1996/9 No.226

京都教区時報9月号

・細川ガラシア

・チリだより〜基礎共同体作りを通して〜

・今、問われる教育とは─全人教育と真人教育─

・紀元二千年をめざしての五カ年計画(1)

・福音センター養成コース

・あんてな

・教区信徒連絡協議会の報告



細川ガラシア

  

 細川ガラシア。本名、玉(珠)子。明智光秀の次女で細川忠興の妻というのはあまりに有名である。

 1582年、父明智光秀の本能寺の変により、夫忠興によって竹野郡弥榮町三戸野(みとの)に幽閉される。1584年豊臣秀吉に許されて復縁するまでの2年間、丹後の山深い三戸野で過ごす。非常に真面目な性格といわれる彼女が夫によって幽閉され、逆臣の子として汚名をきせられ過した2年間は大いにつらい毎日であったと思う。

 幽閉がとけ復縁した彼女は高山右近の教えを夫より聞き、1587年夫に内緒で侍女マリアの手により洗礼をうける。幽閉生活は彼女に「救い」について考えさせたのではないだろうか。幽閉からの解放、汚名回復への救い。などなど。そして、復縁後のキリスト教との出会いは真に深い救いの教えとの出会いではなかったかと思う。

 夫の反対にも負けず、「信仰はすてない」と言いきったと言われる細川ガラシアは、その静かなイメージとは異なり、強さを感じる。彼女のひたむきさ、何か一つ主義主張をもった生き方に学ぶところがあるのではないだろうか。

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チリだより〜基礎共同体作りを通して〜

カロンドレット聖ヨゼフ会 

ちょうど12時間の差がある海のむこうで、日本の家族や友人たちに思いをよせています。そして、皆様の祈りと温かい友情とご支援に感謝しています。私の毎日の仕事は、ポブラシオンの人々の訪問と会議に出席することです。これから、2回に分け皆様方に私がしています奉仕活動を報告したいと思います。

●ミッション・ヘネラル 〜基礎共同体づくり〜


 「Mision Heneral」(ミッション・ヘネラル)とは、3年目を迎えるタルカ教区の基礎共同体作りのことです。この共同体作りは、地区内の一区画を二人づつがペアになって、家庭訪問し、信仰の分かち合いをし、それを通して互いに知り合い、神の子であることを確認し、信頼を深め合ってゆくというものです。昨年には、大人も青年も子供たちも全てが参加するようになりました。そして今年、ミッションを準備するメンバーたちから、「ミッションは地区の中で一番疎外され、貧しい地区から始められることになっている。私たちは『サン・ミゲル・デル・ピヅコ』に行きます」と告げられた。一つの拍手が聴こえ、最後には全員が拍手喝采で決定するという感動的なことが起こりました。

●ポブラシオン・サン・ミゲル・デル・ピヅコの訪問を始めて


 『サン・ミゲル・デル・ピヅコ』は先に述べたとおり、貧しいだけでなく、カルロス・ツールプ地区が抱えているすべての問題を持っているポブラシオンとして、私たちの地区に住む人々にさえ、そこに近づくことを恐れられているところです。アルコール中毒や薬物中毒の青年や子供たちまで路上をぶらつき、けんか、どろぼう、殺人などの犯罪から家庭内暴力にいたるまで、常に何かが起こっている中心的地区なのです。
 私たちは約500の家族を対象にして訪問を始めました。私は共同体「友イエズス」の高校生男女2人とモアニに属する1人の子供とともに家庭訪問を始めました。一番最初に私たちを受け入れてくれたのは若い主婦でした。彼女と立ち話をしていると酔っぱらった主人が帰ってくるという、典型的なポブラシオンでの場面も迎えてくれました。2回目の訪問では、家の中に入りました。そこには兄弟の一人が床に毛布をかぶって寝ていましたが、彼女は壊れた大きなテレビを指し、どうぞと勧めてくれました。私たちはそこに腰かけ、聖書の分かち合いをしました。
 七番目訪問したマリアの家では、大きなベッドが一つあり、その上に衣類が山積みになっていました。彼女は子供3人と夫婦という5人家族です。部屋はこの他に半坪ほどのトイレと台所があるだけですが、マリアの心の中からあふれてくる喜びの表情は私を魅了しました。
 訪問3回目に私たちを招き受け入れてくれた家族、大人ばかり5人が一同に集まりました。この人たちは近くに住みながら言葉もかわしたことがなかったのですが、その日のテーマ「放蕩息子のたとえ」の箇所を通して深い分かち合いができたのは私にとって大きな恵みでした。そして、分かち合いを通して幼児期から生きるために働き続けている厳しい人生の重みを知り、また心が揺さぶられました。

●私を回心へと呼びかけるもの


 私たちはこのミッションを通してポプラシオン・サン・ミゲル・デル・ピヅコに住む人々の生活の悲惨さと、それにもかかわらずそこに生きる人々の心の輝きに触れ、その光に心のめまいを覚えました。そのめまいは今もって私を回心へと呼びかけ続けています。
 第三世界に奉仕する宣教者は、そこの貧しい人々を助けるという概念がすぐに脳裏に浮かんでくるのですが、私はそれよりももっと大事なことは、現地の人々と人生のひと時をともに歩み、経験を分かち合い、人と人とのきずなを少しでも築いていくことだと思います。ミッションを通して私が出合った人たちは、「自分の家を他の人が訪問してくれた」と分かち合ってくれました。私はこのミッションの中で一番嬉しかった一言です。

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今、問われる教育とは─全人教育と真人教育─

奥村一郎神父(カルメル会)の講演

 聖母教育文化センターで、今年も公開講演会が6月8日に開催されましたので、要旨を紹介します。講演会全文は秋に発行される「聖母教育文化センター報No3」に、掲載される予定です。ご希望の方は、お申し込みください。
 連絡075(641)0507聖母文化センター事務局

●全人教育の崩壊


 全人教育と真人教育というのは、じつは20年前、聖母短大の皆さんと一緒に働いていたころに出したテーマなんです。しかし、その意味するものは、今もやはり変わらずにあります。
 この20年間、とくに去年は、人間の能力を超える天災、人災、そして宗教界をゆるがす出来事がありました。神が、それらの事から何を私たちに読み取るように訴えておられるのかさえ考えるのは難しいことです。しかし、読み取らねばならないことが何かある、と思われて仕方がないんです。
 これまで日本は全人教育でやってきた。体育、知育、徳育の三つ揃えといいましょうか、人間を完全な形でとらえ、バランスのとれた教育をしてゆく。とくに学校教育はそれです。その結果、科学も経済も非常に成長したには違いないが、受験競争も出てきたし、落ちこぼれの問題も生まれた。今、いじめの世界ともなって出てきているのでしょう。
 全人教育で、立派な人間というか、偉い人というか、力ある人、才能ある人を育てることはできたかも知れない。しかし、箱だけ作って中身がないというか、仏作って魂入れずというか、一番大切な生きた人間ではなく、死んだ人間ができてしまう可能性があったのではないか。秀才でありエリートである人たちが引き起こしたオウム事件の中に、全人教育の完全な崩壊をわたしは見るのです。

●本当の人間


 ところで真人教育についてですが、真人という言葉は中国の『荘子』という古い本に出てくるわけで、それが禅の思想の中に取り入れられた。どういうことかといえば、『本当の人間』ということ.それだけだと思うんです。だが、本当の人間とは何なんだ、ということになる。その手がかりを考えてみようと思います。
 20年ほど前のこと、『大きな木』という童話絵本が話題になりました。実も枝も幹も、人間に与えて与え尽くしたリンゴの木の話なんです。それをヌヴエール愛徳修道会のシスターが、桃山教会の土曜学校で子ども達に読んであげた。すると、一人の男の子がワッと泣きだして『ぼくは一生懸命やってるけど、ぼくには心がない』といった、というんですね。
 それを聞いて考えさせられた。もしわたしがこの坊やの心を表わすとすれば、二つの言葉で表わすことができるのではないか。ひとつは『いのち』という言葉。そしてもうひとつは『自分』という言葉ですね。その坊やにしては、ぼくは生きているようだけれど〜一生懸命やっているんですから〜ぼくは死んじゃってんだ。生ける屍なんだ、と言うくらいの。そこで涙がこみ上げて来たんじゃないかと思うんです。『よい心』がないんじゃなくて、命がないということです。

●人間であること


 もうひとつは自分ということです。ぼくは一生懸命やってるけど、もう自分が自分でないんだ。なんかまるで他人に動かされているようなロボットのような自分なんだ。自己喪失ということですね……
 いまカルチャーセンターの講座はすごい数です。自己喪失してしまった現代人が、さまざまな方法で自己実現をはかっている……
 ふとそのとき聖書の一番気になることばが不意に頭に浮かんできたんです。
 『自分の命を保とうとするものはそれを失い、わたしのために自分の命を失う者はそれを見出す』
 『一粒の麦、もし地に落ちて死ななければひとつにとどまるものを、もし死ねば多くの実を結ぶ』
 『あなたたちが自分の命を憎まなければ……』非常に強いことばです。
 どんな人間も、ただ人間が人間であるということだけで、どれほど深い神秘を持っているものかということ。そのことを聖書から読み取らねばならないでしょう。

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紀元二千年をめざしての五カ年計画(1)

 教皇ヨハネ・パウロ二世の呼び掛けに答えて、紀元二千年の到来を迎えるにあたって、各小教区・各施設・各団体で五カ年計画を作成されています。取り組みの早いところ、ゆっくり取り組まれてるところがあります。
 11月23日に、それぞれから提出されたものが印刷物で配布されますが、教区時報でも順次紹介致します。

安曇川教会(滋賀)


◆1996年のテーマ
 信仰の証し。教皇様もクリスチャン・私もクリスチャン
▼1996年の課題
・世間の人達が抱いているクリスチャンのイメージは?(7月〜8月)
・信徒から見たクリスチャンらしいクリスチャンとクリスチャンらしくないクリスチャン(8月〜9月)
・踏絵を踏んだ人と踏まなかった人。その時あなたは、私は?(10月〜11月)
◆1997年のテーマ
 イエス様との出合い
▼1997年の課題
・受洗のきっかけ(1月〜2月)
・どんな時にイエス様に出合ったか(2月〜4月)
・ルカ福音書の第四章を深める(5月〜6月)
・イエス様が期待されるクリスチャンとは(7月〜9月)
・ミサに行きたい!でも、ゆっくり朝寝坊もしたい……!(10月〜12月)
◆1998年のテーマ
 部分はたくさんあっても体はひとつ
▼1998年の課題
・第二バチカン公会議の教会論の理解(1月〜3月)
・聖霊によって与えられるさまざまな才能と賜物について(4月〜8月)
・聖霊の働きを感じる時(9月〜12月)
◆1999年のテーマ
 御父の愛と私の愛
▼1999年の課題
・「神は愛」。建前と本音(1月〜3月)
・「他人をもわが身のように愛する」ことが出来ますか?(4月〜7月)
・よき隣人とは(8月)
ゆるしの秘跡の認識と現状(9月〜12月)
◆2000年のテーマ
 イエスの誕生を迎えた人達と二千年のクリスマスを迎える私達
▼2000年の課題
・なぜキリスト教はカトリックとプロテスタントか…?(1月〜3月)
・二十一世紀の幕開けを安曇川教会で迎えませんか……?安曇川地区の人達への働きかけ(4月〜12月)

ウィチタ聖ヨゼフ本部修道院


 「二十一世紀の福音宣教に向かって」というテーマについての分かち合いのまとめ(部分掲載)
・私たちの修道会が全員で1994年からずっと討議してきた「質の高い修道生活」を生きるために、日々各々が現在も今後もゴールとして努力を続けている。
・修道会として行っているアソシエイトの方々とのかかわりを通して福音宣教をしているが、本当に祈りたい人々に場所を提供する事もできる。
・信仰の分かち合いを通じて、人々を深く理解しかかわる事もできるので、今続けている聖書クラスなどは大切にしていきたい。
・さゆり会(賛助会員)の毎月の集まりで、シスターと会員がよく話し分かち合っているのでこれも続けられるよう望む。
・私たちが現在実際に行っている毎年の目標の作成、これを3ヶ月毎に見直し評価をしている事は、すなわち信仰の見直しともなっている。
・貧しく精神的に孤独な人々が多い現代、修道院の中でこれらの人々の話しをよく聞いてあげられるシスターがいる事は良い助けとなる。
・修道女となってから、他者に対して忍耐をもつようになり、その接し方においては常にキリストの証人である事を意識の上におくようになり、信仰においては常に神に心を向けるようどんな細かい事にも神の御力を仰ぐよう習慣とした。
・私共の養護学校が職員や先生たちに行っている福音宣教をすべての施設が出来る範囲で…仕事を始める前に小さな祈りで始めるとか(既に行っている所もある)その職場に合わせてやるのが良い。

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福音センター養成コース


(福音センターでは、信徒使徒職養成コースとして、基礎コースをはじめ、さまざまなコースを行ってまいりましたが、今回「新企画」として「福音センター養成コース〜社会の中でキリスト者をする〜」を宇治・津の二会場で行いました。「新企画」としたのは、司祭主導型の教会から信徒中心の教会へかわるべき時に、信徒自らが創り出し、学んでゆける新しいコースであるからです。

 内容は以下の通りです。


・イエスが新聞を読まれたら
 エイズと闘う市民運動家、ベッチーニョさんの記事をキリストのまなざしで読み、考える。
・キリストと共に町に出る
 イエスを案内する気持ちで二人一組になって町に出て、イエスの目で町を見て、感じたことを分かち合う。
・ビデオ「ロメロ」
 極限状況の中で、キリストの福音に生きるとはどういうことかを自分の問題として考える。
 これらのプログラムの間に講義や分かち合いを挿入し、参加者同士の交わりと深め合いの中で、社会の中で福音を生きるとはどういうことかを探しました。

★参加者の声


●一人一人のちがいが分かった
 私は、養成コースを受けた黙想の家に向い、途中どんな事をするのか、させられるのか、とても不安でした。2日間のスケジュールの中で決められた課題について、決められた時間内に話し合い、意見や感想を一人一人が述べ、ある人がまとめを発表する。発言力の弱い私にとって、大変な事でした。3日間が終り、振り返って見れば、課題に対し、言うだけ、聞くだけ、見てるだけでは話し合いは進まず、一つの課題でも、一人一人受け取り方も見方もちがうことが改めて分かりました。(R・I)

●社会にどう関わるか考えられた
 初めて参加した養成コースで、充実した2日間を過ごしました。「イエスが新聞を読まれたら」に始まり、ビデオ「ロメロ」のパネルディスカッションに続く流れの中で、キリスト者として社会にどう関わるか、また日本の教会、私達の教会の現状について改めて考えさせられました。プログラムが一方的に与えられるのではなく、参加者の働きかけにより作り上げられるようになっていたのが良かったと思います。(Y・Y)

●集まりが教会だと感じた
 初めて養成コースに参加して、驚くばかりの恵みを神様からいただきました。一番の恵みは、人との出会いだと思います。いろいろな所から、年齢の異なった人、そして一つの目的で集った人々。その目的はキリストを知り、伝えることだと思いました。その集まりは、私達の教会が今誕生したという感じがしました。
 キリストがいつも私達と共におられ、働いておられることに感謝!(S・K)


 これからの時代、教会の中で信徒が自立し、自分で考えてゆくことが求められています。こういった養成コースばかりでなく、信徒が共に考え、作ってゆく養成はこれからますます大切になってゆくのではないでしょうか。共に教会の未来を考えてゆきましょう。

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リーダー合宿に行こう!!

 『リーダー合宿』ってなに?と言う声が聞こえてくるような気がします。何のための合宿なんだろう。お答えしましょう。皆さんは、広島体験学習や春・夏・冬の合宿をご存じでしょうか。「行ったことある。」とか「子供が参加したことがある。」などと思われる方もおられるでしょう。京都教区の中学生を対象としたもので毎年行っているものです。
 広島は、実際に広島へ行って肌で平和とは何か、今自分に何ができるかというものを考えてもらおうというものです。合宿は、毎回テーマを決め、分かち合いをするというものです。そのときに中学生と一緒になって考え、分かち合いをし、事故が
無いように引率するのがこの『リーダー』というものです。
 リーダーは、主に高校卒業し合宿に参加する暇のある人が(実際は暇を作って)協力して担当しています。本番の合宿の日まで準備をしたり、どうすればみんなが楽しんでくれるのか考えたりといろいろと大変です。
このようにリーダーが行動していく上で、先ほども指摘しましたが、リーダー同士の協力というものが必要不可欠ということになります。リーダー間の意思疎通がうまくいっていないといけないわけです。そんなわけで、リーダー間のコミュニケーションを謀るために行われたのがリーダー合宿なのです。ここでもう一つ疑問になりませんか?終わったことにもかかわらず表題は『リーダー合宿に行こう』となっていることです。これにはちゃんと理由があります。若い人にリーダーをして欲しい!ということなのです。現在リーダーとして活動している半数以上が今年度大学卒業或いはすでに就職済みという状態なのです。今はリーダーの活動が楽しいからというだけでできるがこれからはそういうわけにはいきません。というわけで興味を持った方は青年センターまでご連絡ください。(M・K)

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教区信徒連絡協議会の報告

 毎年各地区を回って開かれている教区信徒連絡協議会が、7月20日に三重県の研宗館で開かれた。大塚神父、京都南部信徒協、京都北部、滋賀、奈良、三重各地区のカトリック協議会の役員及び三重地区の小教区の信徒、修道者、司祭を含め48名参加した。会議終了後一致を祈願してミサが捧げられ、その後懇親会があった。

  ***会議内容***


1、紀元二千年を目指して、大塚神父から大聖年の意味、大聖年の準備と祝典についての解説
2、11月23日の準備状況について。教区大会に向かって司祭評からの話し合いのテーマがきて話し合いは進めているが、小教区で一つにまとめた計画を出すことは困難、むしろまとまらなくても話し合いのプロセスの方が大切だという意見があった。
3、各地区カトリック協議会の状況について。当初から信徒と修道者と司祭で組織していた滋賀、奈良は名称を変更。京都北部と三重は地区協議会を発足した。京都南部は努力中。信徒の自主的な組織が無くてもいいのだろうかという疑問がなげかけられた。

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