の碑建立─川端通り正面橋の歩道─

 神の僕188名の内52名は1619年10月6日に六条河原の刑場で、将軍秀忠の気まぐれな死刑命令で、火あぶりの刑で生命を神に捧げた。神の僕とは福者の候補者のことで、京の大殉教の碑が出来たことは京都市民は申すに及ばず、京都の信者にとっては大きな喜び感謝である。
 碑の建立にあたっては10年近くの年月を要した。川は国に、土手は府に、道路は市の管轄にあり手続きは複雑だった。加えて地元三町内の同意も必要で、「京都元和の碑を建てる会」の関係者は大変な苦労と忍耐を強いられた。
 1994年7月26日夕方、田中健一司教によって、建立された碑は祝別された。参加したのは諸般の事情で数名の教会関係者のみでした。
 公共地に建てられた碑である為、宗教行事は固く禁じられており、歴史的な記念碑であるという事になっている。
 この目に見える碑の建立を機会に、京都の信者が一層元和キリシタン殉教者との親しみをもち、一日も早く殉教者達が福者の位に叙せられる事を祈ってほしいと田中健一司教は願っている。
 尚、この京の大殉教についてよりよく知って頂く為、結城了悟著「京都の大殉教」の小冊子を是非読んで頂きたい。

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手話を学びながら

 今回の「あんてな」は青年の具体的な体験談として、鈴鹿教会のK・Uさんに一文を寄せていただきました。
    
 手でコミュニケーショソをとるという、手話に興味を持ったのは、私が高校生の頃です。その時は、格好いい、不思議、表現が豊かというところに魅かれて少しずつ言葉を覚えていきました。短大の進学と共に一時中断してしまいましたが、三年前に市の福祉事務所へ勤めることとなり、再び手話を学ぶ機会に恵まれました。
 私が手話をもっと知りたいと思い始めたのは、一年前から同じ職場で働いている手話通訳の方との出会いからでした。「手話をしたいと思われたきっかけは何ですか。」と尋ねますと、「私達、健聴者はお互い別々の方向を向いていてもお話しできるのね。ものを書きながら、料理を作りながら新聞を見ながら、別々によそごとをしていてもお話しができるよね。でも、聴覚障害者のお話しで使っている手話というのは、必ずお互いが向かい合って伝えているの。それがとても温かいと感じたから…。」と答えてくださいました。それを聴いた私は非常に感動しました。
 通訳の彼女の表わす手話は、イキイキしていて、やさしい気持ちにあふれています。今では、窓口に聴覚障害者が訪ねてくると、「ほら、何か話してごらん。」と通訳の彼女は私に機会を与えてくださいます。まだまだ手話は、カタコトなので、聴覚障害者の方にご迷惑をかけることも少なくありません。しかし、諦めずに私の手話に目を置いて下さり、理解して下さった時は、一花咲くような喜びがやってきます。
 伝えたい、分かりたいという気持ちの大切なことが、彼女を通して見えてきます。「この温かい手話を、これからも大切に人々に伝えていきたい。」彼女は言います。そのような彼女の背中を眺めながら、私も、少しずつ気持ちのこもった熱い手話をこれからも学んでいこうと思います。

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