聖地案内

  黄蛇坪(ファンサーピョン)聖地
  ◎金耆良(キンギリャン)殉教碑
  ◎外国人宣教師功績碑
 ■観徳亭(カントクジョン)
 ■ 大静(デジョン)聖地
 ■ 黄景漢(ファンギョンハン)墓所
 ■ 金大建(キムデゴン)神父漂着地
 ■ 三墓所恵みの小山


黄蛇坪(ファンサーピョン)聖地


 黄蛇坪(ファンサーピョン)墓域は、辛丑教難時に犠牲になった殉教者らが葬られており、聖職者と信徒らの共同埋葬地として使用されているカトリック聖地である。チェジュ道に初めて福音が伝わったのは1898年道民の主体的努力の結果であった。
 その後、1899年パリ外国宣教会と韓国人各1名の聖職者が派遣されて司牧活動を始めることになり、チェジュカトリック教会は公式的に創立された。
 そのうちに1901年辛丑教難という思わぬ事件が発生したのである。この不幸な事件の原因は端的に指摘できない複合的な要因が絡んでいた。
 王室内蔵院より派遣されて来た奉税官の過多なる租税徴収により道民の憤りの声が高くなり、奉税官の小作管理人に利用された一部信徒らが住民の誤解を招く行動を取ったという点も指摘できる。加えて、巫女らの厄払いによる道民らの精神的・経済的被害と妾を持つなど非倫理的風習に強力に反対する教会に対して、土着勢力の既得権争いも主要原因として作用した。このような原因で立ち上がった民軍たちは奉税官に対する抗議、不当な租税徴収と収奪の是正を要求し済州城へ進入した。事件が起きると奉税官は逃亡してしまい民軍たちは攻撃の対象を教会側に向けた。こうして700余名の信徒と良民らが観徳亭(カントクジョン)において虐殺された。事態が収まり遺体は別刀峰と禾北川の間の麓に捨てられ埋められた。教難の収拾に立ち上がったフランス公使は、朝鮮朝廷に信書を送り共同埋葬地に対する迅速な解決を要請した。1903年済州の牧使洪(ホン)ジョンウと具馬悉(クマシー)司祭との接触によりフランス公使と朝鮮朝廷との円満な交渉が行われ、同年光武7年4月に朝廷より黄蛇坪(ファンサーピョン)を譲渡された。
 当時別刀峰(ピョルトポン)の下に埋められた犠牲者のうち縁故がある墳墓はすでに移葬され、無縁者の遺体だけがここに埋葬された。26基の墳墓に28遺体であった。黄蛇坪(ファンサーピョン)は、約18,000坪(59,400u)であり1984年に公園墓地として造成し、垣根石築工事、聖像建立、殉教者たちの墓を並葬するために移葬する工事などを進めた。
 その後、済州宣教100周年記念事業として新たに作り直した。1995年に申アウグスティノ在俊、金トマヨンマン、梁(ヤン)ユンギョン等、当時殉教者28基を合葬した。
 そして、現ハロルド大司教を含めた聖職者らの墳墓を移葬祝福し、1866年丙寅(ビョンイン)迫害の際、慶南(ギョンナン)統営(トンヨン)で殉教した金ギリャンフェリックスペトロの殉教碑をここに建立した。
 私たちは、この聖地を参拝し、信仰者としての先輩たちの深く堅い信仰の精神を心に刻んでいきたいものである。

◎金耆良(キンギリャン)殉教碑


 黄蛇坪(ファンサーピョン)殉教者墓域内部の右側に建てられている、金ギリャンフェリックスペトロはこの地方出身で初めて受洗した人である。チェジュ道に司祭が入道して公式に宣教活動を始める43年前に神の子になった彼は、この地に信仰のきっかけを作ろうと熱心に力を注いだがついに荘厳な殉教をもって神に栄光を捧げた。ハンドク里出身で、貿易業をしていた金ギリャンは、1857年西海で風浪に遭い中国広東海域まで漂流してイギリス船に救助された。香港へ行った彼は、ここに来ていたペナン(penang)神学校 朝鮮人神学校の教えを受けて受洗した。1858年に帰国した彼は、ソウルでペロン(peron)権神父と崔良業トマス神父に出会い教会書籍を手に入れ済州道に帰って来た。ふるさとに帰った彼は、救いの真理を広く布教することに力を注ぎ40余名を受洗させた。
 金ギリャンは、この信徒たちを司牧する神父の派遣をベルネ張司教に要請し承認を受けた。しかし、1866年丙寅迫害によってこの約束は成し遂げられなかった。迫害の真っ最中、彼は新しく信仰を学んだ者に洗礼を授けようと本道に向かった時、統営(トンヨン)の海で官憲に逮捕される。酷い拷間で胸に大釘を打たれる処刑方法だったが、絶命する時まで堂々として神を証ししながら、ついに壮烈な殉教をして神の御胸に抱かれた。
 金ギリャンは、命を捧げ神を証しする模範を示した私達の信仰の先達である。彼は今日を生きる私たちに永遠の信仰の光を灯し、この地方に救いの道を拡張して行く灯火になることであろう。

外国人宣教師功績碑


 黄蛇坪(ファンサーピョン)殉教者墓域の左側に造成された聖職者墓域に建てられている。1899年に公式設立されたチェジュ教会は草創期の困難のなかにも、外国人宣教師たちの血のにじむ努力により基盤が出来た。
 異国の遥か遠い地済州道で、宣教活動により福音の種を蒔くことに献身したのは、パリ外国宣教会と聖コロンバン外国宣教会所属の聖職者たちであった。100余年の間チェジュ道では、55名の外国人司祭たちが司牧活動をしたが、その間に召された16名の名前が功績碑に刻まれている。

観徳亭(カントクジョン)


 いにしえのチェジュ市の中心部である三徒2洞にある。国宝第322号に登録されている。
 1901年辛丑教難の際に、この広場で多くの信徒及び良民たちが命を奪われた。
 朝鮮の地に福音の曙光が射し始めた18世紀以降100余年にかけて続いた残酷な迫害は、多くの信徒たちの命を奪った。彼らの血と涙は、この地の隅々に根を張り今日の韓国教会を花咲かせる肥やしとなったのである。
 1886年、韓・仏条約を契機に迫害政策は幕を下ろす。しかし儒学的伝統や因習に馴染んでいた当時の朝鮮では公の迫害が終わったにも拘わらず、すぐにはこの現実を受け入れられなかった。地方では、小規模事件が地方官吏や儒者たちによって頻発し、ある事件はその規模が公な迫害を上回る例もあった。
 これは地方官吏と信徒間の紛争や信徒と庶民間の紛争という形で表れた。
 例えば、忠清道(チュウンチョンド)、牙山(アサン)、全羅道(ジョンラド)、黄海道(ファンヘド)のチャンヨン、江原道のイチョン等の地では継続的な教難事件が発生した。
 腐敗した官吏と頑固な儒者たち、或いは巫女の因習に染まった地方民とカトリック信者との衝突がついには迫害という様相に変わり、地域によっては大規模な民難として現れた。
 その中の一つが1901年に発生したチェジュ道の辛丑教難である。地方官吏と既得権を主張する豪族勢力、それに日本人、密漁業者らの結託によって誘導された。
 この事件は、中央政府の租税政策、即ち朝廷より派遣された奉税官が、あらゆる雑税を払わされることに不満を抱いた庶民らを扇動して、収奪政策の是正を要求する民難から出発した。
 しかし、事件が進む過程で道政責任者と奉税官は逃亡し、乱民たちは攻撃対象をカトリック教に向けた。これには一部の信徒が奉税官と結託し不正を行った事も原因のひとつにあったであろう。しかし、フランスの神父を打倒しようとする日本人の陰謀、因習に染まった豪族勢力、そして生存を攻められた巫女らの作用が決定的な原因であったに違いない。こうして済州市に侵入した民軍たちは、信徒を含めた良民など700余名を殺害するに至った。この由緒ある観徳亭(カントクジョン)の前の広場が刑場に変わったのである。
 事件が収拾する過程で当時フランス艦隊長が撮影した写真には、信徒たちを殺す時に使用した道具(鞭など)が遺体のそばに置いてあり当時の惨状を物語っている。
 この時犠牲になった信徒たちの遺体は、その後、別刀峰の麓に仮埋葬されたが、現在は黄蛇坪(ファンサーピョン)に安置されている。

大静(デジョン)聖地


 信仰においては不毛であるこの地で鄭蘭珠(チョンナンジュ)マリアは、受難して復活されたキリストに対する証し人として、信仰の模範を示した人である。彼女は、1773年慶州(キョンジュ)本貫鄭若鉉(チョンヤクヒョン)と慶州(キョンジュ)本貫李氏の間に生まれ幼名を命連といった。早くからカトリックに入信し、宣教に力を注いだ当代最古の実学者、若鐘(ヤクジョン)、ヤクヨン兄弟が彼女の叔父であり、母はわが国の信仰の聖祖である李檗(イビョク)の姉であった。
 黄嗣永(ファンサヨン)と結婚した彼女は、1800年に長男景漢(ギョンハン)を生んだ。夫である黄嗣永(ファンサヨン)は1775年に生まれ、弱冠16歳で初試、17歳で復試を受け科挙に主席で及第し正祖大王から褒められ学費の免除を受けたほどの秀才だったが、カトリック教を信仰することで現世的名利には背を向けた。
 中国人神父周文謨(チュムンモ)から受洗した彼は宣教に力を注いだが、1801年辛酉(シンウ)迫害が起きると忠北(チュンプ)堤川(テェテヨン)のベロンに身を隠し、いわゆる黄嗣永(ファンサヨン)帛書を書いた。
 迫害の実情を記述したこの帛書は、北京のクベア司教に発送する直前に発覚し、黄嗣永(ファンサヨン)は大逆罪人として同年陰暦11月5日に西小門(ソソモン)の外で虐殺されて殉教した。
 その結果、母李ユンヘは巨済島(コジェド)に、妻である鄭マリアは済州道(チェジュド)に、息子の景漢(ギョンハン)は楸子島(チュジャド)にそれぞれ配流された。
 鄭マリアは、1801年陰暦11月21日2歳になった息子を胸に抱いて配流の途に着いたが楸子島(チュジャド)に着いて幼い息子と生き別れる痛みに耐えた。楸子島(チュジャド)に隔離された息子は、猟師の呉(オ)氏によって下楸子島(ハチュジャド)で育てられ、その子孫は現在楸子島(チュジャド)に住んでいる。
 済州道へ奴碑として配流された鄭マリアは、大変な試練を信仰の力で耐え忍び、豊富な教養と学識で住民たちを教化し、奴碑の身分にも拘わらず「ソウルおばあさん」と呼ばれ、隣人に慕われながらこの地に住んだ。信仰だけを唯一の慰めとし37年間神に捧げた生き方を貫き1838年、陰暦2月I日病気により生を終えた。彼女を慕った隣人が遺骸をここに埋葬した。
 鄭マリアの生き方そのものが、福音の教えを実践する信仰の証しの連続であった。私たちは彼女を「信仰の証し人」として追慕しながら、チェジュ宣教100周年記念事業のひとつとしてこの墓域を新たに飾り聖域化した。彼女の生き方は、私たちの信仰生活に新たな決断のきっかけを与えてくれる永遠で貴重な指針になることであろう。

黄景漢(ファンギョンハン)墓所


 1801年辛酉(シンウ)迫害の際殉教した黄嗣永(ファンサヨン)アレクシオと済州へ奴婢として配流された鄭蘭珠(チョンナンジゥウ)マリア夫婦の息子である黄景漢(ファンギョンハン)の墓所である。イェチョリ南の割合に低い山の中腹尾根に位置している。
 黄嗣永(ファンサヨン)は1775年有名な南人家門に生まれ、16歳の時、進士に合格するほどの秀才だった。しかし、1790年周文謨(チュムンモ)神父から受洗した後、世俗的名利を捨て、1801年辛酉(シンウ)迫害が起きると彼は忠北(チュンプ)の舟論(ベロン)へ身を隠し、いわゆる「黄嗣永(ファンサヨン)帛書」を書いた。この帛書を北京のクベア司教に送ろうとしたが発覚し、逮捕され大逆罪人として処刑された。母李ユンヘは巨済島(コジェド)へ、妻である鄭マリアはチェジュ道へ、そして2歳であった息子は楸子島(チュジャド)にそれぞれ配流された。
 鄭マリアは1773年有名な南人であり信者家門の鄭若鉉(チョンヤクヒョン)の娘として生まれ、幼い時から熱心に信仰生活をした。1790年18歳の時に16歳の黄嗣永(ファンサヨン)と結婚し1800年息子の景漢(ギョンハン)を生んだ。1801年2歳の息子を胸に抱いて配流の途に着いた。
 鄭マリアは楸子島(チュジャド)にたどり着き、息子が一生を罪人として生きていくことを心配し、乳飲み子をイェチョリの海辺の岩に置き去りにし、船頭には死んだので水葬したと告げた。
 チェジュ道に配流された彼女は37年間豊富な教養と学識で住民たちを教化し、奴婢の身分にも拘わらず「ソウルおばあさん」と褒め称えられ慕われながら1838年に召され、現在大静(テジョン)聖地に眠っている。
 岩に置いた黄景漢(ファンギョンハン)は、その泣き声を聞いた猟師の呉氏によって育てられ、後に結婚して二人の息子が生まれた。今、その子孫たちが下楸子島(ハチュジャド)に住んでいる。そして、楸子島(チュジャド)では黄氏と呉氏が結婚しない風習もできた。海辺の岩で泣いていた2歳の幼子はここに眠っている。そして東に見える海に出っ張った岩が2歳の子供が捨てられ泣いていた場所である。
 今、済州教区では、ここを新しく整備し聖域化する計画を立てている。

金大建神父漂着地


 済州道輸京面龍水里浦口は、韓国人最初の神父であり殉教聖人たちの先駆者である聖金大建(キムデゴン)アンドレアが上海で司祭叙階を受け、帰国する際に西海の海で風浪に遭い漂着したところである。助祭の時、一時帰国した金大建(キムデゴン)神父は船舶を購入し「ラパエル号」と名づけ、1845年4月30日この船に乗って今の仁川(インチョン)港を離れ上海に行った。そして同年8月17日金家港(クンガハン)教会でペレオル司教により司祭叙階を受ける。
 8月31日朝鮮入国のためペレオル司教、ダヴィルィ神父、金大建(キムデゴン)神父、信徒及び船員など14名が乗船した「ラパエル号」は上海港を出港した。出港して3日目に西海の海で風浪に遭い、漂流中9月28日ここ龍水里浦口に漂着したのである。ここで2〜3日の間船を修理し食料を補給して10月1日ここを離れた一行は1O月12日金剛下流羅岩(ナバウィ)に到着した。済州宣教100周年推進委員会では、学会の権威有る専門家に依頼してラパエル号の救助を確認して150余年前の船形を復元した。
 そして、この龍水里浦口にラパエル号を停泊させ、1999年ここを巡礼地に宣布した。
 聖金大建(キムデゴン)神父の行跡を振り返り彼を追慕することは、済州教区の次元を越え韓国教会全体の課題といえる。教区では今後、龍水里浦口近隣敷地に800坪(2,640u)規模の記念館を建立する計画を立てこれを推進している。
 私たちは、殉教者たちの崇高な精神を今日に甦らせるため真心と努力を注がなければならない。

三墓所恵みの小山


 三墓所は3個の奇生火山で囲まれた蓮池という意味である。ここを祈りと黙想の場所に開発し、1991年10月28日に祝福式を行うことで「三墓所恵みの小山」は完成した。教区では、毎月第1土曜日の聖母信心ミサ、第3木曜日の聖体信心ミサを定期的に行っている。そして、毎年5月と1O月の第3木曜日には「聖母の夜」と「ロザリオの祈りの夜」の行事を開催している。
 恵みの小山の構造についての概略は、先ずルルドの聖母洞窟が挙げられる。ルルドの聖母出現を再現し構成されており、洞窟の中には祭壇が揃っている。そして山上湖をひと回りしながらロザリオの祈りを15連捧げられるように造られている。
 未だ「光の神秘」の奥義が宣布される以前に構成されたので15連である。三つの峰のうち東にある峰は十字架の道行を黙想するようになっている。
 済州教区信徒の祈りの根拠地であり、旅行客も愛と恵みに満たされる所である。

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