1995/9 No.214

京都教区時報9月号

・ボランティアを支える

・「京都における戦跡めぐり」に参加して

・信徒使徒職養成コース

・ウィテ神父様、マキロップ神父様 司祭叙階ダイヤモンド祝おめでとうございます

・島本要・長崎大司教を迎えて福音宣教三重の集い

・あんてな


ボランティアを支える

 6月より、中山手の現地本部のボランティアの方たちの食事の世話をするために、京都南部と滋賀の教会の婦人達が、当番制で「生活班ボランティア」に協力しています。一つの教会から、7週間に一回の割合で、2・3名の婦人が中山手教会まで出向いています。

▼大阪教区への震災義援金の報告
 多くの方から義援金を頂いたことをここに感謝致します。6月30日現在の報告です。

総計  27、756、562円
小教区 16、523、470円
修道会  3、659、258円
施設団体 3、076、835円
学校幼稚園2、100、767円
個人   2、396、232円

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「京都における戦跡めぐり」に参加して

カ小山教会 M・W

 今年6月初め、国会で「戦後50年決議」が行われた。
 「…また、世界の近代史における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する…」

 「植民地支配」や「侵略的行為」を行った国がどこであったかがぼかされ、「謝罪」や「不戦」の言葉がない国会決議は、アジアの国々から批判を受けた。
 こうした決議を行うにあたっては、むろん支持する声も高かったが、一方で日本遺族会をはじめとする団体からは、50年前のことが「植民地支配」や「侵略的行為」と決めつけられたり、それを謝罪したりすることは、「英霊」への冒とくであるから、断固決議に反対するという意見が数多く見られ、いまさらながら、過去の戦争に対する思いが人により大きく違うことに気づかされる。

 国会決議から約1ヶ月後、7月9日、カトリック部落問題委員会主催の「京都における戦跡めぐり」の中で、身近なところでの、戦争に対する意識の違いに驚かされた。
 京都市伏見区の藤森神社の境内の記念碑に次のようなことが書かれていた。
 「…歩兵第九、第三十八の両聯隊は、…昭和12年支那事変(注1)勃発するや、北支・中支に転戦し、南京城を陥れ、徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした。歩兵第九聯隊は、昭和16年大東亜戦争の劈頭(注2)比島(注3)に敵前上陸して、バターン半島を席捲(注4)…、光輝ある歴史を閉じた。…祖国を愛し、祖国を護り、進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである。…」(「京都歩兵聯隊跡記念碑建設会」の碑より)
 こうした雰囲気の記念碑は、ここ10年以内に建てられたものも含め、京都霊山護国神社など、京都のいたるところに見ることができた。
 もし、上のような記念碑の文面を中国の人、フィリピンの人が知ったら、どのような気持ちがするだろうか、という思いと同時に、このような記念碑を建てる人々の心情は、どのようにしたら克服されるのだろうか、という重たい問いが残された。
 アジア太平洋戦争で敗戦を迎えるまでの教育の問題も確かにあると思うが、何かそれだけでは片づかないものがあるのでは、という気持ちになった。
 過去の戦争について考えるとき、日本の加害者としての側面を見なければ、アジアの2千万人の命を奪った、あの戦争の問題の全体を考えることには決してならないと思う。
 しかし、当時の日本人として悲惨な時代を生き、あの記念碑のような言葉を残す人々の思いが克服されるためには、どのように考えればいいのだろうか。この重たい問題が解決しないかぎり、二度と戦争を起こさないようにするための、本当の平和運動として広がっていかないのではないか。
 戦争を知らない世代から、戦争を体験した方に大変失礼なことを申し上げたかもしれませんが、今回のツアーに参加して、こんなふうに考えている。

注1 1937年の盧溝橋事件。日中戦争の出発点となった。      
注2 最初という意味。
注3 フィリピン島のことだろう。
注4 むしろをまくように、ものすごい勢いで、かたっぱしから侵略すること。

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信徒使徒職養成コース

九条教会へ出前実施

 カトリックきょうと福音センターでは、5月21日、6月18日、7月16日の日曜日を利用し3回シリーズで、信徒使徒職養成の基礎コースを行いました。今回は、九条教会の協力を得て、センターのスタッフが出張し、日帰りの形で「出前コース」と称して初めての試みで実施しました。

 その理由は、2泊3日も家を留守にしての参加は難しい。参加しやすい日程で、という小教区からの要望と、信仰共同体としての成長の視点から、小教区共同体の現場に出かけて行く必要を実感していたからです。

 3回シリーズの今回の参加者は男性・女性合わせて25名で、8つの小教区からの参加でした。
 毎回、午前10時半から午後4時までの5時間半、信仰共同体・神の家族として学び合いながら共に歩みました。

第1回・公会議の学習とコミュニケーション
 まず、公会議そのものの歴史と、教会の移り変わりを見、日本の教会・京都教区の動きを見ていきました。そして公会議で改革された典礼や諸宗教との対話等から、教会の現代化の必要性と、日本の教会そのものも子供の時代即ち、教えを受ける・受動的信徒から大人の時代・即ち宣教に目覚める教会へと成長していこうと心していることを確認しました。
 午後の集いでは、共同体の基礎となるコミュニケーションの体験学習です。自己紹介を兼ね、お互いを受け入れ易い雰囲気と方法を配慮した分かち合いの訓練を行いました。耳を傾け合うことと分かち合いの意味を話し合いました。

第2回・教会と信徒
 「教会と信徒」をテーマに、教会が信仰者の集いであり、教会は神との交わりと全人類の一致のしるしである。教会は道具であり、秘跡即ち目に見えるしるしであることを確認し合いました。そして、私たちは「神の民」であり、その特徴は、「一・キリストを頭とし、ニ・神の子の自由の身分を受け、三・神の国実現を目指し、四・互に愛しあい、五・小さな群れで、六・常に新しくされ旅をする民である」ことを通して、私たちが旅する教会の歴史の中で信徒の役割が大きく変わった事を見ていきました。
 午後は、教会とは何か・理想の教会と現実の教会について小グループで話し合いました。

第3回・信徒の奉仕職、特に聖体奉仕者・集会司式者について
 この日は、司祭と信徒の教会での役割と、一人一人に与えられている奉仕職、即ち、カリスマについて考えてみました。その中で教会における奉仕職として聖体奉仕者・集会祭儀の司式者について取り上げました。奉仕者の意味とその心構えの中で、分かち合える共同体の大切さを強調、みことばや生活の糧や悩み喜び等を分かち合える共同体は集会祭儀の意味する内容だからです。
 司祭がいないから集まらないというのは共同体か?という問題の投げかけは、家庭集会・集会祭儀の可能性ニ何らかの示唆を与えたように思う。
 この日の午後は、みことばの分かち合いの実習、最後のミサの準備として、各グループで、みことばを読み合い、味わって、思いを述べ合いました。そして、ミサの時、司祭のお説教の場の代りに、各グループから発表の形で分かち合いをし、コースのしめくくりをしました。

 今回のコースは初めての試みでありましたが、教会で起きている現象だけで小教区をとらえていたが、教会の歴史の流れの中でわかりやすく学習できたことは本当によかったと、参加して下さった方が感想を述べて下さり、センターとして実施した甲斐がありました。
 福音宣教共同体へ成長していけるような教会共同体の学習が大切だと痛感しています。教会や地区の必要に合わせて皆さんの協力を頂きながら企画して参りますので、希望される地区はどうぞ連絡して下さい。

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ウィテ神父様、マキロップ神父様 司祭叙階ダイヤモンド祝おめでとうございます。

 ウィッテ神父略歴

1910年6月13日 米国インディアナ州リッチモンド市に生れる
1929年     メリノール宣教会に入会
1935年6月16日 司祭叙階
1935年8月24日 来日
1935年〜1937年 大津市にて日本語勉強

1937年〜1941年 彦根教会主任司祭
1942年6月   戦争のため本国へ送還される
1943年〜1946年 中米グァテマラにて宣教
1947年〜1950年 彦根教会主任司祭
1950年〜1955年 伏見教会主任司祭
1955年〜1956年 メリノール宣教会北アジア管区会長
1957年〜1958年 メリノール宣教会北海道地区管区長代理
1958年〜1961年 ニューヨーク メリノール宣教会総長顧問
1962年〜1966年 メリノール宣教会日本管区長
1967年〜1968年 南米ボリビアにて沖縄移民のため宣教司牧
1968年〜1976年 米国ロスアンゼルス・リトル東京にて司牧
1976年11月〜  上野教会主任司祭
1990年4月〜  上野・名張両教会主任司祭
1993年9月〜  名張教会主任司祭


マキロップ神父略歴

1910年12月11日 米国ニューヨーク市ブルックリンに生れる
1924年9月   メリノール宣教会に入会
1935年6月16日 司祭叙階

1935年8月   来日
1935年〜1937年 大津市にて日本語勉強
1937年〜1941年 西陣教会主任司祭
1942年6月   帰国
1943年〜1946年 メリノール小神学院院長(カリフォルニア)
1946年〜1948年 東京にてララ救援物資活動に従事
1948年〜1954年 メリノール宣教会日本管区長
1948年〜1951年 高野教会主任司祭
1951年〜1954年 京都司教代理
1954年4月   帰国
1958年〜1968年 米国ロスアンゼルス・リトル東京にて司牧
1968年〜1974年 衣笠教会主任司祭
1974年7月〜  松坂教会主任司祭


ウイッテ神父の人柄
     名張教会 T・I

 去る6月11日、神父様の司祭叙階六十周年記念ミサと祝賀会を行ないました。
 さて、ウイッテ神父様の公的な足跡は別記の略歴のように輝かしいものでありますが、個人的なお人柄につきましては改めて申し上げる必要もないと思いますが、一言つけ加えさせていただきますと教会での神父様の存在は信者にとって「父親的存在」で、子供たちにとっては「やさしいおじいちゃん」として信頼と尊敬を集めておられます。
 神父様のご生活は聖書のみ教えを身をもって実践され、すべてを口(言葉)でなく、態度(身)をもって私達に示されご指導下さいます。特に神父様は祈りと清貧の徳を大切にされ、自己に厳しく、他人には寛大で信者の尊敬の的であります。私達信徒一同は立派な神父様に恵まれている事を神様に感謝すると共に、少しでも神父様のご意向に近づく事が出来るよう努力し、当名張小教区が益々ファミリー的なまとまったキリスト共同体である小教区にしたいと念願しております。

マキロップ神父とモルガンの母
    衣笠教会 N・K

 母が35年ぶりに日本に帰国した時は、もう支那事変が始まっており、あまりよくない状態になっていました。私達は時々河原町教会のミサにあづかり、バーン神父やシスター達ともお知合いになりました。だんだん戦争もはげしくなり、外国の神父はほとんど本国にお帰りになりましたが、バーン神父は高野教会に軟禁と言うことになり、私が母の代りによくお伺い致しておりました。
 終戦後神父も次々と日本にお帰りになりましたが、私達が頼りにしていたバーン神父は朝鮮へ行かれることになり、神父は私達の事を心配して後の事をすべてマキロップ神父に頼んで下さいました。当時私達は教会へは時々行ってましたが未信者でした。マキロップ神父は或日シスターを紹介して下さり、「今日から教理の勉強をしましょう、そうして身も心もやすらかになり、後の事は全部神様のみむねのままにお任せしましょう」と言われました。そうして1年後、松ヶ崎のメリノール修道院で洗礼を受けました。

マキロップ神父との忘れ得ぬこと
   大阪夙川教会 C・I

 1948年8月京都ドミニコ会の中にメリノール女子修道院があった頃、マキロップ神父からニ才の長女と共に受洗のお恵みを頂いた。その折幼児洗礼について一つの忘れられないエピソードがある。私の受洗については何の反対もしなかった夫が娘の洗礼については、本人がはっきりした意志を持つまで待つ方が良いのではと言い出した。
 高野教会に居られたマキロップ神父が夫に会って下さることになり、「あなたは医者でしょう。患者さんを治療する時、自分が最良と信じている方法によって治療するでしょう。それならば親が子供に最良と信じるものを与えるのは当然でしょう」と。
 何と適切なことを言って下さったのでしょう。この神父の一言に理屈っぽい夫が、そのお人柄と説得力に素直にイエスと言ったことは、後に続いた二人の子供の幼児洗礼もスムーズにお恵みを頂くことになり、計らずも後に主は私の一番願っていた夫にまで洗礼のお恵みを与えて下さった。感謝。

マキロップ神父の思い出
     高野教会 CKO

 マキロップ神父に生命を助けて頂いた信者、未信者の多かったこと。終戦後の日本は、まだまだ結核が蔓延していました。結核は今日の「癌」と言われるのと同じ位死を意味する病気だったのです。結核患者は健常者と隔離され、心身共にまいってしまう人が多かったのです。その人々に頼まれては誰彼と区別することなく、ストレプトマイシンを下さったのです。その頃日本にはストレプトマイシンはありませんでした。
 肺に空気を入れる治療。悪い処をとる手術。等々をしても治らなかった人々が、この薬によって治られた方々の喜びはいかほどだったでしょうか。健康になられて教授になられ、後進の指導に当られた人。「日本の能」を皆に理解されるようにされた方々。多くの方の感謝の声がきかれます。
 灰皿に、ドント・スモークとかかれた灰皿をもらわれてすぐに煙草を止められた神父様。60年もの長い間私達のために尽して下さった神父様。これからもどうぞ元気で神様のために御働き下さい。

最近のマキロップ神父
    ウィチタ聖ヨゼフ修道会 シスター林冨美

 時の流れは早くマキロップ神父が松坂へ来られてもう20年以上の月日がたちました。
 教会から約6キロ余り離れたところに今私が働いている老人ホームがあり、開設以来23年の歴史を歩いています。その間殆ど毎日のように御自分で車を運転され、御ミサに又その他のためにおいで下さいました。ここ2年程前より白内障が進行し、昨年より運転中もしものことがあると、との上長の方の御配慮で車も手放され、朝はお迎えのタクシーで御ミサに、そして帰りはホームの職員がお送りするという形で週に5日、ホームとケアハウスに入院してられる方々、そして私共のためにおいで下さっていました。
 御ミサのお話も信仰を深め、隣人愛に生き、人々のために祈るようにとその日その日に心をこめて話して下さっています。神父は宣教師として来日されて以来、日本の人々の霊魂の救いのためにたくさん祈り、霊的な助けを与え続けておられます。

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島本要・長崎大司教を迎えて福音宣教三重の集い


島本要・長崎大司教を迎えて福音宣教三重の集い
   コイノニアである教会をめざして

 去る6月25日、鈴鹿教会において「福音宣教三重の集い」が開かれた。島本要大司教の「コイノニアである教会をめざして」と題した基調講演をもとに、各自の教会をコイノニアの視点から考え、互に語り合う集いであった。
 午前10時のミサから始まり、県下の9教会と3修道会から集まった150名以上の参加者は、午後3時まで実り多い一日を過ごした。
 講演は最近教皇が出された使徒的書簡「紀元二千年を迎えるに当って」の中から、歴史の節目に立つ教会の動きに関しニ点を取り上げて話された。

一、教会の本質

 神の摂理によって開かれたバチカン公会議は、教会の自己理解を目的として行われたのであり「教会とは何か」即ち「教会の本質」を明らかにしたのである。その本質とは
(1)コイノニアである教会
 聖霊による三位一体との一致、聖体(キリスト)との一致、信仰共同体との一致が教会である。
(2)祈りの集いである教会
 様々な祈りの場があるが、中心はミサであり、これに参加することが信仰の本質である。
(3)福音宣教する教会
*みことばの宣布。人々を信仰に招く。
*キリストが望まれる社会づくり(社会の福音化)
 以上の本質を理解し、その使命に生きること。

ニ、回心

 ふさわしく第三千年紀を迎えるに当って、教会の過ちに対する回心が必要である。
(1)教会の本質であるコイノニアを歴史の中で損なったこと。十一世紀の教会内の分裂の例。
(2)歴史の中で真理への奉仕を教会が果たすべき際に、不寛容で暴力的な行使を黙視したこと。
(3)信仰を守らないことや曖昧な宗教心に対し、教会は鋭敏に対処せず黙認したこと。
(4)いのちと愛の絆である家庭について価値観の崩壊を防ぐ対応をしなかったこと。
 以上の過ちを素直に認め、悔い改めの努力を惜しまないことが大切である。
 紀元二千年に向かって、コイノニアである教会をどのように作っていくのか。公会議は二つ勧めている。
(1)参加することの大切さ
 根本的にはミサへの参加によって聖体的共同体を作る。キリストを拝領して、信者は相互に受け入れる。典礼活動、福音宣教活動、信仰教育、司牧活動などに積極的に参加することの重要性。
(2)対話することの大切さ
 司教、司祭、修道者、信徒が相互に対話し、声を聞き合って養成し合うことの重要性に気付く。

 以上によってコイノニアが実現すると信者の中に責任感が強められ、熱意が育成されて、宗教的にも世俗的にもより適切な判断ができるようになり、キリストによって委ねられた救いのみ業(福音宣教)をより効果的に果たすことができると、大司教は熱意を込めて語られた。
 午後からは各各グループ討議によって、大司教の語られた教会の本質であるコイノニアを深め合い、その実現に努力していきたいと決意を新たにして散会した。

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本当に若者は教会を離れているのでしょうか?!
         津教会・Y・Y

 若者の教会離れをよく耳にする今、私は若者の一人として、その問題について考えてみました。
 確かに、御ミサにあずかっても年々「若者」という人は減っているかもしれません。私が高校生だった頃(約10年前)には、中・高校生の集まる会があり、夏には合宿、冬には街頭募金活動、その後のクリスマス会というのはとても楽しみでした。
 でも、はたして本当に若者は教会を離れているのでしょうか?!私事で恐縮ですが、しっかり私も短大時代に教会から離れていました。その頃サークルでやっていたESSの英語劇に力を注いでいたりと、忙しかったのも一因だったかもしれませんが、行かなくなった時、久々に顔を出して皆に受け入れてもらえるだろうか…と思ってしまい、自分の居場所がきちんとあるサークルにのめり込んでしまっていました。それでも私はカトリック信者をやめたわけでもなく、教会から離れるという意識は全くありませんでした。
 今日、久しぶりに、中・高校生の頃仲良かった子とバッタリ教会で会いました。私は御ミサで彼女の顔は最近見なかったし、教会から離れている一人だと思っていました。しかし、彼女は週一回神父さまから勉強を教えてもらっていて、青年センターの発行しているGiovaniの愛読者だったのです。御ミサも、土・日曜日はなかなか用事があって行けないとの事、金曜日の夜にも御ミサがあると教えてあげたら、是非行くとのことでした。
 だからと言って決して、今カトリック教会の中で若者が頑張っている!!というわけではありませんが、信仰から離れているというわけでは全々ないと思いました。
 今年の夏、津教会で若者のためのワークショップをします。何人の参加者がいるかとドキドキしていましたが、20人前後の参加はありそうです。
 9月からは、土曜日の御ミサの後、新しく来られた神父さまに、タガログ語講座を開いていただきます。
 今、教会に来ている若者で、「教会から離れている」若者の居場所を作るという事もとても大切な事だと思います。

 

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